第46話 由紀江の心を刺したのは、夫と麗子のことであった

文字数 1,819文字

「わたしの頼み方が悪かったの、ご免なさい」
由紀江は麗子に済まなそうに詫びた。
「申し訳無いわね。私があんなお願いをしたのがいけなかったのね」
麗子は寂しそうに眼を伏せた。
「ううん、そうじゃないの。私の話すタイミングと話し方が悪かったのよ。彼の気持は良く解かっていた心算だったけど、やっぱり考えが浅はかだったのね。だから、一度、ご主人に自宅へ来て頂いたらと思うのだけれど・・・」
「でも、それでは尚、お怒りになるんじゃないの・・・」
 麗子がそう言いかけた時、玄関のドアを手荒く開けて中条秀一が帰って来た。そして、麗子が立ち上がる前に、ふらついた足取りで彼は部屋に入って来た。昼間から少し酔っているようであった。2LDKの狭いマンションでは互いに身を隠す余地は無かった。
「お帰りなさい。此方、私の学生時代の友人で佐藤由紀江さん」
「佐藤と申します。お邪魔致しております」
由紀江は椅子から立ち上がって丁寧に頭を下げた。
が、中条は、あっそう、とでも言うような眼で由紀江を一瞥しただけで、初対面の挨拶も碌に交わさずに麗子の脇に座った。
「あなたに黙っていて悪かったけれど、私、この由紀江さんにあなたの再就職のお世話を頼みに行ったの。そしたらね、由紀江さんのご主人が、あなた直々に一度来て頂きたい、と仰っているんですって」
「勝手なことをするな!」
中条はいきなり麗子を叱りつけた。
由紀江は吃驚して眼を上げた。客の前で有無を言わさず妻を叱りつける無作法さに呆れた。
何日だったか、学校帰りの門前で引き合わされた時とは様子がまるで違っていた。ハンサムなイケメンだった面影は、とげとげしく痩せて陰鬱な表情だけを際立たせている。眼にも光は無かった。
「失礼だが、君のご主人は、俺の知るところでは、あの大日本ケミカル㈱に勤めているのではないですか」
中条は見下ろすような眼で由紀江を見て、言った。
「はい。そうですが・・・」
「やっぱりそうか。多分そうだろうと思った。あの佐藤ですか」
中条はふっふっふと嘲るように鼻で笑った。
「だから、自分自身で頼みに来い、なんて言ったんだよな。彼はさぞ得意なことだったろうよ、はっはっはっは」
「あなたは家の主人をご存知なのですか?」
「ああ、知っているよ。俺と佐藤は幼稚園から高校までずっと一緒だったんだ、同じ京都教育大の付属でね。俺は優等生だったが、あいつはずっと下の方だった。有名私大に合格したのはまぐれみたいなものだな。尤も、俺は現役で国立大学へ入ったがね」
「まあ」
由紀江は中条の失礼な物言いに呆れて言葉が出なかった。
「俺だけじゃない、この麗子も佐藤をよく知っているよ。端的に言うと、奴は麗子に振られたんだよ。麗子は佐藤を嫌って俺と結婚したという訳だ。あいつは随分と熱心だったらしいがね」
「あなた、そんなことを今、言わなくても」
「黙っていろ!」
驚いて止めようとした麗子を叱り付けた。
「お前もお前だ。わざわざ選りに選って、佐藤の所へなど再就職を頼みに行くこともないだろうが!恥を曝すだけだ、馬鹿者!」
中条が乱暴に喚いた。
「帰って佐藤に言ってくれ。俺はお前に憐れみを請うほど未だ落ちぶれては居らん、とな!」
 
 由紀江は夢中で飛び出した。
中条の辛辣な言葉が胸を刺していた。が、それ以上に由紀江の心を刺したのは、夫・隆史と麗子のことであった。夢にも知らなかったことだった。まさか隆史と麗子が嘗て恋愛関係にあったなんて・・・
考えてみれば、あの頃、麗子が振ろうとしている私立大学出の化学会社社員が居ると聞いたことがあったが、まさかそれが夫・隆史だったとは・・・
そうだ、だから彼はあんなに不快な顔をして怒ったんだわ。そして、あんなに怒ったところを見ると、彼は未だ麗子のことを忘れずに居るんだわ、きっと・・・
 由紀江は頭がくらくらした。今日までの信頼し合った落ち着いた幸せな生活が、その底に隠れている秘密で、砂のように崩壊して行くのを感じた。
由紀江は思わず両手で顔を蔽った。
夫が麗子を、あの麗子のことを・・・
 由紀江は帰り道も忘れて歩き続けた。
静かに平穏無事に育って来た由紀江の心は、この大きな衝撃によってずたずたに引き裂かれた。世間の家庭で起こっている不幸な出来事は、自分達だけには起こるまいと信じていたその幸せが、同じように底深く不幸を孕んでいたのだ。今までの平穏な生活はもう二度と帰っては来ないだろう。
ああ!・・・ああ!
由紀江は何度も低く呻き声を上げた。
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