第45話 リビングでは、夫と友人が碁盤を前に対峙していた

文字数 2,019文字

 リビングでは、夫の佐藤隆史と友人の沢木耕治とが熱心に碁盤を前に対峙していた。
二人は大学の囲碁研究会で知り合って気持を通わせ、それ以来、卒業後もずっと親しい交際を続けていた。月に一、二度、休日にどちらかの家を訪問し合って何局か碁を打ち、その後は有り合わせの材料を見繕った肴で酒を酌み交わして、お互いの仕事のこと、会社のこと、人生のこと、将来の展望等々を、胸襟を開いて語り合う、そんな交際であった。
 唯、碁風は隆史と沢木ではかなり違っていた。
「こいつはね、奥さん。あまり勝負に拘らないでいつも楽しそうに碁を打つんですよ。実戦は実に堅実で辛抱強く、そんなに我慢して大丈夫なのかとこちらが心配になるくらい辛抱強いんです」
「それで攻めが甘くなってしまうんだよな」
「そして、負けても悔しそうな顔一つ見せないんです」
「そんな性格だから碁力はあまり伸びないのか?」
「反面、誰からも好かれる。こいつを見ていると、上達だけが大切なのではない、と心底、思わされますよ」
 由紀江は、沢木がこの前やって来た時に言っていた言葉を思い出して、麗子の依頼事を隆史に頼んでみようと考えていた。
「何処かにゼネラルマネージャ候補になるような有能な人材は居ないだろうか?うちの会社はここ十数年で、M&Aを繰り返して急成長したものだから、開発者や技術者は大勢居るんだが、どうも皆、専門馬鹿みたいなところが有って経営管理のマネジメントが上手く行かない。知識と能力が有って、その上に、将来は経営管理の中枢を担えるような人材は居ないだろうか?」
確か沢木はそう言っていたと、由紀江は記憶している。
 盤上は今、沢木が窮地にあるようで、彼は盤面にのしかかるようにして、一心に手を読んでいる。
由紀江は目顔で夫に微笑み、コーヒーセットをサイドテーブルの上に置いて、そっとその場を退いた。
 由紀江は自分を幸せだと思っている。麗子の話を聞いてからは、尚、その思いを強くした。
学問に没頭した大学教授の父と、その父を家庭内で献身的に支えた母の手で、暖かい中にも厳しく躾けられた由紀江は素直で温和な飾らない性格に育ち、知性と品性を備えている。聖母マリアを模範と仰ぎ敬愛するカトリック系の女学園で知育と徳育を受けた由紀江は、人に共感し人を受容する感性豊かな女性に成長した。彼女は、人と自分、物と自然の全てに敬意を持って向き合い、心を開いて人や社会に対して敏感な感性を培うよう、毎日心がけて暮らしている。
 二年前に結婚した夫・隆史も誠実で暖かい人柄であった。有名私大の卒業であれば頭脳明晰、知能レベルも高い筈であるのに、そんなことはこれっぽっちも感じさせない率直で泰然とした人物であった。結婚生活は極めて平穏であり、何の奇も無く衒いも無く、信頼し合った落ち着いた日々が続いている。
「由紀江、酒の用意を頼むよ」
隆史がダイニングキッチンへ顔を出したのは、それから一時間余りが過ぎた頃だった。
由紀江は予め準備をしておいたオードブルとウイスキーボトル、それにウォーターポットとグラスをワゴンに載せてリビングへ運んだ。
夫とその親友はにこやかかに和やかに歓談していた。二人とも如何にも楽しそうであった。
「これと言って特別なものもありませんが、どうぞ、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
由紀江は沢木に穏やかに微笑みかけて、その場を退いた。由紀江は二人の男同士の話に入ることは極力控えている。彼女は意識してそうしていた。それは実家の両親の在り方と同じでもあった。
 更に一時間余りが経った時、夫の声がかかった。
「沢木が帰るって」
玄関へ見送りに出た由紀江に、沢木は何度も礼を言い、丁重に頭を下げて帰って行った。
客を送り出した後、隆史は少し疲れた様子で、由紀江が出した番茶を旨そうに口に含みながら雑談を始めた。由紀江の労を労う気遣いがありありと見て取れた。
麗子の話をするなら今がチャンスだ・・・
そう思った由紀江は徐に切り出した。
「わたし一寸、お願いが有るのだけれど」
隆史は直ぐに、解かった、という顔付きで聞いて来た。
「先ほど来た、客のことか?」
「ええ。わたしの女学校時代の友達なんだけど、今、とっても困っているみたいなの」
由紀江は麗子のことを詳しく話した。
隆史は黙って聞いていたが、麗子が親の反対を押し切って中条秀一と結婚したという辺りに来ると、不快そうに眉を顰めて顔を由紀江から背けてしまった。
「そういう訳で、二人はこれから生まれ変わった心算で再出発しようとしているらしいんだけど、何処か良い就職口が有ったらと思って・・・」
「それで、俺に、その世話をしろと言うのか」
隆史の口調は由紀江が吃驚するほど厳しかった。
「男が再就職するのに、妻に縁故を頼らせるなどとは男の風上にもおけない、情けないことだろう。誇りも矜持も無くしたというのか?本当に就職の世話を頼みたいのなら本人が自分で頼みに来るべきだろう。そんなこと簡単に引き受けるものではない」
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