第6話 美香は花見小路のホステスである

文字数 2,507文字

「済みません、無理を言って」
「良いのよ、そんなに気にしなくても。弟さんが結婚することになって、今夜はその相手の人を連れて来ると言うのでしょう、良い話じゃないの」
ママは、弟が結婚の相手を連れて、美香の処へ挨拶にやって来ることを喜んでくれていた。
「それじゃ、週末の忙しい時に申し訳ありませんが、今夜は休ませて頂きます」 
そう言って、美香はクラブ「華」を出た。
 美香は四条花見小路の歓楽街に在るクラブのホステスである。普段は午後八時の開店に合わせて店に出、着替えを済ませて化粧や髪を入念にチェックした後、客の酒の席に着く。昔は閉店後に客とホテルへ付き合うような店を転々としたこともあるが、「華」はそういう店ではなかった。「華」に勤めてもう五年になる。
 美香は繁華街の四条通りを東に歩いて、東大路通りに出た。そして、コンビニの角を曲がって、その先の小川に懸かる橋に向かった。美香の住む瀟洒なマンションは清水道の橋を渡って坂を少し上った所に在る。美香は降り注ぐ春の陽光をまぶしく感じながら歩いた。
 清水坂の通りには多くの人が往き来していたのに、一歩曲がったマンションへの脇の通りは閑散としていて、美香が歩いて行く道の前方に、二人ばかり小さな人影が動いているだけであった。
 通りを横切って川の袂に出た所で、目の前をすいと掠め過ぎたものがあった。それはあっという間に白く濁った春の空へ駆け上がり、射差しを受けてきらりと腹を返すと、今度は矢のように水面に降りて来た。
あっ、つばめだわ・・・
美香は立ち止まって、水面すれすれに川下の方へ姿を消すつばめを見送った。今年初めて見るつばめだった。今年どころか、もう何年もつばめなど見たことは無かったように思う。
 美香の父は早くに亡くなったが、暫くして、残った母も病気で倒れた。二人とも癌だったと、美香と弟の面倒を見てくれた叔父夫婦が言った。叔父夫婦は、店舗を持たない呉服や帯地の仲買人をやっていた。 
美香の母親が床から起き上がれなくなると、叔父夫婦は美香が高校を卒業すると同時にバーに世話した。手っ取り早く金を稼げる仕事に就けたのである。美香が十八歳の時であった。
「お前ももう一人前だ。辛抱して、頑張って働くのだぞ」
叔父の言う意味はよく解った。
 美香はそれまでも、学校に通いながら、身体の弱い母親の代わりに家事をこなし、近くに在る食品スーパーのレジや和菓子店の販売等のアルバイトを掛持ちで、数々やっていた。しかし、そこで手に入る賃金は多寡が知れた額で、母親が病気になって寝込むと、そんなものでは忽ち暮らして行けなくなった。病気の母親の医者代や薬代を稼がなければならなかったし、弟は未だ小学生であった。病人と弟の面倒を見てくれる叔父夫婦にも、何がしかの生活費は払わなければならなかった。堅気の商売ではなく、時給の高い水商売に入るのも止むを得ない、と美香は思った。
 働き始めたバーで、仕事に慣れ、客とも馴染んだ頃、ママに中年の常連客と寝ることを強要された。驚いた美香は早々に逃げ出したが、次に勤めた処でも同じであった。初めは嘆き哀しんだ、が、やがて心が麻痺して何とも思わなくなって行った。何時までも泣いてはいられなかったし、そんなことでは生きても行けないと美香は自分自身に居直った。その頃には、叔父が言った「辛抱しろ」という言葉には、こういうことも含まれていたのだと解っていた。波に流されるように、浮世の仕組みの中を無感情に流れて行った。
 三年後に母親が亡くなった。一人きりになった弟は叔父夫婦が引取って面倒を見てくれた。しかし、美香はいかがわしいバーの勤めから、直ぐに足を抜くことは出来なかった。母親の死んだ後には、少なからぬ借金が残っていた。父親と母親の葬儀費用は叔父夫婦が立て替えていたし、中学から高校へ通う弟の生活費や学費の額も馬鹿にはならなかった。そういうものを粗方綺麗に精算し、高校の進路指導部の紹介で呉服卸の会社へ就職した弟の身支度を整え終わった時には、美香は二十四歳になっていた。その間に、美香は二人の男と援助交際をした。男二人はそれぞれに熱心で、借金の清算から弟の学費まで面倒を見てくれたが、美香はその男達と寝る時には鳥肌が立った。金の為だけに付き合った男達であった。
 美香の方から入れ揚げた男もあった。弟など捨ててしまおうかと思うほど一途に惚れ込んだ男も、結局は、美香を裏切って堅気の女の処へ逃げて行き、二度と美香の前には現れなかった。美香は淫女というレッテルが自分に貼り付けられたような気がした。その頃から美香は深酒をするようになった。正体も無く飲み続けて、身体を壊し、長く寝込んだこともある。
 弟の勇一がサラリーマンになって二年ほどが過ぎた頃に、美香は今の店「華」に勤めを替えた。本当は水商売の足を洗って堅気に戻りたかったのだが、どう足を洗って良いかも判らないほど、美香は水商売の世界に身も心も染まり切っていた。しかし、普通のサラリーマンの道を歩み始めた弟の為にも、せめて金で男に抱かれるようなことだけは止めようと美香は心に決めた。
 頑張って十年も勤めれば、勇一も一人前の仕事人になるだろうし、結婚もすることになるだろう。そういうことを考えると、美香は胸の中がほのぼのと明るくなるのを感じた。自分には射さなかった陽の光が、弟の上に射しかけるのを見たい、と美香は思った。しかし、そういう風に事が運ぶには、弟も金が要るだろう、たった一人の身内として、肩身の狭い思いをさせてはいけない、弟が結婚する時には、ささやかでも、少しでも足しになるように、金を貯めておいてやりたい、美香はそう考えた。
 それが済んだら・・・
美香がそういう話を仲の良い親しい胞輩にすると、彼女達は言った。
「今度はあんたが自分の幸せを考える番だよ。良い男を見つけなさいよ、早く」
この歳になって良い男なんて見つかるものか、馬鹿を言うんじゃないよ、と美香は思う。だが、先刻のように、つばめが忽ち戻って来て、白い腹を見せて頭上を飛び過ぎるのを見たりすると、何か良いことが有りそうな予感がして、美香は胸を膨らませた。
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