第17話 二人は同い歳だった

文字数 3,229文字

 沢木と恵子は同い歳だった。
紫野に在る恵子の家は沢木の家の右隣で、両親が二人とも学校の先生をしていて昼間は不在だったので、子供の頃、恵子はよく沢木の家へ遊びに来た。半ば沢木の家の子供のような格好で遊びに興じ、両親の帰りが遅い日には夕食を一緒に食べたりもした。二人は「お恵」「耕ちゃん」と呼び合う仲良しだった。
 沢木は、大概は同じ船岡町内の近所の男の子達と一日中遊んでいたが、いつも、いつの間にか、恵子もその仲間に加わっていた。仲間同士で喧嘩になったりすると、恵子はいつも沢木の味方をして、口を尖らせて相手に向かって行ったし、恵子が年長の女の子や意地悪な男の子に虐められたりした時には、沢木が恵子を庇って相手と闘ったりした。
 あれは確か、小学校六年生の春の頃だった。
膨らみ始めた胸をクラスの喧嘩大将に触られた恵子は、「何するのよ!」と喰って掛かって行ったが、相手はへらへらと嘲笑って他の仲間達とより一層囃し立てた。それにカッと腹を立てた恵子は、自分よりもかなり体格の大きな相手に、矢庭に掴み掛かって行った。同級生達は男の子も女の子も、相手がガキ大将の悪学童だったので、見て見ぬ振りで素知らぬ顔をしていた。
沢木はそんなクラスメイトに訳の解らぬ怒りを覚え、自分も辱められたように感じて、恵子に加勢して、一人で相手に殴り掛かって行った。机や椅子が乱れ、男の子が騒ぎ、女の子が叫喚した。それから何時とは無しに、お恵の後ろには沢木が付いて居る、ということになって、誰も恵子をからかったり虐めたりする者は居なくなった。
 
 その年の夏に、沢木は父に連れられて、初めて自宅近くの囲碁サロン「船岡囲碁教室」へ行った。他の子供たちが直ぐに飽きて帰って行った中で、沢木は四時間近くもの間、父親の対局にじっと眼を凝らしたのである。それを目敏く見つけた席主の師範が強く入門を勧めた。沢木は、最初は一般のお客さんに沢山石を置いて打って貰っていたが、直ぐに置石が減って行き、一年もしない内に沢木が白で打つようになった。勉強熱心な子でサロンの宿題の点数は眼を見張るものがあり棋力の向上は著しかった。
「もともと手が見えるタイプで、全局も見渡せる能力が有るから、先が楽しみだ」
師範の先生が眼を細めて言った。
「毎回宿題が難しくて一週間考え通しだった。でも、とても楽しかったことをよく覚えているよ」
沢木は今でも偶にそう述懐することがある。
 
 囲碁を習い始めて忙しくなったこともあって、中学生になると、沢木と恵子が一緒に遊ぶ機会は殆ど無くなってしまった。その頃になると、男は男、女は女と、遊んだり話したりする相手が分かれて、二人が一緒に遊ぶことは急速に無くなっていったのだった。
朝、登校時に自宅の門前で出くわしても、互いに素知らぬ顔をして「お早う」とも言わなかったし、恵子はツンとした表情で沢木に背を向け、女の子達の方へ駆けて行った。沢木も恵子も、思春期になって、急に相手が他人に見え、それを何と無く意識して照れ臭くもあったし、眩しくもあった。そして、近所の碁会所で囲碁に夢中になった沢木は、毎日夕方まで誰構わず対局を仕掛け、恵子と顔を合わせる機会は殆ど無くなって行った。しかし、あの頃、セーラー服姿の良く似合う恵子が急に大人っぽく見えて、偶に恵子を見ると気持ちがどぎまぎし、沢木は妙に恵子の存在を意識したのも事実だった。
 
