第50話 梨乃、再び嶋木に救われる

文字数 2,696文字

 確か、あの人、嶋木って言う名前だったなぁ・・・
嶋木は梨乃と目を合わせなかったが、しっかりと彼女を見詰めてはいた。
 そうこうしている内に、バーにはどやどやと客が入り込んで来て、あっという間に三つのテーブルが埋まり、続いて五人連れの若い女性がやって来た。彼女たちは椅子やテーブルをあちこち動かして賑々しく喋り始めた。店の前に車が数台停まり、口髭を生やした二人の若い男が、三人の若い女を連れて入って来た。
その時、誰かがテレビに映る野球の試合に歓声を上げ、氷を砕く器械がひときわ大きな音を立てた。
その間も、嶋木の視線はずう~っと梨乃の姿に注がれたままだった。
 彼女はウェブ・ピアスと言う作曲家が書いた「バック・ストリート・アフェア」とリッキー・スキャッグスの曲を一曲唄いながら、先ほど入って来た口髭の男と女たちのテーブルから湧き上がる嬌声を耳にした。
 ウエイトレスがせかせかと忙しそうに注文を取り歩き、客たちは皆、お喋りに熱中していた。店の中には会話と騒音が大きな唸り声となって充満し、その間にも新しい客がどんどん入って来た。
 梨乃は、もう、誰も自分の歌を聞いていないことを感じていた。
一体、どうしたら私の歌を聴いてくれるのかしら?わたしにはもう判らないわ・・・
子供の頃、未だ宇治に住んで居た時分には、家のリビングでよく唄ったものだけど、あの時は、家族は勿論のこと、近所の人達も一所懸命に梨乃の歌に耳を傾けてくれた。そんな時、梨乃はいつも古くて哀しい「ジャニー・ギター」を唄い、聴いている誰もが見る見る涙を流したものだった。今ここに座っている見ず知らずの人達にもそんな風に自分の歌を聴かせられたら、どんなに素晴らしいだろう・・・梨乃は祈るような気持で唄っていた。
次に「デスペラード」を唄い始めた。その美しいメロディーは唄いながらも時々声を詰まらせるほどにも感動的だったが、梨乃は右前方で、口髭の男が仲間に長い話を滔々と語り聞かせているのをちらりと見た。
男は一枚のナプキンを拡げてテーブルの仲間たちに見せていた。
「ジャンプ!」
男がそう叫んだ。一緒に居たテーブルの仲間たちがどっと笑った。
「ジャンプ!」
 梨乃はその場から逃げ出したくなった。唄うのを止めてスツールから起ちあがり、この場所からどこか遠い処へ行ってしまいたいと思った。然し、彼女はそんなことはしなかったし、出来もしなかった。彼女は、バーやレストランで唄う時にはあらゆることに耐えなければならなかった。それが条件でさえあった。酔っ払いや意地の悪い人間やチンピラ共にもじっと我慢しなければならなかったし、詰まらない下らない歌のリクエストにも応じなければならなかった。そういうことを十分に色んな関係者から警告されていたし、バーで唄うと言うことは、つまりは、こう言うことを全て承知の上のことだったのである。従って、梨乃は、一応はちゃんと「デスペラード」を唄い終わったが、つくづく自分に言い聞かせずにはいられなかった。
私は二十一歳、然も、ちゃんとしたプロの歌手。何が有っても、ただ唄い続けることが大事なんだわ・・・
ぱらぱらと疎らに聞こえた拍手に応えた後、彼女はビートルズの「アイ・ラブ・ハー」を唄い始めた。
これなら聴いてくれるかもしれない。今までの曲は少し複雑過ぎて、聴くのに退屈な音楽だったのかも知れない。歌詞にもメロディーにもビートにも馴染めなくて、そっぽを向いていたのかも知れない。だから、喋繰ってばかり居たんだわ、きっと。今度はビートルズよ、これなら誰だって従いて来られるだろう・・・
 だが、口髭の男が大声で笑い出して、その笑いを強調するように、掌で思い切りテーブルを叩いた時、梨乃は丁度、ビートルズの曲の二番の歌詞に入ったところだったが、彼女の歌は、その瞬間に、ぴたりと止まってしまった。歌詞の続きはもう出て来なかった。梨乃は明らかにパニック状態に落ち込んでいた。あらゆる記憶が何処かへ飛んでしまっていた。
 
 その時、彼女は嶋木が椅子から立ち上がるのを見た。彼はその長身を左右に揺らしながら、椅子を後ろに引いた。
あの人、あんなに大きかったかしら?・・・
彼は口髭を生やした男たちが座っているテーブルにゆっくりと歩み寄り、テーブルの上から連中を見下ろした。
男たちは些か不安げな微笑を口元に浮かべながら彼を見た。
店の中は依然としてざわついていたが、梨乃の耳には言葉の一つ一つがはっきりと聞こえた。
「お前ら、歌を聴かないんだったら、さっさと此処を出て行きな、おい!」
口髭の男が躰を斜めに構えて言った。
「おい、言っとくがな、此処はダイニング・バーだぜ。俺たちゃ、食い物に金を払っているんだ。静かに大人しく食え、って貼り紙でもあると言うのか?」
嶋木は手をテーブルに置くと、もう片方の手で男の胸座を掴み上げた。
「おい、良いか?静かにしろ、歌を聴け、と言っているんだ。解から無ぇのか?」
若い男が意気がって、抗った。
「此処で喋ったら、警察に突き出す、とでも言うのか?」
「おい、若造!出来ないと言うんなら、この灰皿を口に咥えさせるぞ!」
嶋木は若い男の頬を強かに叩き、更に言った。
「あの娘は良い歌手だ、然も、飛切り歌が上手い!」
口髭の男も若いチンピラも、そして、店に居る誰もが皆、嶋木の気勢に呑まれて黙り込んだ。
彼は振り向いて梨乃の方を見ると、唇をしっかりと結んで頷き、親指を立てた。
 元の席へ戻った嶋木は、テーブルの上に置かれたグラスを口に運んだ。
梨乃は「ジャニー・ギター」をもう一度、唄い始めた。彼女の声にはこれまでの人生の数々の思い出がたっぷりと含まれていた。彼女はゆっくり、ゆっくりと心を込めて嶋木への感謝をその唄に籠めた。
 
 梨乃は唄い終わると嶋木の席へ行った。
「有難うございます!お蔭で気持ち良く唄えたわ」
「なぁに、俺は別に、大したことをした訳じゃ無いよ」
「いえ、今日と言い、先日と言い、二度にも亘って助けて貰いました。お礼に一杯ご馳走したいんですが、受けて頂けますか?」
「俺は他人の驕りは受けない主義だが、一杯だけならまあ良いだろう」
彼はそう言うとウエイターを手招きして酒とグラスを命じた。
嶋木は無口だった。自分から喋ることも、梨乃に縷々と聞き出すことも無かった。
 暫くすると、ウエイターが傍へ近づいて来て、彼に何事かを耳打ちした。うん、と頷いた彼は立ち上がって言った。
「俺はこれで失礼する。君と再会出来て愉しかったよ。まあ、しっかり頑張れよな」
梨乃は彼の後姿がバーから消えるまでじっと見送った。彼女にはその活かった肩が昂然としているように見えた。
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