第47話 「最近、会社でよく訊かれるんだよ、子供は未だかって」

文字数 1,070文字

「どこか身体の具合でも悪いのか?」
「・・・ううん、別に」
「そうか。最近何だか元気が無いようだが・・・」
由紀江は眼を上げられなかった。
 麗子の家を訪ねてから半月余りが過ぎている。自分では夫に悟られぬように努めている心算であったが、心の憂さはつい顔に出てしまう。夫の隆史が嘗て麗子を愛したということは、未だ自分と知り合う前のことであるし、結局その愛は成就しなかったのだから、そんなに拘り苦しむべきことではない筈である。
青春期には男も女も誰かを愛するようになる。それは極く自然のことで誰もが経験することであり、何も夫・隆史だけが特別な訳ではない。
そう自分に言い聞かせては居ても、気持はすっきりしなかった。
 由紀江は苦しんだ。
愛情豊かな両親に慈しんで大事に育てられ、敬虔なカトリックの教えを受けて真直ぐに成長して来た由紀江にとっては、初めて受けた心の痛手であったし、世の中の経験も未だ浅かった故に、これをどう切り抜ければ良いのか判らなかった。隆史に打ち明けようか、と何度も考えはしたが、無論、それは出来ることではなかった。
「何か心配事があるのなら話してくれよ。体調が悪いのなら医者にも行かないと、な。顔色も良くないし、憂鬱そうだから一寸心配なんだよ」
「ほんとうに大丈夫、何とも無いわ」
「そうか、それなら良いが」
そして、隆史が呟くように言った。
「男には良く解からんからな。最近、会社の上司や先輩によく訊かれるんだよ、そろそろ子供は未だかって・・・それで、若しかしたらと思って気になっていたんだが・・・」
「まあ、そんなこと・・・」
由紀江はドキリと胸を打たれた。
「今日は又、沢木がやって来る日だ。ご苦労だが宜しく頼むよ」
そう言って、照れたような微笑いを浮かべ、隆史は椅子から立ち上がった。その後姿を見送りながら由紀江は、顔が火照って赤くなるのを感じた。
 このところ続いていた煩悶で忘れていたが、由紀江の身体はもう二月余りも月のものが無かった。若しやという気もしたし、又一方では、まさかという気もしていた。それが今、隆史の口から言われて、由紀江は揺り上げられたような感動と共に、そうだ!と確信みたいなものを直感した。
隆史の言葉には明らかに期待する響きがあった。二人の夫婦としての繋がりが彼の心の思いを微妙に由紀江に伝えたのである。そして、その気持が由紀江を揺り上げたのである。
だが、由紀江の心は、それを喜んでよいのか哀しむべきなのか判らないほど混乱している。夫の昔の恋がこれほど自分を苦しめている時に、新しい生命の宿りを自覚しなければならないなんて・・・
 
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