第54話 「君は俺の希望なんだよ」

文字数 1,840文字

 梨乃と嶋木はシティホテルに在るイタリア料理の店へ入り、ブースに向かい合って座った。
梨乃は目立たないように化粧を薄くし、ヘアスタイルは逆毛を立てずに有り触れた誰でもがしている髪型にしていた。彼女の両の眼はアイシャドウを施さず、哀しみと後悔のポケットのように昏い色に塗り込められていた。が、それでも彼女は、スター歌手に似つかわしい優しくて何かしら訴えかけるような表情を保っていた。
 ところが、三杯目のホワイト・リキュールを飲み干した辺りから、彼女の何もかもが変わり始めた。話し方が乱れ、言葉は彼方此方で途切れ出して、顔には赤く斑点のようなものが浮いて出た。そして、ウエイターが仔牛のカツレツとパスタを運んで来た時、彼女は飲物をもう一杯注文した。梨乃は恰も全身の骨を抜かれてしまったかのように、躰をくねらせて揺れ出した。
「わたしは、あなたに、嫌われるようなことは、何一つも、していないでしょう?なのに、何故、あなたは、私を、愛してくれないの?」
そんな風に話し出し、止まらなくなった。
「あなたは、わたしが、嫌いなの?嫌いなら嫌いと、はっきり言ってよ。わたしが、世間から、バッシングされる?歌手生命が絶たれる?わたしの人生が、お終いになる?そんなことばかり、言っているけど、真実は、あなた自身が、怖いんでしょう?わたしとあなたの人生が心中するのが・・・わたしは、そんなこと、一向に構わないのよ、あなたと一緒なら・・・」
嶋木は、彼女は寂しさで悪酔いして居るな、と思った。彼は優しく諭すように話した。
「堅気の真っ当な歌手である君と、やさぐれの前科者の俺とは、住んでいる世界が丸切り違うんだ。二人は、所詮、相容れない道を歩いているんだよ。然し、それでも、俺たちは何処かで、何かで、繋がっている。俺はそう思っている。何も男と女の関係だけが全てでは無いだろう。俺たちは、ひょっとして、一生の相棒かも知れんぞ、それで十分じゃないのか」
 
 食事の後、嶋木は梨乃をタクシーで送り届けた。
梨乃は車の中で頗る不機嫌だったが、タクシーが川端の大通りを走り出すと、いつしか、微睡み始めた。
車は公園に沿った道を走り、やがて、彼女のマンションの前で停まった。
「部屋まで送って来てよ」
マンション入口の玄関で梨乃が言った。
「否や、行かない方が良いだろう」
「あなた、本気で言っているの?」
梨乃の顔が強張った。彼女は怒っているようだった。
「そうだ、冗談じゃ無く、本気だよ」
梨乃はふう~っと息を吐き、怒りを和らげるかの調子で言った。 
「あなたの言う通りかも知れないわね。でも、あなたって、強いのね」
その言葉に嶋木が引っ掛かった。
「そうじゃないよ。俺は駄目な弱い人間なんだよ!」
「えっ?」
「俺にも高校生の頃、夢は有ったんだ」
「夢?」
「ああ。プロボクシングの世界チャンピオンになると言う馬鹿でかい見果てぬ夢さ」
「それがどうして、駄目に?」
「プロ昇格を決める大事な試合で、滅多打ちにあってノックアウトされたんだ。その時の打たれた恐怖で俺は二度とリングに上がれなくなってしまった・・・」
「・・・・・」
「最終ラウンドで勝てるチャンスが巡って来たんだ。だが、これは勝てるかも・・・と緩んだ心の隙に相手のラッキーパンチを喰ったんだ。俺は、打たれても、打たれても立ち続けたんだが、ゴングが鳴る寸前に、とうとう、仰向けに卒倒した。その打たれ続けた恐怖が脳裏にこびりついて、その恐怖に慄いて、二度とリングに立てなくなった。俺はそんな意気地無しの弱虫なんだよ。だから、三度も警察にパクられて、刑務所にぶち込まれる羽目になった」
そうか・・・そういうことがあったのか・・・
梨乃は、漸く、嶋木と言う男の根元が少し解かった気がした。
「君は俺の希望なんだよ」
「希望って?」
「君は二十一歳になっても夢を諦めず、遂に、レコード歌手になって、然も、ビッグなスターになった。これからも益々良い歌をどんどん唄って、グレートな大歌手になれる。だから、君は俺の希望なんだ」
梨乃は思った。
自分の弱さをちゃんと解かっているこの人は、やっぱり、懐の深い強くて優しい人なんだわ。知り合って直ぐに、好いた、惚れたと獣ごっこに走る男は山ほど居るけど、こんな人は滅多に居ない・・・そうか、人生の希望か・・・
彼女はマンションのエントランスに向かって歩き出してから、ふと、立ち止まった。
「あなたって、男の中の男ね」
そう言って、ふらつくヒールを鳴らして、マンションのロビーへと消えて行った。
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