第32話 二人は真実の尊厳と生きる矜持を見出した

文字数 2,919文字

 大きな布袋を肩から下げて知佳は「大日本総合印刷(株)」の製版工場へ入って行った。
「こんにちわ、伊藤さんは上に居らっしゃいます?」
応対した作業員が二階を指しながら訊ねた。
「もう出来たの?」
「ええ、商売ですから、頑張らなくっちゃ!」
笑いながら知佳は階段を登って行った。
下から見上げた作業員は他の仲間に、片目を瞑った。
「白だよ、白・・・」
二階の事務室で客と向き合っていた伊藤が、ノックの音に返事をした。
「どうぞ」
「こんにちわ」
明るく入って来た知佳は、伊藤と向かい合って座っている直樹を見て、驚きの声を挙げた。
「あっ、あなた・・・」
「やあ、君か・・・」
伊藤がその様子を見て訊ねた。
「君たち、知り合いだったのか?」
「いえ、知り合いと言うほどでは・・・」
直樹が恥にかみながら答えた。
 大日本総合印刷(株)は欧米を初め広く全世界に事業を展開していた。ディバイス、産業資材、メディカルテクノロジー、情報コミュニケーションがその四本柱だった。売上高の凡そ八割を海外で稼ぐグローバル企業で、直樹の勤務する日本シール(株)とは互いに特徴を活かし合い不足を補い合う相互補完の関係にあった。共にその成長ぶりは産業界の注目を集めていた。
 知佳は直樹に一礼して伊藤に報告した。
「先日ご下命のパンフとPR誌、上がりました」
「相変わらず早いね。その上、ミスが無いと来るからな・・・」
「あら、私、ミスですわ、ホッホッホ・・・此処に置いておきますから・・・」
知佳は笑いながら、机の上に仕上がったゲラを置いた。
「お疲れさん、ご苦労さん」
「また宜しくお願いします」
彼女は直樹との親しさを臆微にも出さなかった。
出て行く知佳を見送った直樹が伊藤に言った。
「女が独りでやって行くのは大変だろうなぁ。世の男は狼ばかりだもんなぁ」
「だから、生きて行けるのかも知れませんよ」
伊藤が意味有り気な返答をした。

 ラッシュアワーの人の群、車の洪水、騒音、ただひたすらに流されるように歩く群衆・・・その流れの中に俯きながら歩く直樹の姿が在った。空はどんよりと曇って今にも泣き出しそうな気配である。
 ふと眼を上げた彼の視線の先に見え隠れしたのは、人波に揉まれて歩く知佳の姿だった。直樹の眼の輝きが変わった。彼は人の群を縫うようにして知佳を追いかけた。だが、行き交う人に阻まれて容易には追い付くことが出来なった。見失ったり見捕えたりしながら漸く彼は彼女に追いついて肩を並べた。知佳は眼を挙げて、あらっ、という驚きの表情をした。
 淀屋橋袂に在る喫茶店で向き合って座った直樹の話に、知佳は、最初、暫くの間、言葉が出なかった。
「会社を辞めたんだ、今日」
「えっ?」
知佳には直樹が何を言っているのか容易には解らなかった。
「今日が最後の出社日だったんだ」
「どうして、又、急に?」
あんな大会社を何故に辞めたのか?彼女には理解の範囲を超えていた。
直樹は、永井輝美のこと、日本シールへ入社した経緯、近年の心の葛藤と悩みなど、これまでの四年間の出来事を、簡潔に、然し、偽り無く、知佳に話した。
「最後に決定的に背中を押したのは、君との出逢いだった・・・」
「えっ?」
「女ひとりで、健気に孤立無援で生きている君の姿を見て、心が決ったんだ」
話を聴きながら、知佳の胸の中で何かが弾けて飛んだ。
この人の鬱屈した屈託はこれだったんだ・・・それにしても、会社にしがみついて安穏に無気力に毎日を過ごしている人が多いと言うのに、この人は人の生き様に拘るように自分の矜持を保とうとしているんだわ・・・
「ねえ、何処か行かない?」
唐突に彼女が言った。
「何処か、って?」
「見て!」
淀屋橋の下を流れる川面を見やって知佳が言った。
「みんな海へ流れて行くのね」
「うん、そうだな」
「海を観に行きましょうよ、今から直ぐに」
「直ぐに?」
「ええ、そうよ」
「然し、君の仕事が・・・」
「そんなものは良いの、あなたと一緒に海へ行きたいのよ」
「よし、行こう!」
 外へ出た二人が橋上から観たものは、都会には珍しい程の美しく綺麗な夕焼けだった。暫し二人は赤く沈む夕陽とその残照に見惚れた。
「綺麗ねぇ・・・」
「うん、嘘みたいだ・・・」
「小さい時に凄く綺麗な夕焼けを観たことがあるけど、その時よりも綺麗だわ・・・私、今度はもっと綺麗な海の朝焼けを観たいわ」
 その日の夜、知佳は伊藤に告別のメールを送った。
「お別れします。色々とお世話になりました」
伊藤からは何の返信もメッセージも無かった。彼も、今が潮時か、と思ったのかも知れなかった。
 