 沢木と恵子は同じ高校に進学して、二人の距離はまた、子供の頃に縮まった。
市内で一、二を競う市立の進学校であったが、二人が通った高校では、授業はユニークなシステムで行われていた。科目ごとに学年全員が振り分けられ、生徒達は自分が受ける授業の教室へ休憩時間中に移動して、ばらばらのメンバーで授業を受けた。授業は、休憩時間中の移動を考慮して、一教科二時間単位で行われ、従って、同じクラスメイトでも全員が顔を合わせるのはホームルームの時間だけだった。沢木と恵子は、ホームルームでは一緒にならなかったが、学科の授業ではよく顔を合わせた。二人は三年間で、現代国語、数学の微分積分、日本史、世界史、化学、漢文等で同じクラスになった。だが、恵子と沢木とでは学業の成績にかなりの差が出来ていた。恵子は学年全体で上位三本の指に入る秀才となり、東京の国立大学を目指して受験勉強に明け暮れていた。沢木も成績は決して悪くは無く、トップクラスに位置してはいたが、恵子には遠く及ばず歯が立たなかった。沢木は、授業中に囲碁の攻め手を一心不乱に考えたりして勉強に集中せず、放課後に恵子にノートを写させて貰ったりもしたし、中間テストや期末試験になると恵子の自宅へ押しかけて、一夜漬けで教えて貰ったりもした。恵子は「私の勉強が出来ないじゃないのよ」と文句を言いながらも、沢木に発破をかけつつ、丁寧に教えてくれた。
 高校生の恵子は胸の膨らみが大きくなり、腰の辺りにくびれも出来て、急に身体の線が美しくなった。良く動く黒い瞳、長い黒髪を風に波打たせて颯爽と闊歩する恵子は男子生徒の憧れの的となった。ツンと先の尖った鼻も知性的で、将にマドンナに相応しい存在であった。沢木はそんな女らしさが顕著に表れて来た恵子を眩しく眺め、あいつがなあ~、とも思った。
 或る夜、恵子が、相談がある、と言って沢木の家へやって来た。ラブレターを貰って河原へ呼び出された、と言う。
ラブレターは恵子と同じく東京の国立大を目指す秀才から渡されたものであった。
君が好きだ、ゆっくり二人で話がしたい、就いては、期末試験の最終日である明日の午後二時、高校と同じ地名の名前が冠されている橋の下の河原で待っている、是非来て欲しい、そんな内容が、熱い思いと共に綴られていた。相手の名前は沢木も知っていた。
「へえ~。なかなか彼奴もやるじゃない?行って来れば?」
「冗談言わないで、真剣に考えてよ」
「お前、行きたいのか行きたくないのかどっちなんだよ。それが先決だろうが・・・。それに、俺にどうしろと言うんだ?」
「そりゃ、あの人は、背は高いし、ハンサムだし、それに、秀才だし・・・。でも私、ああ言うのはタイプじゃないのよね。ねえ、ねえ、耕ちゃんが行って見て来てよ!」
「冗談言うなよ。俺が行ってどうするんだよ?」
「真実に来ているかどうか、見て来てくれれば、それで良いのよ」
「可哀そうに。やって来もしない女の子を待って、一人ぽつねんと河原で突っ立っている彼奴の姿が眼に浮かぶぜ。それも学校一の秀才が、な」
「・・・・・」
「然し、お前も大変だな、よくもててよ。近頃じゃファンがわんさかと増えて居るそうじゃないか」
「何言っているのよ。耕ちゃんだって憧れている女の子は一杯居るのよ。家が隣同士だからって、私に紹介を頼む子は後を絶たないわ」
「へえ、で、お前、どうしているんだよ?」
「どうもしないわ。紹介しないだけよ。駄目、駄目、あいつは年寄り臭い囲碁の対局に忙しくてそれどころじゃないって言って、断ってあげているのよ」
「そうか、そうか」
言いながら沢木は、此処一、二年の間に眼に見えて女らしく成長して来た恵子の身体を、改めてしげしげと見つめた。沢木の視線を意識した恵子は「何処見ているのよ、嫌らしい」と言いつつも、自分もまた、長身の頼もしい青年に成長した沢木に晴れがましそうな視線を注ぐのであった。
 
 高校卒業と同時に、恵子は現役で合格した国立大学へ通学する為に、家を出て東京へと旅立って行ったし、沢木は自宅から通学出来る京都の国立大学へ通って、相変わらず囲碁の研究に熱中した。二人が顔を合わせるのは、恵子が夏休みなどで長期間帰省した折に、どちらかが家を訪ねる時だけとなった。が、それでも、逢えば二人は時間の過ぎるのも忘れて話し込んだし、河原町へ出て食事をしたり、酒を飲んだりもした。恵子は益々自信に満ちて颯爽としていたし、その存在感は同世代の女の娘達とは比較に値せぬほど群を抜いていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み