第1話 その年、大空翔子は音楽界最大のスターだった

文字数 2,177文字

 その年、大空翔子は歌謡界のみならず音楽界最大のスターだった。
アルバムの売上は断トツだったし、日本中にシングル盤の唄声が毎日流れていた。彼女のピンナップ写真を大学の寮やワンルームマンションの部屋の壁に貼っている若者は数え切れないほど居たし、長い黒髪を肩の下まで真直ぐに垂らした独特のヘアースタイルは何万人もの若い女性たちに真似されていた。女性たちは皆、太った娘も痩せた娘も、背の高い娘も低い娘も、似合っても似合わなくても、ヘアーだけでなくファッションも競って真似ていた。
 十七歳で発売された青春歌謡が四十万枚を売上げるヒットとなって、その後もほぼ毎年、七十万枚から百五十万枚を売上げるヒットをコンスタントに飛ばし、十年経った今では押しも押されもせぬトップスターに上り詰めているのだった。
青春歌謡に哀愁演歌、ポップスにリズム歌謡、バラードにブルース、ジャズにロック、どんな曲も天性の美声と鋭い感性と創意に満ち満ちた表現とで忽ち自分のものにして歌い熟した。
 大空翔子・・・唄うだけでなく自ら作詞作曲もするシンガー・ソングライター・・・
日本中の何処に居ても彼女の歌声が否応なく耳に入った。ハードな曲では荒々しいまでに情熱的、バラード調の曲では一転して抒情的。生来の甘い美声に彼女ならではのメリハリが付けられている。
歌だけではない。映画にドラマにCMに、新聞や雑誌やネットの記事に、テレビのインタビューに、彼女の華麗なる容貌としなやかな姿態が見られない日は無かった。
「でも、ひとつ、解らないことが有るのだけれど・・・」
彼女は或る晩、一緒にステージに立った同い歳の歌い手に訊ねた。
「こんなに大騒ぎされているのに、私、どうして、ちっとも幸せじゃないのかしら?」
相手は何も言わずにただ微笑っただけだった。で、大空翔子も仕方なく詰まらなさそうに微笑い返した。だが、彼女にとっては、真実に、笑って居られるようなことでは無かったのである。

 その夏、大空翔子はデビュー十周年を記念する座長公演を、北海道から九州まで全国を縦断して行っていた。
公演は歌と芝居の二部構成で昼夜に分けて二回、一週間から十日間のロングランで行われた。翔子にとってはそんな公演は初めてだったので稽古は並大抵ではなかった。映画やテレビのカット割りの演技ではなく、舞台では通しで演じなければならない。感情をとことん移入して役の人物に成り切らなければ演じられるものではなかった。ただ、観客の反応が直ぐにストレートに跳ね返って来るのは魅力だった。翔子は幕が上がった後は役に集中した。それが嬉しく愉しく演じることに通じるようで、翔子の気持の良い時には観客の受けも良かった。
公演は東京を皮切りに札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡と巡って締め括りは故郷の京都だった。それは、故郷に錦を飾らせてやりたい、というプロデューサーやマネージャーの翔子に対する深い思いによるものだった。
 公演の前日に京都入りした翔子を待っていたのは夥しいファンの数と物々しい警備体制だった。大空翔子は並のスターではなかった。スターがスターだけに何が起こるか判らなかったし、デモやテロにも備えなければならなかった。だが、選りすぐりの極めて有能なガードマンと警察官たちはてきぱきと的確に迅速に事態に対処して、事も無く、彼女を宿泊先のホテルへ導いた。
 直ぐに始まる記者会見の場として用意されたのは京都ホテルの特別室だった。毛足の長い絨毯、煌びやかなシャンデリア、アンティーク調のランプなど崇高な雰囲気の漂う伝統的なヨーロピアンクラシズムが溢れる会場だった。
その控室では花束と果実を盛った篭と分厚い祝電の束が彼女を待っていた。待ち構えていたプロモーターがにこやかな微笑で彼女に挨拶する。部下を三人従えたホテルの支配人が「何か御用が有れば直ぐにお申し付け下さい」と丁重に言う。冷やしたシャンペンをマネージャーがグラスに四分の一ほど注ぐ。翔子は礼を言ってからグラスを掲げる。
「さあ、それでは会見と参りましょうか」
 集まった記者の数は二百人余り。芸能記者にレポーター、カメラマンにテレビの取材班。男性の記者も居れば女性記者も居た。
大空翔子に向けられた質問は極く月並みなものが多かった。
「京都のご出身だそうですが、最近の京都をどう思われますか?」
「東京に居る時にも“おばんざい”など京都の料理を食べられますか?」
「“アイム・エンジェル”という最新のヒット曲の発想はどのようにして得られたんですか?」
マネージャーで目下の恋人でもある武田修二が質問に対して横合いからお道化て答えた。
「彼女の京都に対する思い入れは今日の太陽よりも強烈ですよ」
どっと笑い声が湧き起った。
 その時、背の高い精悍な風貌の記者が立ち上がった。スーツにネクタイという他の記者とは違って改まった締まった格好をしている。手には手帳と小型テープレコーダーを持っていた。
「大空翔子さん」
彼は丁寧な物言いで訊ねた。
「今やあなたは押しも押されもしない大スターですが、それで、真実に、幸せですか?」 
翔子は不意を突かれたように惑って、返答に詰まった。
う~ん、と言うように眼を宙に泳がせてから、彼女は答えた。
「さあ、どうかしら」
マネージャーの武田が心配そうに翔子を見やった。
「正直なところ、良く判らないわ」
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