第15話 「君に今、傍に居て欲しいんだ!」

文字数 2,159文字

 浅田は静かな口調で言った。
「今日、五時頃に息を引き取った。もう限界だったんだ。直ぐに僕が処置したんだが、それっ切りだった・・・」
「そう・・・」
真由美は呟くように言った。
「しなきゃならないことが一杯在ってね、これから・・・」
「わたし、其方へ行きましょうか?」
真由美は一度も脚を踏み入れたことの無い浅田夫妻の、マンションの大きな建物を思い浮かべながら訊いた。
「いや、来ない方が良いと思う。今、近くに住む女房の姉と従妹が来ているんだ」
 その時、抑えてはいたが、冷静な声の下に隠している浅田の感情の起伏に真由美は気づいた。一瞬、彼女は自分の身体の中を素早い速さで過ぎった嫉妬と憤りに自己嫌悪を覚えた。彼女は息を呑み込むと自分に言い聞かせた。
こんな風に思っちゃいけない。人が死んだという時にこんな感情を抱くなんて、恐ろしいことだわ・・・
「そう、解ったわ」
「後でまた電話するよ」
浅田はそう言って電話を切った。
 
 真由美はベッドに身体を横たえ、じっとテレビに見入った。だが、画面は声も無く音も無く、ストリーも無く、まるで宇宙人のように人間が唯、蠢いているだけのようだった。
真由美は、起き上がってテレビを切り、あの馴染んだ静寂の中へ舞い戻りたかった。だが、彼女は何もしないで其処に居た。まるで身体の中の骨を全部抜かれてしまったかのように、其処にじっと横たわっていた。
 終わったんだわ・・・
三年間に及ぶあの犠牲と不安と猜疑・・・遂に終りを告げたのだ。まるで一枚の葉がはらりと零れ落ちるように・・・
真由美は何か大きなものを感じていた。解放、有頂天、勝利、それに幸福さえも感じていた。
私は街へ出かけてひときわ賑やかな酒場で、自分を祝福しても良いんだわ・・・
だが、真由美は其処を動かずに、何かに縛られているかのように、じっと横たわっていた。
 彼女は初めて貴子と口を利いた時のことを思い出していた。あの時、真由美は、貴子に真実を言ってやりたいと言う衝動と激しく闘ったのだった。
浅田が愛しているのはあなたなんかではなく、この私なのよ・・・と。
だが、真由美はその言葉を口にすることはなかった。結局のところ、愛する男の妻と対等に対峙する女にはなれなかったのである。そして、貴子は既に亡くなって、もうその時は失われてしまった。
 真由美は今、貴子が亡くなったことを哀しんでいる自分に気づいて、はっとした。自ら積極的に望んだことでは無かったが、真由美と貴子は浅田の人生を二人で分かち合い、貴子が知って居ようと居なかろうと、三人があの“暗黙の了解”への参加者だったことは紛れもない事実なのであった。
 その時、真由美の脳裏に様々な可能性が浮かび上がって来た。
浅田と二人だけの家、二人だけの暮らし、気兼ね無い二人だけの抱擁、そして・・・結婚、新婚旅行・・・三年間、思うだけで手に入れたくなる衝動が怖くて、心に思い浮かべることさえ拒み続けて来た夢の数々・・・
 だが、ハッともの思いから我に返った真由美は、慌てて、今思い描いていた夢を拭い去り、今夜は全てのことが貴子の為に在らねばならないんだわ、と思い直した。思いも寄らず、貴子がこんなに早く逝ってしまって、最早、“暗黙の了解”は不要になってしまった。真由美は言い表せない恐ろしささえ感じていた。
 
 テレビのデジタル時刻表示が十二時二分前を表示していた。「往く年、来る年」の画面には、京都の由緒在る神社や寺院、仏閣や旧跡等が映し出されていた。
 ライトアップされた平安神宮には既に初詣客が詰め掛けている。撮影用のライトで明るく照らし出された東寺の五重塔。阿弥陀如来像と吉祥院天女像にスポットライトが当る国宝浄瑠璃寺。「おけら参り」客が一段と増して賑やかさ絶頂の八坂神社。修行僧の読経が厳かに響く黄檗山満福寺。早くも合格祈願の受験生が参詣している北野天満宮。淡雪でうっすらと白く薄化粧した北山杉の群れ。画面から凍てつくような寒さが伝わって来る長岡京の竹林道。いずれもが「京都の冬は底冷えの冬」を実感するような情景である。
 画面から除夜の鐘がゴーン、ゴーンと響いて来た。日本三楼鐘の一つである祇園八坂知恩院の鐘の音であった。四苦八苦を取り除くという意味で一〇八回撞かれる除夜の鐘は、親綱一人、子綱十六人の手で、毎年、年末に一〇七回、新年に一回撞かれることになっている。一年間の罪を懺悔し、煩悩を除き、清浄な心身となって新年を迎える京都の冬の風物詩である。
 諸行無常の思いが真由美の胸に拡がった。「明けましておめでとうございます」の声や新年に因んだ会話が耳に入って来ることにとても耐えられそうも無いと思った彼女はテレビの電源を切った。
 
 貴子の両親や家族への電話、自身の家への連絡、葬儀の手配などなど、人生の終わりにつきものの、あらゆる雑務に追われているだろう浅田のことを真由美は考えた。彼女はリビングの冷蔵庫からシャンパンを取り出し、透明な泡をグラス一杯に注いだ。
 その時、携帯が鳴った。
「もしもし、真由美・・・」
浅田からだった。
「色々考えたんだが、君に今、傍に居て欲しいんだ。君が必要なんだ!僕一人じゃ・・・とても・・・無理だ!」
「解かった、直ぐ行くわ!」
真由美はそう答えると新年が明けたばかりの街へ飛び出して行った。
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