第49話 クラブ歌手梨乃、嶋木に助けられる

文字数 2,639文字

 その夜、沢井梨乃が祇園に在るダイニング・バー「マリオズ」で最初の歌を唄い出した時、外には雨が降り頻り、客は疎らだった。途方に暮れたような暗い表情をした中年女性や深く澱んだ沈黙に浸って項垂れている男、掴み処の無いクールな雰囲気を漂わせた若者など、梨乃はギターの音を合わせて曲を奏で始めても、客達の方を真面に観ることを躊躇した。仕方なく、彼女は店の隅っこで独り背中を見せて食事をしている男の方を向いて唄い出した。そのハスキーだが深味のある声で、エミル―・ハリスとドリー・バートンの曲を一曲ずつとマクガリガル・シスターズの曲を二曲唄った。
 彼女はグリーンのドレスでスツールに腰掛けて唄いながらも、カウンターの上に在るテレビから流れ出る野球中継の音声や、ダイリキを作る氷割り機の音や、四条通りを走る車の音などが入り混じった騒音が、何とか消えてくれないものかと祈って居た。バーのオーナーが自分のことを気に入ってくれることや背中を向けて座っている男が自分の歌を好いてくれることも願っていた。
 不意に、背中を向けていた男が梨乃の方を振り向いた。
男は黒いシャツに黒いスーツを着込み、黒いネクタイを結んで黒い帽子を被っていた。足元には黒い靴が光っていた。
あらっ、あの人、いつか、先日の・・・
梨乃の胸に二月ほど前の深夜の出来事が鮮明に蘇えった。
 
 その夜、唄い終わって店を出た裏口に男が二人、梨乃を待って居た。
「なあ、これから、其処ら辺で、一杯飲ろうぜ、ちょいと付き合いなよ」
「折角ですが、お断りします」
「まあ、そう堅いことを言わずにさあ。夜は長いぜ、付き合えよ、な」
男たちは彼女の腕を掴んで大通りの方へ歩き出した。
「何、するのよ、離してよ!」
梨乃は掴まれた腕を振り解いて、灯りの見える花見小路通りの方へ駆け出した。
「このアマ!」
彼女は、尚も掴み掛って来る男たちに向かって、ハンドバッグを振り回して抗った。
「助けてぇ~!」
叫びながら逃げる梨乃のヒールの先が何かに引っ掛って、彼女は転倒した。
男たちが梨乃の躰を鷲掴みにして彼女を立たせ、頬にビンタを張った。
その時だった。
大通りから大きな声が叫んだ。
「こらっ!お前ら其処で、何をしている!」
逆光で顔はよく見えなかったが、背の高い大きな男だった。
「何をやっているんだ!止めろ!」
彼は男達を止めに入った、が、直ぐに、激しい揉み合いになった。
男は一人の相手の顔にパンチを見舞い襟首を掴んで引きずり廻して、烈しい肘打ちを顎に喰らわせた。ゴキッと何かが潰れる音がして、相手は転倒した。
もう一人が猛然と右手を大きく振り回して男の顔を殴りつけた。その一撃を喰った一瞬から男は凄まじい反撃に出た。殴られたら殴り返すという本能だけが男を突き動かしているようだった。相手の下腹部にパンチの連打を打ち込み、苦しそうに咳き込みながら掴み掛かろうとするその腎臓辺りに強烈な左フックを喰らわせ、崩れそうになる相手の顎に右のアッパーを突き上げた。
梨乃はその凶暴で残酷なまでの行為に言葉も無く立ち尽くして驚愕した。
壁に沿って尻から崩れ落ちた仲間を見てもう一人は戦意を喪失した。
「さっさと消え失せろ!」
男が二人に一喝した。
二人はのろのろと立ち上がり、顔や腕を押さえながら、よろよろと立ち去った。
「大丈夫か?」
男は、未だ暗い怯えた様子でその場に立ち竦んでいる梨乃に声をかけた。
彼女は少し片足を引き摺るようにして後ずさりながら言った。
「はい、大丈夫です。なんとか歩けますから・・・」
 女は思った以上に若かった、未だ二十歳過ぎにしか見えない。が、その顔はひどく歪んで強張っていた。それは若い男達に襲われかけたという恐怖の強張りもあったが、それと同じように、助けてくれた男の凶暴さに対する恐怖心からのものでもあった。男が一歩近づくと梨乃は又、後退りした。彼女の眼にははっきりと恐怖の色が浮かんでいた。
 男は思った。
この女は俺の正体を直感したのか?・・・見た人間が恐怖を覚えるほどに残酷で狂暴な振る舞いをした男が、善良な普通の市民ではないことを見て取ったのか?・・・
「ご心配無く。その角に在るクラブ“純”の嶋木という者です。安心して下さい」
男は丁寧な物言いで柔らかく穏やかに名乗った。
はあ、と言う貌で納得の表情をした梨乃は、漸く頷いて一歩踏み出そうとした。が、片方の足が酷く痛んで直ぐに顔を顰めた。
「ほんとうに大丈夫か?うちの店で一休みしたらどうだ?さあ、早く俺の肩に摑まって」
梨乃は恐る恐る右手を男の左肩に乗せて掴まり、そのままの姿勢で二人は店までの数メートルの距離をそろそろと歩いた。
 
 店に着いた彼女を入り口近くの止まり木に座らせた男は、冷蔵庫から冷たい水を出してコップに移し、梨乃の前にそろりと置いた。それから、徐に、かち割った氷をビニール袋に詰めて彼女に差し出した。
「それで痛めた足首を冷やすと良いよ。少しは楽になるだろうから、さ」
梨乃は素直に、有難うございます、と礼を言って直ぐに足を冷やし始めた。
「唄い終わったら、客席のテーブルに呼ばれたんです」
ハスキーな声で梨乃が言った。
「あの人たち、お酒を一杯奢ると言ったんです。私はただ、お客様の折角のお志なので、一杯だけ頂戴して失礼する心算だったのに、あの人達、それ以上のことを要求し始めて・・・」
「それで、店の通用口から出て来たら、待ち伏せていた、ということか?」
「はい」
「クラブ歌手も楽じゃないね」
「私、レコード歌手になりたくて、彼方此方オーディションを受けているのですけど・・・」
「そうか、そりゃ、その方が良いよ。クラブ歌手は、日銭は稼げるかもしれないが、歳を取ると大変だろうからな」
男は感慨深げな表情をした。
俺にもチャンピオンを夢見た若い頃もあったなあ・・・
「あのな、八田美紀も蒼井那美も松尾瑠奈も初めは皆、クラブ歌手だったんだよ。ジャリタレやアイドルのように直ぐに消えてしまう泡沫歌手じゃなくて、大人の歌をじっくり聞かせる息の長い歌手になることだな。諦めずに頑張ることだよ」
「はい、ありがとうございます」
男は、漸く顔に微笑を浮かべた梨乃に向かって、軽くうなずいて見せた。
 暫くして、タクシーを呼んで帰ると言う彼女を手助けして、男は店の入り口まで肩を貸してくれた。
そろそろと歩いて入口に立った梨乃は、向き直ってもう一度「有難うございました」と深々と一礼した。
「じゃ」
軽く左手を挙げて、男は店の中へ踵を返した。
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