第52話 梨乃、嶋木の出所を出迎える

文字数 1,190文字

 九月の中半を過ぎても日射しは一向に衰えず、残暑は厳しかった。
今日は嶋木が出獄する日であった。
彼は中年の職員に見送られて刑務所の裏門を潜り出た。二年半年振りの塀の外は暑かった。
扉を閉めて中へ消えて行く職員の背中に向かって軽くお辞儀をした嶋木は、塀沿いの道をゆっくりと歩き始めた。身の回り品を入れたバッグがひどく重く感じられた。出迎えの車も無く、出迎える人間も居なかった。
 ふと視線を上げた嶋木の眼に、塀際に停めた車の脇に立って日射しを避けながら、此方を見ている女性の姿が見て取れた。西陽が容赦なく女性の顔に射し込んで、彼女は手を額に翳しながら彼が近付いて行くのを待った。沢井梨乃だった。ベージュのブラウスに黒のタイトスカート、ミニの裾からすらりと伸びた白い足は照りつける太陽よりも眩しかった。
 近づいた嶋木を梨乃は真直ぐに凝視した。
「お帰りなさい。長い間・・・」
そこまで言って後は言葉にならなかった。大きな黒い瞳に見る間に涙が溢れ出し、梨乃は嶋木にしがみ付いた。
彼は戸惑ってどぎまぎしたが、やがて、ゆっくりと梨乃の背中に手を廻して優しく擦った。
一泣きして涙を拭った梨乃は嶋木を車の中へ誘った。
「立ち話も何ですから、何処かその辺のお店で、冷たい物でも飲みながら話しましょうか」
「否や、それは駄目だ。君に迷惑がかかる」
「大丈夫です、私の知合いの店ですから・・・」
 裏口から入ったティー・カフェは冷房が効いて涼しかった。
運ばれて来たアイス・コーヒーを口にして、二人はホッと一息ついた。
嶋木が改めて梨乃に言った。
「もう俺には関わるな。君が何と言おうと俺は前科者だ。こんな俺と関わっていることが世間に知れたら、袋叩きに逢う、スター歌手沢井梨乃が抹殺されることになる。だからもう俺とは関わるな」
梨乃は暫く嶋木の顔をまじまじと見やっていたが、きっと眦を挙げて、言った。
「私のこと、そんな風な女にしか見ていなかったのですか?私の思いはその程度の軽さでしかあなたには伝わっていなかったのですか?」
「・・・・・」
「それなら物凄く悔しいです」
梨乃は零れ出た涙を拭いもせず、尚、嶋木の顔を凝視した。
嶋木は心の中で思っていた。
俺はこの先どうなるか解からない。安全地帯の此方側で平穏な人生を送ることは不可能だろう。彼女とは別の世界の人間だ。彼女の優しさや思いやりを受容れて生きて行くような、柔な生き方をしてはいけないのだ・・・
「・・・・・」
 やがて梨乃は、悲嘆に沈んだ表情を浮かべハンカチで口元を押さえ乍ら、眼を伏せ人目を避けるようにして、店を出て行った。
視線を上げて梨乃の後姿を見送った嶋木の胸を、彼女の不在が鋭く締め付けた。刑務所に入っている間もずうっと自分を励まし続けてくれた梨乃の健気さが今更ながらに心の底から湧き上がって来た。
梨乃の去った窓の向こうの道には、赤みを帯びた日射しが未だ照り付けていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み