第51話 嶋木、警察に逮捕される

文字数 2,566文字

 朝昼兼用の遅い朝食を摂っていた梨乃は、ふと、テレビのニュースのアナウンスが耳に引っ掛った。テレビは昨日から今日にかけての新しいニュースを流していて、今朝、京都市内で暴力団の一斉検挙が行われた旨を報じていた。画面には次々と警察署へ連行される暴力団員の姿が映し出されていた。その一人に眼を留めた梨乃は、あっと息を呑んだ。ふっくらと膨らんだ頬に、不釣り合いの尖った鋭い眼、長身の活かった肩、背格好から顔つきまで嶋木にそっくりだった。
彼女は午後からの仕事が手につかなかった。テレビで観たのは一瞬に過ぎなかったが、画像は鮮明で、見紛う筈はなかった。
翌日の朝刊にもその記事は出ていた。幹部三人の写真が出ているだけで嶋木の写真は無かったが、逮捕者の名前が載っていた。その中に嶋木譲二という名があった。年齢は二十六歳で、このところ、市内で暴力団の抗争が激しくなり、彼等は傷害容疑で逮捕されたのだった。
 
 食事を終えると、梨乃は、躊躇いながらも、嶋木が留置されている五条警察署へ出向いた。仮令、彼が暴力団員であっても、彼女は二度に亘って彼に助けられていた。
梨乃は恐る恐る署内に入って行き、警察官に経緯を話して面会を申し込んだ。
「是非、嶋木さんにお逢いしたいんです。お願いします」
警察官は半信半疑の面持ちだった。一旦席を外して奥の方へ姿を消したが、暫くして戻って来て、言った。
「嶋木はあなたのことを知らないと言っていますよ。女性を助けたことも無いそうです」
梨乃は信じられなかった。
警察官はボールペンでカウンターの上をコツコツと叩いた。
「人違いじゃないですか?どうもあの連中がやりそうな話には思えませんね。彼には前科が二つ在るんですが、二件とも傷害罪です。今度で前科三犯になる」
「逢わせて頂ければ本人かどうか、判ります。お願いします」
「嶋木は、知らない、って言っているんです。まあ、あの手合いには近寄らない方が良い、その方があなたの身の為ですよ」
梨乃は項垂れるようにして警察署を出た。
彼は嘘を吐いたに違いない。私に迷惑が及んだり、私の経歴に傷が付いたり、私の仕事に支し障りが生じたり、そんなことを慮って、私との再会を避けたのではあるまいか?そうであれば、彼の気持を尊重しなければならないが・・・
梨乃の眼に、クラブ「純」で足の治療を施してくれた嶋木の優しい眼やダイニング・バーで騒がしい聴衆を鎮めてくれた鋭い貌がくっきりと浮かんだ。
彼は、今、どんな思いで留置場に居るのだろうか?・・・
 
 嶋木は直ぐに送検され起訴された、が、彼は裁判で争わず、懲役二年六カ月の刑が確定した。
梨乃は思った。
今度は私があの人を支え励ます番だわ・・・
だが、嶋木が何処の刑務所へ召喚されたのかは判らなかった。刑務所だけでなく裁判が確定するまで入って居た拘置所も不明だった。
 梨乃がインターネットで調べてみると、山科に京都刑務所が在った。執行刑期が十年未満で犯罪傾向が進んだ男性受刑者を収容する刑務所だった。
初犯ではない嶋木は恐らく主に累犯が入る京都刑務所に居るだろうと梨乃は推察した。
 彼女は、取り敢えず、面会に行って必要なものを差し入れることを考えたが、それは誰でもが容易に可能な訳ではなかった。
受刑者の親族、会社などの重要な仕事関係者、出所後の雇用等を考えている社会復帰に関わる人、面会が必要と刑務所が認めた者など面会出来る人間は限定されていたし、差し入れも直接手渡すことは不可能で窓口で申し込まなければならなかった。然も、差し入れ業者から購入した物品のみで、書籍や日用品、筆記用具などは可能だったが、食品は原則として不可能だった。その他にも刑務所内のルールが守れなくなるような物は差し入れが出来なかった。
 梨乃は止む無く、手紙を書いて送ることにした。手紙は月に二回、四通程度は可能だった。その前に彼女は刑務所へ電話を入れて嶋木の在不を問い合わせたが、それは教えては貰えなかった。
「そういう件についてはお答え出来ません」
「せめて其方に居るのか居ないのかだけでも教えて頂けませんか?」
「居ると言うことも居ないと言うことも含めて、一切お答え出来ないのです」
にべも無い返答だった。
「前略、その後、どうして居られますか?刑務所の中には空調は効いているのですか?この冬は特に寒いですが、身体には十分に気を付けて下さい。あなたがどんなことで刑に服して居られるのか私には分かりませんが、あなたは自分の為に罪を犯すような人では無いと私は思っています。あなたは他人の痛さや苦しみの解る心暖かい優しい人です。私はあなたに二度助けられました。心を救われたのです。今度は私があなたを支える番です。必要なことがあれば何なりと申し付けて下さい。可能な限り最大限の努力を尽くします。二年半という歳月は決して短くは無いでしょうが、兎に角、一日一日を恙無くお過ごし下さい。ご健康をくれぐれもお祈りして居ります。かしこ」
手紙が検閲されるだろうことを慮った梨乃は、その内容は当り障り無く、差出人の名前も匿名にして送達した。
 だが、一カ月経っても彼からの返信は無かった。梨乃は気落ちして落胆した。彼女は翌月も翌々月もせっせと手紙を書いたが、嶋木からは何の音信も無かった。
どうしたのかしら?手紙は届いていないのかしら?あの人は読んでいないのかしら?・・・いや、決してそうではないわ。自分との関りが私にとって何のプラスにもならないことを、否や、むしろマイナスの害を及ぼすことを、あの人は一途に気に懸けてくれているんだわ、きっと・・・
梨乃は、愈々、嶋木の男気に惹かれ始めた。
 
 彼女の手紙は二十通にも及んだ。その間に、梨乃はレコード歌手になり六曲のシングル盤でデビューを果たした。加えて、その中の一曲が三十万枚の大ヒットとなり、レコード大賞の新人賞と歌唱賞を受けて人気歌手の仲間入りをした。そんなことを具に手紙に書き記して送ったが、彼からはやはり何の反応も無かった。
 梨乃がテレビに露出し、ステージに立ち、CDをレコーディングしながら、毎日を追い捲られるように忙しく立ち働いていた或る夏の暑い日、一通の手紙が届いた。それは、嶋木からの出所日を知らせるものだった。月日と時刻が記されていた。梨乃は泣けて来るほどに胸が震えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み