第２４話 それから瑠美は結婚し、そして、離婚した
文字数 2,038文字
手塚がニューヨークへ赴任した一年後に正看護師の国家試験に合格した瑠美は、引き続き市内の大きな京都総合病院に勤務していた。
そして、手塚への思いが胸の中から遠ざかり淡い初恋の記憶だけに沈んだ頃、瑠美は、同じ病院のリハビリセンターに勤務するトレーナー永井良一に熱心に求愛され、それを受け入れて、結婚した。
良一はやや気の弱いところは有るが、仕事熱心で女遊びも賭け事も知らない真面目な堅物であった。が、彼は幼い頃に父親を亡くして、母ひとり子ひとりで育ったマザコンの典型でもあった。
瑠美は初めて良一の母親に会った時、これは！と眼を見張った。歳は五十歳を過ぎているであろうに、顔には皺一つ無く、若い派手な身なりをしていたし、良一への態度は宛ら年上の恋人のようであった。
それは結婚して一月後の深夜勤務の夜のことだった。
深夜に目覚まし時計がけたたましく鳴った。
寝ていた良一が吃驚して飛び起きた。横に寝ていた瑠美が慌てて目覚ましを止めて起き上がった。
「どうしたんだ？」
良一が寝惚け顔で聞いた。
「夜勤なの」
「あっそうか。忘れていた」
「あなたとお義母さんの朝ご飯はテーブルの上に用意してあるからね」
「うん」
時計を見ると十二時に近かった。
瑠美が着替えるのをベッドの中から見ていた良一が起き上がった。
「どうしたの？」
「送って行ってやるよ」
「遅いからいいわよ」
「遅いから送って行くのだよ。暗い夜道を一人で歩かせる訳にもいかないだろう」
瑠美は嬉しかった。良一の首に縋り付きたかった。
が、翌朝、夜勤明けで帰宅すると開口一番、義母が言った。
「夫に深夜、送って貰わなければならないような仕事はさっさと辞めてしまいなさい。良一にもきつく言って置きましたからね」
夜中に夫と義母を残して病院へ出かけることを、瑠美は後ろめたく思っていたし、同じ病院勤めの良一なら、看護師を続ければこうなることは、少しは解ってくれると期待していたが、それは空しい願いに過ぎなかった。
それからの瑠美は、夜勤の時にはタクシーを呼んで一人こそこそと出かけて行った。
瑠美は結婚して半年も経たない内に、義母の異常な嫉妬深さに気付かされた。
或る夜、トイレに起きた瑠美が寝室のドアを開けると、其処に義母が立っているのに遭遇わした。義母は瑠美に見られても狼狽えることも無く、鼻先でフンと笑うと、ゆっくり自分の部屋へ戻って行った。一瞬のことだったが、寝室の灯に照らされた義母の顔が、はっきりと憎悪に光っていたのを瑠美は見た。瑠美は飛び込むようにしてベッドに戻った。身体が震えて何時までも止らなかった。良一と交わした乱れた息遣い、喉から洩れた喜悦の声、それらを全て聞かれたかと思うと、羞恥と恐怖が一度に募って来た。
それが始まりだった。
家の中に居ても良一と内緒話も出来ない日が続いた。うっかり二人だけになって笑ったりすると、直ぐに義母が尖った声で良一を呼んだ。
間も無く、夜は地獄の様を呈した。義母は二人の寝室の隣に寝部屋を移し、夜中も目覚めていると解からせるような空咳を響かせた。そういう時、良一は絡ませていた足を気弱く解いて、自分のベッドに戻って行った。義母の部屋がひっそりしていれば、それはそれで薄気味悪かった。
良一の態度はひどく曖昧だった。瑠美が訴えても「そのうち何とかする」と言うだけだった。そのくせ、義母の眼を盗んで瑠美の肉体を求めることには熱心だった。初めはそれが、良一が自分を愛してくれている証に思えて、束の間の愛撫にも応えるように努めた。母親に口答え一つ出来ない夫を哀れむ気持も働いた。
然し、そういう日が度重なると、この家に漂っている狂気のようなものが次第に静かに瑠美を侵し始めた。瑠美は深夜に微かな音にも目覚め、破れるほどに胸が高鳴ったり、良一が傍に寄って来ると、耐え難い嫌悪感で身体が震えたりした。
八月のある暑い日、瑠美は激しい腹痛と眩暈に襲われて、勤務中に病院で倒れた。そしてそのまま起き上がることが出来ず、救急処置室に運び込まれた。倒れた瑠美の身体に、点滴の液が一滴一滴と入って行った。
良一は瑠美が倒れた日に、身の回り品を一式携えて、鎮静剤で眠っていた瑠美の病室を訪れたが、その後は、偶に昼休みにほんの少しの時間、顔を覗かせるだけであった。夫婦らしい労りの会話は一言も無かった。義母の方は一度も顔を見せることは無かった。親ひとり子ひとりというものは、えてしてこんなものだと理解はしたものの、瑠美はひどく惨めだった。
一ヵ月後に瑠美は退院した。仲間の看護師数人が手伝ってくれた。
そして、この冬、正月を前に、良一と離婚して実家に戻った。良一も義母も特段瑠美を引止めはしなかった。良一は結局、母親に頭の上がらぬ意気地の無い男だった。
