第33話 「困ったわねぇ、で、今度の相手は?」

文字数 1,633文字

 銀閣寺道を東に入った閑静な住宅街の一隅でタクシーを降りた綾乃は急ぎ足に自宅の通用門を潜った。街は既に夕暮れに包まれ、所々に灯を点した家が在った。
玄関の鍵が開いていた。
あらっ、鍵を懸け忘れたのかしら?・・・まさか・・・
足早に玄関ホールからダイニング・キッチンへ入ると、暖簾の向こうで母親の志乃と小学生の博之が夕食を食べていた。
「あら、お母さん、何時来たの?」
「そうね、二時間ほど前やったかな」
「晩御飯のお惣菜まで作ってくれたの?」
「ああ、冷蔵庫に在ったものを適当に見繕って、亜紀さんに手伝って貰って、ね」
「そう、有難う。で、亜紀さんはもう帰ったの?」
「定時で帰って貰ったよ。あたしが居るから大丈夫よ、って言って・・・」
亜紀さんと言うのは通いのお手伝いさんである。
「それにしても、こんなに遅くまで、何処へ行っていたのさ?」
「お母さん、うち、もう死にたいわ」
「何言っているの、子供の前やないの!」
志乃が綾乃を窘めた。
綾乃は食卓の椅子にぐったりと凭れ掛かった。
志乃は冷蔵庫の方へ立って行き、ビールを一本取り出して綾乃の前に腰掛けた。
「まあ、一杯ぐっと飲んで元気をつけなさい」
そう言ってグラスにビールを注いだ。
「おおきに」
綾乃はひと息に飲み干した。
息子の博之がお茶を呑み終わって箸を置いた。 
「ご馳走さま」
「何や、もう終わったんか?直ぐデザートにするか?」
「デザートは、今は要らんわ。テレビの始まる時間やし・・・」
「そうか。そんなら向うの部屋でテレビ観て来ぃ」
「うん」
博之は直ぐにダイニングを出て行った。
その後姿を見送った志乃が綾乃と向き合って訊ねた。
「と言うと、又かいな?高之さん」
「死にたい、死にたい、お母さん、本真にもう死にたいわ」
「困ったわねぇ、高之さんも・・・で、今度の相手は?」
「それが嫌なのよ。玄人ならまだしも、会社の社員なんやもん」
「でも、どうして解かったんや?」
「あの人の不用意さにも呆れるわ。お茶屋の請求書の袋の中に女からの逢引きメモを入れたまま、放り出して置くんやから」
「会社で何をしている人なの?」
「高之の秘書をしているの。中野優香と言って、すらりとした立ち姿で、知性的な顔立ちの十人並みの美女なのよ」
志乃が再びビールを注ぎながら訊ねた。
「いつ頃からなの?」
「もう三カ月になるらしいわ」
綾乃は渋面で答えながらビールを呷った。
「然し、な。高之さんのあれは病気やわ。多分、死ぬまで治らへんやろ」
「うちを最後まで上手に騙し通すだけの才覚が無いのやったら、浮気なんかする資格は有らへんわ」
「そんなこと言うても、とことんまで騙し通されたら、惨めなもんやしな」
「それもそうやけど・・・」
「ま、あんたも長女として店を背負った運命と言うか、其処のところは辛抱せんと、な」
「そやかて・・・」
「業界と一緒にじり貧やった“たつむら”を、和装小物や洋装とのコラボで今日風な経営に改めて成功させたんは高之さんやしな」
「そりゃ、龍村の養子はんはきつう遊ばはるけど、仕事は物凄く切れる男やと、世間の評判やけど、どうしてうちがそれの犠牲にならなあかんのや?」
「で、高之さんは今、何処に居はるの?」
「ニューヨーク」
「えっ?」
「あの人の考えた新しい紅型染をアメリカのドレスに取り入れる取引のことで・・・」
「いつ帰って来はるの?」
「知らん」
「でも、凡その見当はついているやろ?」
「出かける前は二十日間の予定やったけど、いつも、出たら鉄砲玉みたいに帰らへん人やし・・・二十日間なら明後日やけど・・・」
「然し、なぁ。女ひとりで生きて行くとしたら、想像以上に大変よ」
「・・・どうしてあの人の浮気とうちの妊娠が重なるんかしら?」
「えっ?」
「うち、カーっとなって、あんな男の子供なんか産んでやるもんかと、夢中で堕してしもうたんや、また」
「で、高之さんは知って居はるの、そのこと?」
「未だ言ってないけど・・・」
「ふ~ん。ところであんた、その女の人と逢ったの?」
「勿論や。正面切って会うた、今日・・・」
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