◆第四十九話 約束された慈悲の一撃

文字数 2,319文字

 ジィィィィィィィィィ。
 音に緊張しながら、レオナルドはフランシスコを観察する。顔にも複数の盛り上がりが浮かんでいた。おそらく服の下の胴体も、同じ状態になっているのだろう。手足から羽化したセミは、威嚇するように羽を震わせている。拳銃で対処していたら切りがない。なにか使えるものはないか。レオナルドは素早く周囲を見渡したあと、窓の端にあるカーテンに手をかけ、思いっきり引っ張った。
 レオナルドは、分厚い生地のカーテンを、フランシスコの体に巻きつける。布の下では、複数のセミたちが低い音を鳴らしている。これでセミの動きを封じられる。音もある程度防げる。
「イバーラさん」
 まだ意識があるか分からなかったが声をかける。
「レオくんか」
 苦しそうに顔を動かしてフランシスコは答えた。
「ギレルモは大丈夫かね」
「今、マリーアに医者を呼んでもらっています」
「レオくん、約束を果たしてくれないか」
 フランシスコは、決意の目をレオナルドに向ける。
 レオナルドは凍りつく。フランシスコの体から飛び立つセミは、人を傷つける。そのセミもろとも自分を殺して欲しいということだ。放っておいてもフランシスコは助からない。それならば、彼の魂を満足させるために、慈悲の一撃を見舞うべきだ。
 しかし、レオナルドは銃口を向けられなかった。理性では分かっていても、感情が拒絶する。フランシスコと関わったのは、人生の中でわずかな時間にすぎない。しかし、強い印象と影響をレオナルドに与えた。その相手を自分の手で葬ることに、レオナルドは躊躇する。
 目の前の顔の盛り上がりが蠢き始めた。今にも顔面からセミが這い出ようとしている。時間がない。どうすればよいのか。
「どんな才能や能力がある人間もいずれ死ぬ。私は自分の人生を歩んだ。悔いはないよ。よい旅だった」
 歪んだ顔を動かして、フランシスコは笑みを作る。
「レオくん、私を撃ちたまえ。そして呪術を止める方法を探して島を救ってくれ!」
 フランシスコが叫ぶ。おそらく彼が口にする最後の言葉だろう。レオナルドは拳銃を構え、今にも皮膚を破ろうとしているセミに、銃口を突きつけた。フランシスコが満足げな顔をする。レオナルドは、目に涙を浮かべて引き金を引く。乾いた音が室内に響いた。這い出ようとしたセミに穴が空き、フランシスコの頭が強く揺さぶられた。
 意思を失ったフランシスコの体が傾き、電動車椅子が動きだす。部屋の中央へと向かった車椅子は、途中でフランシスコの死体を落下させた。
 体を覆っていたカーテンがはだける。服は裂けており、胴体の部分からセミが現れた。空気に触れたばかりのセミは、まだ色づいておらず半透明だ。手足の場所にいたセミたちが、周囲を震わせる重低音を鳴らし始める。
 セミを全て倒さなければ。音圧に耐えながら銃を構えて近づく。狙いを定めて引き金を引く。一発、二発、セミを木っ端微塵にする。しかし、全てを殺し終える前に弾が尽きた。全身の血の気が引く。素手で戦えばギレルモのようになる。
 そのとき、廊下の先から悲鳴が聞こえた。銃を乱射する音が響く。視線を向けると、兵士たちの姿が見えた。彼らは足元を撃っている。床は小さな黒いもので覆われていた。それは壁や天井にも這い上がっていた。
 人の親指ほどの大きなアリが、群れを成して進軍している。壁の絵画や壁紙が崩れていく。黒い大群に触れた兵士が倒れた。靴を食い破られて、足を噛まれたのだ。短い悲鳴のあと、全身が隠れた。巨大アリたちは兵士を乗り越えてやって来る。破壊の波が屋敷の廊下を伝ってくる。建物の各所で叫び声がした。廊下だけでなく、侵入された部屋もあるのだろう。
 窓を開け放つ音が聞こえた。マリーアが窓の前に立っている。
「逃げましょう」
「しかし」
「セミの羽化は呼び水よ。悪霊を現実世界に呼び込むための切っ掛けにすぎないわ。あれが本命。森の石像の近くで見たでしょう。他にも多数の虫が現れているはずよ」
 レオナルドは、もう一度廊下の先を見る。圧倒的な数が押し寄せてきている。駄目だ。戦って勝てる相手ではない。
「ギレルモ!」
 レオナルドは、対立している相手に肩を貸そうとする。
「おまえの手は借りん。おまえはイバーラさまを殺した!」
 叩きつけるような怒声に身をすくめる。ギレルモは、口吻でえぐられた右目を押さえて、左目でレオナルドをにらんだ。
「ギレルモなんか置いていきましょう」
 屋外に出たマリーアが叫ぶ。わずかに迷ったあと、レオナルドは窓へと駆け、窓枠を乗り越えた。
 上空では巨大なトンボが舞っていた。遠方では数メートルあるムカデが這っている。近くにはまだ虫がいなかったが、囲まれるのは時間の問題だ。どちらに逃げるか迷っていると、車のヘッドライトの明かりが見えた。
「レオくん、マリーア、早く乗るんだ!」
 ジープが近づいてきて二人の前に止まる。アルベルトだ。レオナルドたちが乗り込むと、アルベルトはアクセルを踏んだ。
「陥没穴に行く準備は終えた。ダイナマイトも取ってきた。あとはヘリコプターだけだ。イバーラ氏は?」
「亡くなりました」
「そうか」
 アルベルトは沈痛な顔をする。
「それにしても、ヘリコプターをどうしましょうか?」
 レオナルドはアルベルトに尋ねる。
「ヘリポートの場所は分かる。しかし僕は操縦できない。レオくんは?」
「僕もできないです」
「管制小屋に、パイロットが常駐しているはずよ」
 マリーアの声に、レオナルドとアルベルトは目を輝かせる。
「よし。望みはまだ残されている」
 アルベルトはつぶやき、車を走らせた。
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