第20話 「こっちへ帰って来い。そして、俺のところへ嫁に来い!」

文字数 2,661文字

 暫くして、恵子が徐に言った。
「耕ちゃんだから、やっぱり話しちゃうわ。本当はね、私、何もかも順調って訳じゃないの」
静かに言うと、恵子はフォークとナイフを置き、テーブルの下で手を組んだ。
彼女の大きな黒い眼には、最悪の事態を予期して身構えているような表情が、浮かんでいた。
「私ね、中絶手術をしたの」
恵子は言った。
「一ヶ月前に・・・」
沢木は思わず、身を乗り出していた。
「そんな、お前・・・」
「ううん、どうってこと無かったわ」
騒がしいレストランの中で、その声はかすれるように聞こえた。
「簡単なことなの。事実簡単だったし」
「両親には話したのか?」
「ううん。だって、これは私自身の問題だもの。自分ひとりで責任を取るのが当然だったのよ。それに、三十歳前のいい大人が親に話すことじゃないわ」
 恵子は、ふっと一息吐いて、ワインを一口啜った。
「私、最後まで他人の力は借りなかったわ、全部一人で処理したの。そして、彼とも別れたわ」
恵子は顧問先である会社の妻子有る課長と恋に陥り、愛し合い、そして、妊娠したのだった。会社や事務所の上司や同僚或いは相手の家族に知られてはいけないという秘かな忍び逢いが、二人の恋を一途なものにしていった。二人は次第に激しく求め合うようになった。
しかし、二年近くの時を経て、二人の関係は惰性化して行った。最初の頃は、逢う度に新鮮さもあり、ときめきもあったが、時を経るに連れて、ただ漫然と会い、食事をして酒を飲み、そして、身体を重ね合う日常の中へと、二人は埋没して行った。恵子はそんな二人の関係に気を揉んだが、何が原因でどちらが悪いということが明快に解った訳でもなく、何と無しにそういう事態に沈んで行ったのだった。
そして、恵子は、次第に、所詮、世間的には不倫関係だという思いを抱くようになり、相手の家庭を壊す気は毛頭無く、又、仕事を犠牲にしてまで未婚の母を貫く勇気も持てなくて、悩んだ挙句に、中絶と別離を決断したのだった。
「相手の男はどうして居ったのだ?」
「別に生んで欲しいとも言わなかったわ」
「なんて奴だ!」
中絶手術のあと、高層マンションの窓から煌く東京の夜景を一望しながら、恵子は一晩中泣きに泣いたと言う。
「どうしてあんなに涙が溢れたのか、自分でもよく解らないのだけれど、泣き明かして朝になったら、憑き物が落ちたみたいに、すう~っと気持ちがあの人から離れていたの。それで直ぐに別れることにしたわ」
「電話の一本でもかけて呉れれば、何かの力になれることはあったのに」
「・・・・・」
「俺とお前は隣同士で育った幼なじみなんだ。どんな時でも俺はお前を守ってやるよ」
沢木はワインのグラスを口に運んで、苦い思いを飲み込んだ。
暫く沈黙が続いた。
そして、唐突に沢木が言った。
「こっちへ帰って来い。そして、俺のところへ嫁に来い!」
「えっ、耕ちゃんと結婚するの?」
突然の思いもよらぬ沢木の言葉に、恵子は呆れた表情をした。
「そうだ。結婚しよう!」
沢木の胸には急に熱いものが込み上げて来ていた。
そうだ!この一言を言う為に、子供の頃から今日まで、二十八年間も懸かったのだ!俺はお恵がずうっと好きだったのだ!
冗談交じりに聞いていた恵子も、沢木の真剣な眼差しに、笑いを消して、じっと見返して来た。
「ありがとう。嬉しいわ。でも、私で良いの?」
「ああ。お前が欲しいんだよ!」
テーブルの上に置かれた沢木の左手に、恵子の右手がそっと重なった。恵子は目を潤ませていた。
最後のデザートを食べ終えた二人は、混み合った店内の通路を通り抜けて、出口のカウンターで勘定を済ませてから、街路へ出た。
 二月の街は冷えていた。空には二日月が煌々と冴えている。二人は地下道に下りて、雑踏の中を京都駅へと向かった。恵子が腕を絡ませて来た。初めてのことであった。沢木は、あれっ、と思ったが、何も言わなかった。独りで突っ張って来たキャリアウーマンではなく、幼なじみの普通の女の娘が、そこに居た。
何があっても、どんな時でも、お前のことは必ず俺が守ってやるぞ!お恵・・・
二人は互いの家の前で「それじゃ」「お休みなさい」と今までと変わらぬ挨拶を交わして、それぞれの家の中へ入って行った。
 
 それから三日間、恵子からは何の連絡も無かった。沢木も気懸かりではあったが、自分から電話をするのを躊躇った。
 沢木には、真実にこれで良かったのだろうか、と自分自身に問い詰めるものがあった。安っぽい同情に駆られて、或いは、可哀想にという憐憫の情から、思わず「結婚しよう」と口走ったのではないか?俺は恵子に大変失礼なことをしたんじゃないか?あいつには迷惑だったんじゃないのか?「良いの?」とは聞いて来たが、「良いわ」とは言わなかった。
あいつは応諾の返事を留保したんだ。俺のことはやはり隣同士の幼なじみとしか思っていないのだろうか?俺はもっと繊細な思いやりのある寛大な態度を取るべきだったのだろうか?沢木は、自身に問い詰めれば詰めるほど、惑乱するばかりであったが、反面、否、あいつも俺の気持ちは子供の頃から嫌やと言うほど解っていた筈だし、あいつもまた俺と同じ思いを持っていたに違いない、それは俺が一番よく理解している、とも思った。
 四日目の昼、沢木が丁度、食事を終えて事務所に帰って来て間も無くに、恵子から携帯に電話が入った。
「耕ちゃん?今から東京に帰るわ。この度は色々とありがとう。真実に嬉しかった!でも、このままじゃ、耕ちゃんと結婚することは出来ないわ」
「おい、お恵、一寸待てよ」
沢木は慌てて受話器の向こうへ呼びかけた。
「私、もう一度自分を立直して来る。今の私じゃ耕ちゃんに失礼だもの。仕事にも人生にもチャレンジし直して、もう一度輝きを取り戻して来るわ」
「何もそんなに無理しなくても、今のお前で十分なんだよ」
「ううん、駄目よ。耕ちゃん、私が生きる自信を取り戻して帰って来たら、その時は、耕ちゃんの嫁さんにしてくれる?」
電話の声の向こうで、東京行きの新幹線がホームに入って来るアナウンスが微かに聞こえた。
「解った!一年でも二年でも待っていてやるよ!お前と俺は何もかも知り合っている幼なじみなんだからな。しっかりやって早く帰って来い。何かあったら今度はちゃんと電話して来るんだぞ」
電話を切りながら、沢木は恵子の笑顔を思い浮かべて、あいつなら大丈夫だ、きっと一人で立ち直れるだろう、と自らに言い聞かせた。
その時、職場には、午後の始業のチャイムが鳴り、沢木は、よっしゃ、と一言呟いて、自分の席へと歩いて行った。
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