第43話 謙二、現場の事故で瀕死の重傷を負う

文字数 2,559文字

 座談会の本番がこれから始まろうとしているスタジオは慌しい雰囲気に包まれていた。
スタッフが謙二の指示を仰ぎにやって来て、彼は的確に応答し真剣そのものの表情をしていた。その謙二の眼が、ふと、天井に注がれた瞬間、吊るされた大きな照明機の一つがぐらりと揺れた。その下を出演者らしい子供が一人通り掛かった。謙二はいきなり駆け出してその子供を力一杯突き飛ばした。刹那、照明機が謙二の上に落下し、子供が悲鳴を上げた。
 
 プルプルプル・・・綾香の携帯が鳴った。架けて来たのは思いも寄らぬ純だった。
「もしもし、姉ちゃん?謙二さんが大変なの、スタジオで事故に遭って病院に入院したの、直ぐに行って上げて!」
声は切迫していた。綾香は取るものも取り終えず、直ぐに言われた京都府立病院へ馳せ参じた。
 綾香がそう~っと扉を開けて入った病室のベッドに、謙二はこんこんと眠っていた。枕元に看護師が一人、計器の目盛りを読み込んでいた。
「手術は随分と時間がかかりましたが、出来る限りのことは行われましたので、目下のところは経過を観ているところです」
「はい・・・」
「未だ麻酔が利いていますが、もう三十分もしたら目覚められるでしょう」
 綾香は看護師の言葉が耳に入らないかのようにベッドの傍に膝間付き、愛しむように毛布の中へ手を差し入れて謙二の脚に触れた。
「冷たい!」
彼女は思わず呟いた後、両の掌で温めるように撫で擦った。
「生きて・・・謙二さん・・・生きて・・・」
綾香は掌を合わせて眼を瞑った。
この人を助けて下さい。この人は未だ本当の仕事もしていないし、人生の喜びも幾らも味わって居ません。このまま死なせては余りにも可哀相です。罰するならどうぞこの私を罰して下さい。この人を責めないで下さい・・・
 コトリと扉が開いた。純がゆっくりと入って来て綾香に近づいた。
「純・・・」
振り返った綾香に純の表情は意外に明るかった。
「峠は越えたみたいね。今、廊下で看護師さんに訊いたの」
「あなた、どうして事故のことを知ったの?」
「劇団のマネージャーが小耳に挟んで来たの。で、テレビ局へ電話して訊いたら意外と詳しく教えてくれたわけ」
「そうだったの・・・」
「もし死んじゃうんだったら、せめて一日でも二日でも、姉ちゃんと一緒に過ごせたら良いだろう、そう思って電話したの」
「私、あなたに・・・」
純が綾香の言葉を遮った。
「良いのよ、もう・・・姉ちゃんだって人間だし、女だし、誰かを好きになって何が悪いのよ。偶々、私も同じ相手が好きだった、ということだけだわ。悪いのは私の方よ、随分我が儘を言って、心配かけて、真実にご免なさい」
純は意外なほどさばさばとして、あっけらかんとしていた。
「純、あなた、本当は随分と無理しているんじゃない?」
「どうして?」
「どうして、って・・・」
「嫌だなあ、姉ちゃんは未だ拘っているようだけど、私はもう心の中は透明よ、真実よ!」
綾香は、何と言って良いか、言葉が出て来なかった。
「大丈夫よ、もう心配しないで・・・それより、しっかり看病してあげると良いわ」
「有難う、純・・・」
綾香の眼から涙が溢れた。
「姉ちゃん、何を泣くのよ。私は一皮剥けて、一歩大人に成長したんだから、ね」
看護師が点滴を観に入って来た。

 ベッドには早い恢復を見せて、顔色も良くなった謙二が横たわっていた。綾香は、明るい陽射しを受けた窓辺に、空を見上げて立っていた。
「何を考えているんだ、君は?」
綾香がはっと振り返った。
「先生は、もう半月もすれば退院出来る、っておっしゃっていたわ、良かったわねぇ」
「それで?」
「・・・・・」
「君は昨日の夕方、看病をしてくれながら何度も溜息を吐いていた。それから一度、窓を開けて、雨を観ながら座り込んで泣いていた・・・何を考えているんだ、一体?」
「ねえ、謙二さん。私にもう一度、ファッションデザインの中で思い切り感動に浸らせて下さい」
「それはどういうことだ?」
「私、パリから招かれているの」
「パリ?・・・」
「私を活き返らせて欲しいの。あなたとの生活より、私は自分の創るファッションにこれからの生活を賭けてみたいの」
「・・・パリの仕事は君にとっては打って付けの仕事なんだね?」
「・・・・・」
「僕は喜んで送り出すべきかも知れないね」
「謙二さん・・・」
「・・・・・」
「じゃ、あなたは・・・」
綾香は圧えていた感情を堪え切れなくなった。
「あなたの愛情は一生忘れないわ。けれど、私、正直に言うわ、だから聞いて頂戴ね。あなたと恋のさや当てをしたのは、他でも無い実の姉妹なの、あの妹の純なの。私はあなたと妹の間で揺れ動いて、そして、悩んで来たわ。どうか私に、もう一度、此処を抜け出せる機会を与えて欲しいの。我が儘言って悪いけど、どうか聞き入れて欲しいの。私に、仕事に全人生を懸ける三年間の時を貸して頂戴、ね、お願い。そして、もしも、その三年の間にあなたの気持が変わらなかったら、私も全てを投げ捨ててあなたに捧げるわ、喜んで・・・喜んで、ね・・・」
「僕は、真実は、ずうっとこのベッドの上で考えていたんだ、君に甘え過ぎていやしないかとね。パリへは行って下さい。僕はこれ以上あなたを苦しめてはいけないと思っている。そんなことはよく解っているのに、つい我が儘を言って来た・・・それに、今じゃパリなんて近い所だし何時でも行ける、声だって毎日でも聞かれるし・・・」
「有難う、謙二さん・・・」
綾香の両眼から涙が溢れ出した。
謙二は静かに眼を閉じた。

 大阪空港国際線ビルの入口で純は声を掛けられた。
「純ちゃ~ん」
振り返ると圭一だった。
「君も姉さんの見送りに?」
「ええ、あなたも?」
「ああ」
二人は急ぎ足に搭乗口ゲートへ向かった。
綾香は二十数人の関係者に見送られて、手を振りながら、満面の笑顔でゲートへ消えて行った。
純は思っていた。
姉ちゃんの後姿には何の衒いも虚勢も無い。彼女は既に過去から一歩踏み出し、自分に合った生き方を歩き始めている。さて、私は・・・これからだわ」
綾香の乗ったジェット機が離陸し西の空に飛び立って行った。
「どうだ?お茶でも一杯飲んで行かないか?」
圭一が純を誘った。
「そうね、良いかも、ね」
二人は肩を並べてロビーの端に在るティールームへ足を運んだ。何方からともなく微笑み交わしながら・・・
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