第27話 知佳、産婦人科医院で堕胎する

文字数 2,396文字

 三カ月後、知佳は、大きな腹を抱えた女たちに混じって、産婦人科医院の待合室に腰掛けていた。女たちは大袈裟な身振りで、最近テレビで放映された凶悪事件のことを喋り合っていた。マガジンラックに置かれた新聞を開いて関連記事を覗いている女も居た。
「高木さん、高木さ~ん」
受付に呼ばれて知佳が立ち上がった。
診察室に入ると、医師が机の上のカルテから顔を上げ、くるりと回転椅子を知佳に向けて、訊ねた。
「それで、どうしました?」
知佳は躊躇なく答えた。
「堕して下さい」
 
 その日の夜・・・
知佳は行きつけの喫茶店で、耳を劈く強烈なジャズに心身を委ね、何もかもを忘れるかのように独り没頭した。店は若者たちで満員だったが、青春の活気は全てジャズに吸い取られたかのように、誰もが皆、知佳と同じように倦怠していた。
 知佳とジャズの出逢いは高校生の夏休みだった。
或る暑い午後、部活の帰途に通った表通りで「ジャズ喫茶ジェニー」の看板が彼女の眼に飛び込んで来た。丁度、若いカップルが店から出て来るところで、開いた扉の向こうからジャズの旋律が微かに聞こえて来た。扉は直ぐに閉まって音が聞こえたのは一瞬だったが、それは妙に知佳の耳に残った。何かに全身を揺さ振られたような気がした。
翌日、知佳はもう一度「ジェニー」へ行ってみた。恐る恐る扉を開けて入って行った彼女の身体を鮮烈なジャズのリズムが直撃した。電撃が走ったようだった。知佳は痺れた。リズムもテンポも胸の奥底に深く響いた。
ジャズは基本的には金管楽器と木管楽器とドラムスの組み合わせにスピリチュアル、ブルース、ラグタイムの要素を含み、演奏の中にブルー・ノート、シンコペーション、スウィング、バラード、コール&レスポンス、インプロヴィゼーション、ポリリズム等を組み込んで、演奏者の力量と才覚に大きく左右されるところがある。知佳はその自由な表現形式にジャンルを超えた現代音楽の源流を見る気がした。それから知佳はジャズの虜になった。
「君も来ていたのか?・・・」
声に顔を上げた知佳の前に常連仲間の一人が立っていた。
「どうしたんだ?元気ないじゃないか?」
「うん、ちょっと、ね・・・」
「躰、具合、悪いんじゃないのか?顔色悪いぞ。気を付けろよ、な」
「誰にでも優しいのね、あなた」
「フェミニストなんだよ、俺は」
知佳は彼をじっと見つめた。
「そうだ、飯食いに行こうぜ、栄養のつく旨いもんを食いに行こうや」
知佳は軽く冗談半分に答えた。
「わたし、あなたに惚れちゃいそうよ、フッフッフッ」
「本気にするぞ、俺」
片隅のボックス席に群がる彼の仲間らしい男女が、此方をじっと見ていた。
「やっぱり帰るわ、私・・・」
「送ってやるよ」
知佳に続いて彼も立ち上がったが、知佳は笑顔で拒んだ。
「皆に悪いから良いわ。さよなら」
踵を返した知佳を彼は未練気に見送った。
 ジャズに没頭し仲間と話して、満たされぬ気持の幾分かを和ませた知佳は、表通りをゆっくりと歩いて帰途に就いた。ふと見やった視線の前方にアルコールの自動販売機が在った。にこりと哂って一合缶を二本買った知佳は、その内の一本の蓋を取って飲みながら歩き始めた。途中で数人の若者に擦れ違って冷やかされたが、彼女は陽気に応えて彼等を行き過ごした。
 マンションの前まで帰り着いた知佳は残っている酒を一気に飲み干し、空になった缶をぼんやりと煙っている水銀灯目掛けて放り投げた。缶は当たらずに隣の家屋の塀の中へ消えた。知佳は肩を竦め、舌を出して、マンションの中へ消えて行った。
 部屋へ入るなりステレオ・コンポのスウィッチを入れた知佳は、もう一本の酒をぐいぐいと呷った。それから、コンポから流れ出るムーディーなメロディに合わせて即興の振りをつけて踊り出した。
「ウイッ!」
酔いの回って来た知佳は、まるで想いを寄せる架空の恋人に向かってするように、一枚一枚、服を脱ぎ始めだ。だが、全裸になった知佳は寂しく嗤うと、がっくりと机に両手を突いた。
「あ~、あ~っ!」
寂しいねぇ、淋しいよ・・・私だって、誰だって・・・
 
 然し、翌日、知佳は自分の部屋で、朝から、真剣な面差しで、机に向かって校正の作業をしていた。生原稿と付き合わせながら、ゲラ刷りの上を赤鉛筆が忙し気に走った。
 知佳は京都美大の在学中にアルバイトで今の仕事を始めた。最初は、元の原稿と刷り上がった原稿とを比べて誤字や脱字などの間違いが無いかをチェックする校正の仕事だけだったが、その根気の要るミスの許されない仕事を、彼女は丁寧に迅速に熟したので、半年もしない内に校閲の仕事も頼まれるようになった。校閲は誤字脱字のチェックは無論のこと、文章の内容が正しいものかどうかの事実確認をも行う仕事だった。文章に疑問や違和感を覚えると、その部分の信憑性を確認する為に、辞書や書籍やインターネットなどで色んな資料と照らし合わさなければならなかった。        
 仕事は細かい作業の繰り返しだった。知佳は人名や歴史的事実や数字などに誤りが無いかを確認し、更には、誤った文章表現や読む人を不快にする表現が使われていないかまで細かくチェックした。言わば、校閲の仕事は書き手と読み手を繋ぐ橋渡しの仕事だったのである。彼女の胸には、正しい文章を読み手に届けたい、書いた人の意図を正しく伝えたい、という作者と読者の両方に対する熱い思いが次第に芽生えて行った。仕事のボリュームが増えて心身共にきつさは増したが、その分、報酬の割が上がって収入が増えた。
 だが、知佳は美術やデザインの仕事を諦めた訳ではなかった。ただ、不本意ながら、大学を卒業した時、彼女は自分が望む仕事には就けなかった。夢は捨てた訳では無いが、ただ夢を喰ってだけで生き続けることは不可能だった。卒業して丸二年、知佳は校閲の仕事を続け、何とか、女ひとり、フリーランスで自活して今日まで生きて来た。
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