第36話 綾乃は、唇を噛み締めて、高之に抱き込まれて行った 

文字数 1,667文字

 龍村家の通用玄関口で、秋田専務に送られて帰って来た高之を綾乃が出向かえた。
「いつもご苦労様です」
綾乃は専務に儀礼的に挨拶した後、高之に向かって言った。
「迎え酒を呑んで来はって、昨夜の二日酔いはもう宜しいんですか?あんた」
「う、うん・・・」
「秋田はん。この人、夕べ、あたしの青山の従妹を連れて飲み歩いて、帰って来たんは午前二時をとうに廻ってましたんえ」
「彼女は一人前の女優や。祇園で一晩くらい芸妓挙げて遊ばしてやるのも良ぇ経験になるんだよ」
「何言うてはるの。二人で腕を組んでじゃらじゃら帰って来てからに」
「妬く奴があるか。彼女はお前の従妹だろう、が・・・」
「誰がそない疑り深ぅしてしもたんです?誰の所為ですねん?」
綾乃は言い捨てて奥へ入って行った。
その後姿を見送ってから秋田が高之に小声で囁いた。
「今度はちょっと後引いていますなあ」
「何のことだ?」
「中野優香・・・何です?社長、恍けて・・・」
「いや、実際、ちょっと困っているんだよ」
「一流の色事師は、外で道楽する時には、家の中で女房に有無を言わさんほどサービスすると言いまっせ」
高之が苦笑しながら答えた。
「俺は一流の色事師じゃないよ」
「私はちゃんとやって居りまっせ」
「その歳でか?」
「歳の問題やおへん、甲斐性の問題です」
 
 専務の秋田が帰った後、高之がリビングへ入って行くと、丁度、息子の博之が寝る前の挨拶を綾乃にしていた。
「ベッドに入ったら本なんか読まんと直ぐに寝るのやで」
「うん、読まへん。ほな、おやすみ」
「はい、おやすみ」
博之が出て行くと早速に高之が綾乃に言った。
「お前、この頃、吃驚するほど貫禄が増して綺麗になって来たなぁ」
「何や?気色悪いほど機嫌取らはりますなぁ」
「本音だよ」
「もう手遅れです。いつも恥ばっかりかかして置いて」
「其処がお前の悪いところや、直ぐ感情的になって善悪の見境がつかなくなるのやから。子供を堕したのもそうや」
「何を今更。何方が悪いか自分の胸に聞いて見なはれ」
「そやから、あの女とは別れたと言うているやないか。嘘やと思うなら秋田に聴いてみいよ」
「なんや、あんな不良オヤジ。あんたと同じ穴の狢やわ」
「良ぅ考えてみ。いつだってそうやないか?お前が不満やから浮気するのやない。つい、摘まみ食いすることは有っても、その度に、ますますお前の良さが身に沁みて解かる。心底、愛しい嫁さんや思うて、ちゃんと戻って来るやないか、な」
「虫の良ぇこと言わんといて!あたしがどうせこれまで通り泣き寝入りすると、あんたは心の中で高を括ってはりますやろ。それならそれで良ろしおす。この店が、あんたが居んことにはもう成り立たんと言うのやったら、店はこれまで通りあんたにお任せします。けど、あたしは別居させて貰います。博之はあたしが連れて行きますから」
「そんな阿保な」
「何が阿保です?好きになったら誰とでもくっ着く言うのやったら、結婚なんかする必要は有らしまへん。うちは、もう・・・もう、あんたの女遊びに目を瞑ってなどよう居らしまへん」
綾乃は目頭を押さえながら奥の寝室へ入って行った。
彼女は着替えてベッドに横たわったが、眼が冴えて、眠りに就くことは出来なかった。
 暫くすると、パジャマ姿の高之が入って来た。
「今日は疲れた・・・」
「あっちで寝はったら良ろしいやろ!」
「何だかんだと言うても、結局、最後に頼りになるのは夫婦やからなぁ」
そう言いながら高之はごそごそとベッドに入って行った。
「あきまへん!」
綾乃は阻止しようと藻掻いたが、高之は強引に綾乃の隣に潜り込んだ。
「未だ拗ねているのかいな・・・兎に角、納得の行くまで良ぅ話し合おうやないか、な」
綾乃は荒々しく高之に背を向けた。
高之はそんな綾乃の胴に腕を廻し、彼女の顔を自分の方へ向けようとしたが、綾乃は離れようと身を逸らせた。
「あんた、約束が違いまっしゃろ!」
高之は綾乃の耳朶を擽るように口を寄せて、後ろから優しく抱き締めた。
「此方は何の約束もしてへんで・・・」
綾乃は動けなくなった。眼を閉じ、唇を噛み締めて、高之に抱き込まれて行った。
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