第5話 三日目の晩、二人はまた散歩に出たが・・・

文字数 1,462文字

 三日目の晩、二人はまた散歩に出た。今夜の翔子はキャリア・ウーマン風の装いで、向井はスポーツシャツ姿だった。彼女のトレードマークである長い黒髪を隠している限り、誰にも気づかれることは無い。彼女は嬉々として向井と連れ立った。
 だが、暫くすると翔子の声が湿って来た。
「東京になんか帰りたくない。此処にあなたと居たい。ねえ、この京都で二人だけの家を買って一緒に住もうよ。ツアーは止めて一年に一回、レコードを吹き込めば良い、この生まれ故郷の京都で・・・」
然し、彼女は其処で口を噤んだ。一瞬膨らんだ希望が破れた風船のように萎んで、彼女を冷酷な現実に引き戻したようだった。向井は翔子が哀れで胸が引き裂かれそうだった。
「さあ、行こう」
街路はいつもより暗かった。抱き締め合うようにして二人は歩いた。傍らを通り過ぎる車の車輪が絹を引き裂くような音を立てた。
その時、少し後ろからゆっくりと尾けて来るタクシーが在るのに二人は気づかなかった。
翔子が唐突に言った。
「ねえ、戻り橋を渡って行った人も戻って来た人も、みんなどうなったのかしら?」
「さあ、それは何とも・・・」
「とにかく、幸せに暮らしたのだったら良いな、何処に居ても」
 不意に、男が二人に襲い掛かった。武田だった。酔っ払った上に、怒りに顔を歪めながらパンチを振るって来た。
「この女誑し野郎が!」
向井は振り返った時に足を滑らせて身体が泳いだ。武田のパンチは空を切り、勢い余って地面に転倒した。彼は一回転し、悪態をつきながら憤怒の形相で立ち上がろうとした。タクシーは走り去った。
翔子が叫んだ。
「何をするのよ!止めてよ!帰ってよ!」
「うるさい、この浮気女が!」
完全に立ち上がると武田は向井よりも背が高かった。
「この女が欲しかったら」
歯を剥きだして怒鳴った。
「腕づくで取って見ろ!」
「俺は暴力は嫌いだ!」
向井が言った。
「酔っぱらいはもっと嫌いだ!」
武田が突進して来た。向井は横に動いて相手の鳩尾を右のパンチで抉った。ウッと呻きながら武田が身体を二つに折る。その時、翔子が二人の間に割って入って叫んだ。
「止めて!お願いだから、止めてよ!」
 だが、二人の男はもう聞いていなかった。武田が向井の襟首をつかんで道路に放り投げ、直ぐに跳びかかって来た。武田が二度振り下ろした拳の一発が向井の顔をもろに打った。
向井は仰向けにひっくり返った。やったとばかりに向井の身体を踏みつけようとする武田に翔子がしがみついた。その身体を振り払って、武田が喚いた。
「この色気違いの尻軽女が!」
 が、彼が向き直った時には向井は立ち上がっていた。何時の間にか上着を脱いで、表情も一変していた。両眼を鋭く光らせてボクサーのように構えていた。
 全てが終わった時、武田は棒切れのように横たわっていた。向井は両腕を垂らし、息を弾ませて立っていた。左の肩から血が滴り落ちていた。彼は振り返って道端にしゃがんでいる翔子を見た。彼女は頸うな垂れて激しくしゃくり上げていた。
「もう行って!私の前に二度と現れないで!」
向井は長い間、彼女をじっと見つめていた。それから、徐に二、三歩歩いて、路上に投げ出されていた上着を拾った。
「さようなら」
囁くように静かに言った。
 彼はタクシーを拾って行く先を告げ、虚脱したようにシートにへたり込んだ。節々がズキズキ痛んだ。ハンカチを取り出して眼の上の傷を拭った。座席に凭れ込んだ向井の胸に故郷の戻り橋から遠く離れて、ひとり途方に暮れている翔子の姿が鮮明に浮かんだ。
彼女の心が幸せに行き着くのはいつの日だろうか?・・・
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