第31話 直樹、社長の一人娘と離別する

文字数 2,511文字

 その夜、直樹は永山輝美と逢う日だった。
四条通りを曲がって河原町通りを北へ歩いた彼は、待ち合せの喫茶店「カトレア」へ入って行った。
二階の窓際に席を取った直樹の元へウエイトレスが水とおしぼりを運んで来た。
「注文は、連れが来てからするから・・・」
ウエイトレスが去った後、彼は腕時計に眼をやった。時刻は約束の七時半だった。
凡そ三十分が経過し、直樹は注文した一人分のコーヒーを啜っていたが、待ち人は未だ来なかった。彼はポケットから携帯を取り出したが、躊躇って、また、仕舞った。
此方から架けることは無いか・・・
店の壁に架かった時計の針が九時半を差したところで、彼は立ち上がった。
これで、彼女ともさよならだ、な・・・
 店の外へ出た直樹は左右を眺めて輝美がやって来ないのを確かめると、バス停の方へ向かった。
もう四年か・・・俺はその間、何をして来たのか?・・・
バス停までやって来た彼は、ふと、思い直して、乗るのを止めて歩き出した。
直樹は、知佳に傘を差し掛けられて彼女と一緒に渡った四条大橋の袂に立って、両岸から朧にネオンが光る薄暗い川面を眺めた。 
 四年前、二十二歳の大学四年の時に直樹は永井輝美と知り合った。
直ぐに二人は親しくなり、間も無く、愛し合うようになった。彼女の父親は大会社「日本シール株式会社」のオーナー社長で、会社は百年以上の歴史を持つ東証一部上場会社だった。父親はその三代目社長で、直樹は大学を卒業する時、輝美の口利きでその大会社へ入った。彼女は社長の一人娘だったので、行く行くは直樹が婿入りして社長の職を継ぐのは暗黙の了承事だった。
 だが、四年の歳月を経て、直樹と輝美の関係は熟れ過ぎていた。今や何のときめきも緊張も無いに等しかった。ただ惰性で逢って躰を重ねる関係に堕していた。特に、最近の一、二年間、直樹の胸には、家も妻も仕事も他人に阿ね委ねる生き方に忸怩たる思いが強く芽生えていた。他人によって敷かれたレールの上を安易に歩く人生ではなく、自分の力で、独力で切り拓く人生を歩かなければ、との思いが日ごとに強くなっていた。
意気地の無い不甲斐無い打算的な生き方ではなく、矜持と自負と誇りを持った生き方をしたい・・・
川面を見下ろす直樹の胸に知佳の顔が蘇った。
女ひとりで、徒手空拳で、孤軍奮闘して生きている若い女性も居るというのに・・・
 
 翌日の夜、直樹が仕事から戻ると、マンションの部屋に灯が燈っていた。ドアを開けると、輝美がキッチン台の前に立って彼を迎えた。
直樹は黙ったまま中に入ってドアを閉めた。
「家を出る間際になって知人が訊ねて来て・・・」
輝美は、昨夜、約束の時間に遅れた理由を繕った。
直樹は椅子に腰を下ろして湯沸かしポットをセットした。
「ご免なさい・・・怒っている?」
「別に・・・」
輝美が直樹の向かいに腰を下ろした。
「十時前に店へ行ったんだけど、あなた、もう帰ってしまって居なかったわ」
「九時半まで、二時間待ったよ」
「そう、じゃ、すれ違いだったのね」
「・・・・・」
直樹の胸に、電話の一本くらい出来たんじゃないのか、という思いが湧き上がった。が、彼は何も言わなかった。
「お詫びに何かプレゼントをしようと思うんだけど・・・」
「そんなの、いいよ」
「何故?遠慮は要らないわ」
「未だ、君と結婚すると決めた訳じゃないし・・・」
「またそれを言うの?私の父の会社だから?私が社長の娘だから?だから気に入らないのね?」
「そんな単純なことじゃないよ」
「どう単純じゃないのよ?父が言っていたわ。会社に入いれたのも、これから先の仕事も、あなたの実力次第だって・・・」
「・・・・・」
「コネって、それほど関係無いんだ、って・・・」
「そんなことじゃないんだよ」
「だから、周囲にも、誰に対しても、気兼ねなんか要らないのよ」
「そんなことじゃない、って言っているだろう!」
「じゃ、どういうことなのよ?」
「兎に角、嫌やなんだ・・・今、俺は」
「あなた最近おかしいわ。あれも嫌、是も嫌・・・一体、何が不満なの?」
直樹は危うく口にしかけた言葉を吞み込んだ。
今、一番嫌なのは君だよ!・・・
「でも、あなたはいつも口だけね。いつかも、会社を辞める、って言い出すから心配してあげていたら、何でもなかったし・・・」
「・・・・・」
「駄々っ子なのね。あれもこれもみんな嫌や。もう少し大人になったら?あなたみたいなことを言って居たら、生きて行けないじゃないのよ」
「兎に角、もうこんな生き方は嫌やなんだよ!こんなことがこれから先も続くのかと思うと、お先真っ暗だ!」
「ちょっと大袈裟過ぎるんじゃない?甘えないでよ!一体どれだけ人生の苦しさや辛さや惨めさを知っていると言うの!」
「君に言われりゃ、世話無いよ・・・そうだよ、俺は甘ったれて居るんだよ。仕事を貰って、おまけに、家や妻や先の人生まで貰おうとしているんだから・・・」
先ほどからポットが沸騰していた。
「お湯が沸いているよ」
然し、輝美は動かなった。直樹は立ち上がってポットのコードを抜き、窓際へ歩んで行った。そして、窓の下を見下ろした直樹の眼に、紅い傘が通り過ぎて行くのが見えた。彼は眼を見張った。だが、それは紅い傘ではなく、窓の下の道を母親に手を引かれて歩く小さな女の子の黄色い傘だった。
もう雨も降っていないのに・・・
そう思いながら直樹はまた元の椅子へ戻った。
「もう、四年になるわね」
直樹がわざとらしく訊ねた。
「何が?」
「四年前、あなたは未だ学生だった」
「学生か・・・」
彼は苦笑いをした。
「あなた、変わったね」
「・・・・・」
「わたしが嫌やなのね、もう・・・」
「・・・・・」
「あなたにとって、私は何だったの?」
「・・・・・」
「そんな事、もう、どうでも良いのね」
そう言って輝美はすっくと立ち上がり、何気無くポットを眺めた。ポットは既に静かになっていた。
 彼女はドアを開けて外へ出て行き、直樹は背中で彼女が出て行く音を聞いた。やがて、マンションの下の道路に輝美が姿を現し、彼女は一度も振り返らずに去って行った。輝美の後姿を見下ろした直樹は躰を部屋の中へ向け直して、大きく息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐いた。
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