心身ともに疲労困憊した瑠美は、私は未だ若い、暫く静養してまた出直そう、そう考えて、病院も同時に退職した。師長を始め看護師仲間が皆、引き止めたが、暫く心と身体に休養を下さい、と依願退職した。
そして、手塚への思いが胸の中から遠ざかり淡い初恋の記憶だけに沈んだ頃、瑠美は、同じ病院のリハビリセンターに勤務するトレーナー永井良一に熱心に求愛され、それを受け入れて、結婚した。
良一はやや気の弱いところは有るが、仕事熱心で女遊びも賭け事も知らない真面目な堅物であった。が、彼は幼い頃に父親を亡くして、母ひとり子ひとりで育ったマザコンの典型でもあった。
瑠美は初めて良一の母親に会った時、これは！と眼を見張った。歳は五十歳を過ぎているであろうに、顔には皺一つ無く、若い派手な身なりをしていたし、良一への態度は宛ら年上の恋人のようであった。
それは結婚して一月後の深夜勤務の夜のことだった。
深夜に目覚まし時計がけたたましく鳴った。
寝ていた良一が吃驚して飛び起きた。横に寝ていた瑠美が慌てて目覚ましを止めて起き上がった。
「どうしたんだ？」
良一が寝惚け顔で聞いた。
「夜勤なの」
「あっそうか。忘れていた」
「あなたとお義母さんの朝ご飯はテーブルの上に用意してあるからね」
「うん」
時計を見ると十二時に近かった。
瑠美が着替えるのをベッドの中から見ていた良一が起き上がった。
「どうしたの？」
「送って行ってやるよ」
「遅いからいいわよ」
「遅いから送って行くのだよ。暗い夜道を一人で歩かせる訳にもいかないだろう」
瑠美は嬉しかった。良一の首に縋り付きたかった。
が、翌朝、夜勤明けで帰宅すると開口一番、義母が言った。
「夫に深夜、送って貰わなければならないような仕事はさっさと辞めてしまいなさい。良一にもきつく言って置きましたからね」
夜中に夫と義母を残して病院へ出かけることを、瑠美は後ろめたく思っていたし、同じ病院勤めの良一なら、看護師を続ければこうなることは、少しは解ってくれると期待していたが、それは空しい願いに過ぎなかった。
それからの瑠美は、夜勤の時にはタクシーを呼んで一人こそこそと出かけて行った。
瑠美は結婚して半年も経たない内に、義母の異常な嫉妬深さに気付かされた。
或る夜、トイレに起きた瑠美が寝室のドアを開けると、其処に義母が立っているのに遭遇わした。義母は瑠美に見られても狼狽えることも無く、鼻先でフンと笑うと、ゆっくり自分の部屋へ戻って行った。一瞬のことだったが、寝室の灯に照らされた義母の顔が、はっきりと憎悪に光っていたのを瑠美は見た。瑠美は飛び込むようにしてベッドに戻った。身体が震えて何時までも止らなかった。良一と交わした乱れた息遣い、喉から洩れた喜悦の声、それらを全て聞かれたかと思うと、羞恥と恐怖が一度に募って来た。
それが始まりだった。
家の中に居ても良一と内緒話も出来ない日が続いた。うっかり二人だけになって笑ったりすると、直ぐに義母が尖った声で良一を呼んだ。
間も無く、夜は地獄の様を呈した。義母は二人の寝室の隣に寝部屋を移し、夜中も目覚めていると解からせるような空咳を響かせた。そういう時、良一は絡ませていた足を気弱く解いて、自分のベッドに戻って行った。義母の部屋がひっそりしていれば、それはそれで薄気味悪かった。
良一の態度はひどく曖昧だった。瑠美が訴えても「そのうち何とかする」と言うだけだった。そのくせ、義母の眼を盗んで瑠美の肉体を求めることには熱心だった。初めはそれが、良一が自分を愛してくれている証に思えて、束の間の愛撫にも応えるように努めた。母親に口答え一つ出来ない夫を哀れむ気持も働いた。
然し、そういう日が度重なると、この家に漂っている狂気のようなものが次第に静かに瑠美を侵し始めた。瑠美は深夜に微かな音にも目覚め、破れるほどに胸が高鳴ったり、良一が傍に寄って来ると、耐え難い嫌悪感で身体が震えたりした。
八月のある暑い日、瑠美は激しい腹痛と眩暈に襲われて、勤務中に病院で倒れた。そしてそのまま起き上がることが出来ず、救急処置室に運び込まれた。倒れた瑠美の身体に、点滴の液が一滴一滴と入って行った。
良一は瑠美が倒れた日に、身の回り品を一式携えて、鎮静剤で眠っていた瑠美の病室を訪れたが、その後は、偶に昼休みにほんの少しの時間、顔を覗かせるだけであった。夫婦らしい労りの会話は一言も無かった。義母の方は一度も顔を見せることは無かった。親ひとり子ひとりというものは、えてしてこんなものだと理解はしたものの、瑠美はひどく惨めだった。
一ヵ月後に瑠美は退院した。仲間の看護師数人が手伝ってくれた。
そして、この冬、正月を前に、良一と離婚して実家に戻った。良一も義母も特段瑠美を引止めはしなかった。良一は結局、母親に頭の上がらぬ意気地の無い男だった。
心身ともに疲労困憊した瑠美は、私は未だ若い、暫く静養してまた出直そう、そう考えて、病院も同時に退職した。師長を始め看護師仲間が皆、引き止めたが、暫く心と身体に休養を下さい、と依願退職した。
