第3話 翔子と向井、深夜の京都を散策する

文字数 2,940文字

 二人はホテルを出て御池通りを東に歩いた。この通りは歩道の幅が著しく広かった。
「聞くところによると、この歩道は京都市内で一番の広幅だそうですよ」
「そう言えば、確かに結構広いわね」
 間も無く二人は灯がきらきらと照り返る小さな川の橋を渡りかけた。
「わあ、高瀬川なのね!」
翔子が感嘆の声を上げた。
「わたし、川が大好きなの。川の直ぐ近くで育ったの。川は私を海へ、自由の天地へ連れて行ってくれると何時も思っていたの」
向井が微笑しながら解説した。
「この川が、昔、京都と伏見の間の物資を輸送する舟運を盛んにしたんです。森鴎外の小説“高瀬川”の舞台としても良く知られていますし・・・」
 橋を渡ると、直ぐに、木屋町通りを高瀬川沿いに南へ折れた。
喫茶店、バー、スナック、料亭、外国料理レストランなどが所狭ましと並んでいる。見たところ、店に集まる客達はみんな若い。正体を見抜かれる恐れがあるので翔子は入りたくなかった。星の無い蒸し暑い夜の中を二人は更に歩いた。
「江戸時代の初期に、大阪や伏見から薪炭と木材が高瀬舟に積まれて此処に集まり、材木問屋や材木商が倉庫や店舗を立ち並べるようになって木屋町という呼び名が付いたんです。そして、江戸中期には、この通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになって、酒楼娯楽の場へと姿を変えたということです。幕末には勤皇の志士が密会に利用した為、坂本竜馬や桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑がこの繁華な街のあちこちに立っています。大村益次路や本間精一郎、佐久間象山などが殉難したのもこの土地です」
 二人は木屋町から三条通りへ出、それから先斗町を南へ下った。
先斗町は三条から四条までの花街であったが、一般の飲食店も多数並んでいたし、“鴨川をどり”で知られる先斗町歌舞練場も直ぐ近くに在った。
「京都に花街って幾つ在るの?」
「京都には、上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町の五つの花街が有って、それらを総称して五花街と呼ぶんです」
「舞妓と芸妓はどう違うのかしら?」
「舞妓は芸妓の見習いで、京都の呼称です。舞妓は自分の髪で日本髪を結い、四季折々の花などをあしらった簪は優美な錺です。座敷や舞台に上がる時には白い化粧を施してお迎えや接客、遊びのお相手をします」
翔子は次々に質問を投げかけ、その一つ一つに向井は明快に答えた。その口調には誇りが込められているようにさえ思えた。向井はこの京都の何処かで育ったらしい。この街は彼の故郷なのだ・・・。未だ小学生だった頃、翔子は夏の日の午後、よく自転車に乗って生まれ育った西陣の街中を走り回ったものだった。だから、西陣についてなら大概のことは知っているのだが、向井もそれに劣らずこの京都に通じているようだった。
 翔子と向井は街灯の下をいつまでも歩き続けた。
四条通りを東に歩いてやがて花見小路にやって来た。南東の角に祇園の中でも最も格式の高い由緒あるお茶屋「一力亭」が見えた。
「暖簾に“万”と書かれているけど、あれは何?」
「此処は歌舞伎の“仮名手本忠臣蔵”にも登場する歴史的なお茶屋で、元々の屋号は“万亭”と言ったんですが、この芝居が大当たりして世に知れ渡るようになると、実在の屋号までが芝居の中で使われた“一力”と言う名で呼ばれるようになりました。大正の初めに法律が改正されて四条通りでのお茶屋営業が禁止になり、入口を花見小路側に移設したんですが、今でもお座敷の名に当時の名前が残っているんです」
 二人は更に東へ向かって歩いた。が、殆どの店がもう終いかけていた。人の往来も疎らになった。既に午前一時を廻っていたのだ。それでも翔子は全く危険を感じなかった。その内、八坂神社の赤い大門と暗い境内が見えて来た。
「あそこ、見て見たい」
翔子が先に立って正面の広い石段を登って行く。此処は東西南北、四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく夜間でも参拝することが出来た。
「尤も、防犯のため、監視カメラが設置され、夜間でも有人の警備が行われていますが、ね」
「そうなの」
この神社は、元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、明治元年の神仏分離令によって「八坂神社」と改められたものである。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約百万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ第二位である。
 広い境内を一巡りして石段下に戻ったところで向井がタクシーを拾おうとすると、翔子が拒んだ。
「否や、止して、お願い!」
「然し、もう遅いし・・・」
「あなたさえ疲れていなかったら、そして、未だ時間があるなら、もう少し歩きましょう、ね。わたし、一月にこの公演が始まって以来、殆ど外を歩いていないの。いつも舞台か楽屋か新幹線か車の中か、それともホテルの部屋か、閉じ籠ったままで過ごして来たの。色んな街を訪ねて来たのに何処が何処だか区別もつかないのよ。こんな風に自分の足で歩き回るなんて真実に久し振り。わたし、自分の眼でもっと色んなものを見たいし感じてみたい、もっと自分の足で歩いてみたいの。ましてや、此処は生まれ育った京都だし・・・」
で、二人は更に歩き続けた。向井が誘導したのは祇園の街だった。
 祇園は京都有数の繁華街であり歓楽街であった。舞妓の居る花街としてよく知られ、お茶屋や料亭の他にバーなどの飲食店も数多く軒を連ねていた。又、花見小路一帯は歴史的景観保全修景地区に指定されてもいた。
 二人はまた賑やかな街中に戻った。向井は先に立って細い小路に入って行く。彼は或る小さな喫茶店へ翔子を導いた。店内には昔の古いジャズが流れていた。一人で新聞を読んでタバコを吹かしている年配客が何人か居た。
「今、流れているのはモンクだよ」
コーヒーを注文してから向井が訊いた。
「知っている?セロニアス・モンク」
「モンクって?」
で、向井は愛すべきジャズ・ミュージシャンのことを説明した。モンク、パーカー、ガレスピー、ローチなどのことを話した。翔子は誰一人知らなかった。彼女にとっては既に化石と化したミュージシャンたちなのかも知れなかった。
二人はコーヒーのお替わりをして会話を続けた。小さなケーキを食べて話し続けた。その内に、とうとう、向井が腕時計に眼を落して言った。
「明日は公演の初日だし、そろそろホテルに戻った方が良いんじゃないかな」
「あなたはどうなの?奥さんが心配する?」
「僕には妻は居ない」
向井の顔が急に翳った。
翔子はじっと彼の顔を見詰めながら話の先を待った。きっと説明してくれるだろう・・・
その予感は的中した。
「妻は死んだんだ」
彼はじっとコーヒーカップを覗き込んだ。
「二十五歳だったから、きっとあなたより若かったでしょう。高速道路で中央分離帯を越えて突っ込んで来た居眠り運転の車にぶっつけられて、呆気無く亡くなってしまった」
彼の顔に表情は無かった。
翔子はテーブルに置かれた向井の左手を握りしめるようにして、右手を重ねた。
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