 翌朝、朝靄の田園の中を走る列車の中に二人の姿が在った。
窓の外をじっと眺める知佳とその顔を見詰める直樹、知佳が視線を直樹に移した。直樹は間が悪そうに貌を崩し、知佳は微笑んで再び流れる景色に眼をやった。直樹がまた知佳を見詰めた。
二人の心には、この人が好きだ、という思いが溢れていた。ふと気づくと、直樹と知佳の座っているマス以外には誰も乗客は居なかった。朝靄を縫って汽笛が響いた。
 海は未だ明け切っていなかった。遠くの水平線がぼんやりと霞んで、曇り空の下に風が吹いていた。
二人は砂浜辺に腰を下ろして寄せては返す波を見詰めた。Gパンに青いシャツを羽織った直樹とブルージーンに彼と同じシャツを着た知佳、彼女の長く垂れた髪が風に靡いた。
知佳が、すう~っと立ち上がって波打ち際へ駆け出し、直樹はじっとその姿を見詰めた。知佳は、暫し、愉し気に燥いで波と戯れていたが、寄せ来る波を逃げ切れずに水飛沫を浴びてしまった。彼女は思わず直樹の方を見て嬉しそうに笑った。辺りには二人以外に誰も居なかった。
知佳が直樹の傍へ戻って来て横に腰を下ろし、じっと彼女を見詰める彼に問いかけた。
「どうしたの?」
「いや、別に・・・」
「大分、濡れちゃった」
そう言って髪を両手で撫でつけた。
尚じっと見つめている直樹に気付いた知佳が再び訊ねた。
「どうしたのよ?」
「キスしても良いか?」
知佳はじっと直樹の眼を見やったが、直ぐに頷いた。
「そんな事、いちいち聞くもんじゃないわ」
そう言って静かに眼を瞑った。
直樹は一瞬躊躇ったが、眼を閉じて待って居る知佳の貌を見て、引き寄せられるように彼女の唇に自分のそれを重ねた。寄せては返す波の音が二人の耳に幽かに聞こえた。
 やがて、クリーム色の空が明け、赤い朝陽が登り始めた。次第に風が遠退いて波のうねりが消え、空はコバルトブルーに変わった。紅染めて明けて行く空の下に、海は果てしなく広がっていた。
「綺麗ねぇ!・・・」
「うん、素晴らしい眺めだな」
「何だか涙が出てきちゃったわ、わたし・・・」
知佳は人差指でそっと瞼を拭った。
直樹は大きく深呼吸をした。
 二人は今、これからの人生を恐れてはいなかった。住居を変え仕事も変えて零から再出発する人生には、幾多の波乱と苦難が待ち受けているだろうが、自らの価値観と規範を支えに自分の手で自分の足で切り拓いて行く人生に真実の尊厳を見出していた。それこそが、人が生きる矜持だ、と互いに信じ合っていた。
 直樹が知佳の肩に腕を廻し、知佳が彼の肩に頭を傾げた。
二人の後ろには一つになった長い影が登る太陽に照らされて逆光線に伸びていた。
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