第12話 「愛しているわ、あなた!」

文字数 1,684文字

「ねえ、今、憲法改正が議論の俎上に乗っているじゃない?」
真由美は未だ諦めずに話を続けて来た。
「連休廃止に関する憲法改正ってことか?」
浅田は笑った。
「そうよ、国民投票にかけるのよ。自衛隊を軍隊にするとか、参政権の年齢を引き下げるとか、大学まで授業料を無料にするとか、何だかんだと色々言われているでしょう。連休についてだって討論されて然るべきだと思わない?」
「君の患者さん達はどう思うかなあ」
「私の患者さんがどう思うかは、あなたの方が良く分かって居るじゃない。彼等は私の言うことなどそれほど重要とは思って居ないわ」
浅田は話題を変えた。
「最近、仕事の方はどうなんだ?」
「うん、まあね。まあまあ、ってとこよ」
「ふ~ん、そんなに上手く行ってないってことか・・・」
 少し気まずい沈黙が流れて、二人の間に横たわる或る距離の大きさが携帯を通して浅田に届けられた。
「好きな時に好きなようにして、あなたに逢えないのが淋しい」
真由美が言った。
「僕も君が恋しいよ」
言いながら、浅田は自分の心に思っていた。
これも今に始まったことじゃない。三年も前に、二人が交際い始めた時から、既に解っていたことだ・・・またこの話を蒸し返すのか・・・
「いつも、このことを考えるの」
真由美の声が哀しみを帯び、メランコリックな調子になって来た。
「それで、よく思うのよ。わたしたち間違っていたのかしら、って・・・もっと正確に言うと、私が間違ったのかしら、って・・・私が諦めて、奥さんの居るあなたから身を引いていたら・・・」
会話が途切れた。
「わたし、もう滅茶苦茶に淋しくって仕様が無くなることが有るの」
浅田は何も言えなかった。
「でも、それでもわたし・・・、あなたを諦め切れないんだってことが良く判る日が有るの。そして、これが自分の選んだ道だし、これで良かったんだってことも解っているのよ」
暫く、沈黙が続いた。
「やっぱりあなたが、恋しい」
浅田はひと息吐いてから、一気に話し出した。
「君と行った美術館に足を運ぶたびに、君と聴いたジャズのCDを聴くたびに、それに、君に借りた恋愛小説を読み返すたびに、僕の心には君の姿が見えて来るんだ」
「・・・・・」
「いつものレストランのあのテーブル、四条河原町界隈のあの一画、植物公園のあの花壇、そして京都の街の大半を君と共有しているんだ、僕は」
「・・・・・」
「誰かが昼食にパスタを注文する時、豊かな髪を後ろ手に掻き上げる女性を見る時、あの喫茶店で約束の人に逢う時には、僕は何時も君を思い出すんだ」
「・・・・・」
「寒い雪の季節になるとやっぱり君に想い焦がれるんだ」
「・・・・・」
「今こうして電話をしていると、君の声が僕の胸を締め付けるんだよ」
真由美が言った。
「有難う、心の底から嬉しいわ」
でも、と言って真由美が続けた。
「色んな事が以前より悪くなるような気がするの」
「人生って大なり小なりそういうものさ。どんな人間の気持にもそれなりの理由があるものだよ」
「そりゃそうよね」
二人はその後しばらく話してから、土曜日の逢瀬を確かめ合った。
浅田が最後に遅ればせながらの挨拶を真由美に贈った。
「メリー・クリスマス!」
真由美が笑って、携帯を切った。
 
 電話を切ってからも真由美は携帯の方をじっと見て暫く其処に座っていたが、やがて、バスルームに行くと浴槽に湯を満たした。
長い間、浴槽に浸かりながら、今し方浅田が言ったことをあれこれ反芻して、真由美は心が熱くなって来た。
「哲也さぁ~ん!」
彼女は突然大きな声で彼の名を呼んだ。が、真由美の声は浴槽のタイルの壁にこだましただけだった。
今日見た映画の中だと、人は皆、上手い具合に好き合い、同じことを好み、最後はめでたく一緒になると言うのに、現実の人生ではそんな風には行かない。いつも何か説明のつかない不可思議なことが起こって、それが人と人との間に入り込んで来て上手く行かなくなる。真由美はそんなことを思い巡らしながら入浴を終え、やがて再び、携帯に手を伸ばした。
「愛しているわ、あなた!」
真由美が言った。
「ああ、解っているよ」
浅田が答えた。
「僕も愛しているよ、真由美」
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