第16話 「お恵じゃないか!」

文字数 1,581文字

 地下鉄「四条」の改札口から地上へと続く地下道には、冷たい風が吹き抜けていた。やや俯き加減に歩を進める沢木耕治は、コートの襟を立てて「寒む!」と呟いた。
 階段を上がって地上へ出た沢木は、朝からの冬の冷たい雨が氷雨となって、灰色の空から降り続くのを見上げ、思わず身震いした。時刻は午後零時半を少し回ったところであり、傘を広げて烏丸御池に在るオフィスビルの方向へ歩き出したが、不首尾に終わった午前中の商談の徒労感に空腹感が重なって少し疲れを覚え、真冬の底冷えで凍てついた身体と心を温めたいと、午後の来客の無いことや緊急に処理しなければならない問題も差し迫っては無いことを思い起こして、「四条駅」近くのシティホテルの一階に在るカフェ&レストランへ入って行った。
 店内は昼食時の混雑と喧騒が一段落して、空席が散見された。一番奥の空いた席に壁を背にして座った沢木は、注文を取りに来た若いウエイトレスに、ホットコーヒー付の日替り定食を注文した。メニューの中身は確認しなかった。ただ温かいご飯と味噌汁と熱いコーヒーがあれば、それで良かった。これで心も身体も少しは温まるだろう。
 沢木はコートを脱ぎ、ビジネス鞄からおもむろに朝刊を取り出して、読み止しの箇所から再び目を通し始めた。
政治面も経済面も、海外記事も社会面も、明るい話題は何一つ無かった。読めば読むほど気持ちが滅入るものばかりだった。スポーツ欄にも芸能欄にもテレビ番組にも是と言って沢木の気を引き付ける記事は無かった。
吐息混じりに新聞をたたむと、沢木はそれを横の椅子に置いた鞄の上に無造作に放り投げた。
 運ばれて来た日替り定食の味噌汁を箸で掻き混ぜ、一口すすって、ふっと顔を上げた時、空いている奥の席を目指して、まるで見られることに馴れているような颯爽とした闊歩で、通路を歩いて来る一人の女性の姿が目に入った。
瞬間、沢木は、オッと声を上げた。 
 彼女は実に颯爽としていた。つやつや光っている踵の高いブーツを履いているせいか、記憶にあるよりはずっと背が高く見えた。髪は外側に少しカールした短めのカット、トレンチコートは雨に濡れて光っていた。二つの大きな瞳とつんと先の尖った鼻は以前と少しも変わらなかったが、目の周りには、小さな皺が少し刻まれて見えた。然し、沢木の目に映る彼女は十年前と変わらなかった。彼女は美しかった。
「お恵じゃないか!」
言いながら沢木はゆっくりと腰を浮かし、通路の方へ一歩足を踏み出した。
女は一瞬不審そうな顔で彼を見たが、直ぐにぱちぱちと瞬きをして彼を理解したらしく、「まあ、耕ちゃん!」と笑顔になって近づいて来た。
「驚いたな。こんな所で、こんな風にして、お前にばったり会うなんて、嘘みたいだ、全く。さあ、それをこっちに預かろう」
彼女の手から傘を受け取って紐を留め、彼女がトレンチコートを脱ぐのを手伝ってやった。
彼女は「ありがとう」とにこやかに礼を言って、彼のテーブルの向かいの席に腰を下ろした。
 黒のスーツに黒のパンタロンパンツ、襟元には黄色いネッカチーフが覗いて見える。少女の頃の面影はすっかり消え失せて、自立したキャリアウーマンそのものである。 
「お前も昼食をとらないか、何が良い?定食にするか?それとも一品料理が良いか?」
「コーヒーだけで良いわ。食事は済ませたから」
沢木はウエイトレスを手招きして、コーヒーを注文し、改めて恵子の顔を見つめた。彼女は顔に手をやって恥らうように目を伏せた。雨に濡れて化粧が少しまだらになっている。カールした髪も少し濡れていた。
「ほんとうに久し振りだな、お恵」
「でも、良く私だって解ったわね、耕ちゃん」
彼は笑い声を上げた。
「お前だったら、何日何処で会ったって解るよ。俺たちは十八年もの間、隣同士で暮らして来た幼なじみなのだからな」
恵子はふっふっふと含み笑いを漏らした。
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