第4話 翌日の晩、二人が向かったのは翔子の生まれ育った西陣だった

文字数 2,827文字

 翌日の晩、向井吾郎はコンサートにやって来て、他の報道陣と一緒にステージを見上げた。翔子はバラードを唄いながら彼に気付いた。が、向井は熱心にメモを取っていてなかなか顔を上げなかった。翔子はじっと彼の顔を凝視し続けた。漸く翔子の視線に気づいて顔を上げた向井も食い入るように視線を合わせて翔子を見詰めた。それから後の翔子は向井の為だけに唄っているように、彼に自分の心を届けるかのように、感情を込めて唄った。
舞台の袖でマネージャーの武田がじっとその様子を見ていたが、彼の眼には嫉妬と憎悪の紅い炎が燃えているようだった。
 芝居とコンサートが終わるとプロモーターの助手が報道席の向井のところへやって来て、楽屋裏の方に来てくれないか、と言う。
向井が楽屋の化粧部屋が在る辺りに行ってみると既にパーティーが始まっていた。急拵えのバーカウンターと料理が山盛りのテーブルの周りには着飾ったホステスたちが控えていた。レコード会社の重役も居たし、選ばれた少数の記者たちも居た。それに追っかけの娘たちも・・・
向井は頻りにメモを取った。それぞれの化粧部屋から出て来た俳優やバンドのメンバーたちが混み合ったカウンターへ近づいて行く。彼等はにこやかに挨拶を交したり、握手をしたり、ホステスや女の娘たちと談笑したりしている。武田がしんがりに顔を表したが、その眼は赤かった。
 その内に警備係が近付いて来て「どうぞ此方に」と言った。コンクリートの通路の傾斜面を降りて行くと外車がずらっと並んだ駐車場に出た。警備員は二台目の車の脇に立って後部ドアを開けた。
「五分ほどしたら大空翔子さんがお見えになります」
向井が中に乗り込むと直ぐにドアが閉じられた。
暫くメモを取っていると急に背後が騒がしくなった。乱れた足音に加えて男女の叫び声が交錯している。その内、運転手が運転席に辷り込み、続いて後部ドアが開いて翔子が乗り込んで来た。運転手は年配の男だった。マネージャーの武田ではなかった。
「ああ、待っていてくれたのね、良かった!」
彼女は向井にしがみついて来た。
 二人が向かったのは翔子の生まれ育った西陣だった。
応仁の乱で西軍総大将の山名宗全らが堀川よりも西の土地に陣を構えたことから「西陣」の名が始まった。京都では大昔から織物作りが行われ、平安時代には現在の西陣の南側に織物職人が集まっていた。平安後期には「大舎人の綾」「大宮の絹」と呼ばれる織物が作られ、独自の重厚な織物は寺社の装飾に用いられた。応仁の乱の後、各地に離散していた織物職人が京都に戻って来て、西陣と呼ばれるこの地で織物づくりを再開したのである。
西陣の入り口で翔子は車を停め、向井と連れ立って一緒に降りた。車はそのまま引き帰えして行った。
 西陣の屋根は一面に暗い色をして沈んでいた。が、屋根の所々が四角に光っていた。その光っているのは、西陣の家々の電燈の下の生活が空へ流れて行く窓口となっているのだった。昼はその屋根のガラスの窓から陽の光が零れて入り、夜は其処から西陣の夜の生活が空へ向けて黄色く輝くのである。それは“天窓”だった。
星がきらきらと輝いている今夜は、その四角な窓は二つ三つと消えて行って、西陣の屋根は一面に暗い色で深く沈んでいた。
 路地が三方に分かれて続いていた。紅殻格子が隣り合って並ぶ間を、屋根と屋根とが隣り合って並ぶ間を、生活の風の吹いている路地が続いていた。吹き溜まりには石の地蔵が在って寺の門に続いていた。
翔子が屋根の犇めく路地の奥を見やって言った。
「屋根と屋根との近接している間の路地は、西陣に生き続けて来た音を封じ込め、生活の風の吹いている路地は曲がって、歴史の奥へ通う風の道に続いているの」
西陣で生まれ育った翔子の心の中には、歴史の流れる音がしているのではないか、それが彼女の音楽の原点ではないか、と向井は思った。
 西陣を後にした二人は堀川の一条に架る橋の袂で足を止めた。
一条戻り橋・・・
「戻り橋」の名は、大昔、漢学者三好清行の葬列がこの橋を通った際に、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の息子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返って父子が抱き合った、という話に由来している。
嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は、嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習があるし、逆に太平洋戦争中は、応召兵とその家族は兵が無事に戻ってくることを願ってこの橋に渡りに来ることがあったと言う。
「渡ってはいけないということと渡らねばならないと言うことの二つの意味を持つ橋と言う訳か・・・」
「わたしは此処から出ることも戻ることも出来ないで居るの」
翔子はそう言って橋の中央で立ち止まり、暗い川を見下ろした。
翔子の肩が微かに震え出した。向井には翔子が泣いているように見えた。
 翔子は、幼い頃、此処で父親と交わした会話を思い出していた。
「お前の母はこの戻り橋を渡って行ったのに、お前のところには帰って来なかった」
「この橋を渡って、何処かへ、なんで、行ってしもうたんや?」
「父にもそれは解らない。母もお前の処だけへは帰ろうと思って、この戻り橋を重たい心で渡って行ったんだろうよ」
「戻り橋やのに、なんで、戻って来いひんかったんや?」
「戻り橋を渡って行ったからと言って、戻って来ると決まっているものではない。人間はどうにもならない時、暗い風の吹く向こうに光っている何かを見たいから、そうするだけなんだよ」
「みんな悲しいのんやなあ」
「そうだとも。みんな悲しいものだから、戻り橋を暗く重たい心で渡って行くのだよ。見てごらんこの水の色を。真っ黒に空が映っているだけだよな」
向井が翔子の肩を優しく抱き寄せ、翔子はその広い胸に顔を埋めた。やがて、顔を上げた翔子の唇に向井の唇がそっと重ねられた。
「わたし、あなたに幸せにして貰いたいの」
翔子が囁いた。切実な思いが籠められている声だった。
 直ぐに二人は京都ホテルへ直行した。
ルームサービスで夕食を注文してから、翔子は電話交換手に、外部からの電話は一切取り継がないように頼んだ。午前二時まで語り合ってから二人はベッドに入った。
 明け方になって二人は目を覚ました。誰かがドアを激しく叩いている。ドアには熱狂的なファンから身を守る為に特別なチェーンが掛けられていた。
「うるさいわねぇ、武田さん!」
廊下で武田の喚く声がしたが、何と言っているのか向井には解らなかった。が、相手が激怒しているのは判った、それに泥酔していることも。 
「あんたの顔なんか見たくもないわ」
その一言が相手の怒りに火の油を注いだ。ドアを叩く音に加えて蹴飛ばす音まで聞こえて来た。
翔子は電話の受話器を取り上げると、ホテルの警備員に言った。
「あの人を自分の部屋に帰らせて。但し、警察は呼ばないでね、酔っ払っているだけなんだから」
受話器を置いてベッドの端に腰掛けた翔子の眼がぼんやりと虚空を見詰めた。
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