◆第五十四話 古代文明と時空の神

文字数 5,047文字

 陥没穴が近づいてきた。周囲の石像のそばには、いずれも人間の白骨死体が転がっていた。普段、人が訪れる場所ではない。あるいは集落から消えた先住民たちが、自らを生贄にして虫たちに肉を分け与えたのではないかと想像する。
 頭上の葉の隙間から見える空が、わずかに白んできた。森は静まり返っている。それまで響いていた鳴き声はやみ、緩やかな時の流れを作っている。生き物たちは、日の出に合わせて息を潜めているようだった。
 レオナルドたちの向かう先が、微かに明るくなってきた。森の切れ目が近いことが分かる。足を滑らさないように、足元を確かめながら進む。何度水を飲んだか覚えていない。汗で服の色が濃くなっていた。レオナルドは、大地の穴に近づいていく。
 景色が急に開けた。空気の質感が変わる。水が落下する音が聞こえる。レオナルドは目の前に広がる光景に見入った。幅三十メートル、長さ八十メートルの大地の割れ目。その崖の壁面が見えた。陥没穴は、想像していたよりも大きかった。ところどころに草木が貼りつくように生い茂り、緑のあいだを糸のような細い滝が線を作っている。闇に覆われた穴の下は湖になっているのだろう。そこから再び水は地下に潜り、海へと向かうのだ。
 縦穴の中では、極彩色の鳥が舞っている。瑠璃色の蝶も飛んでいた。他にも見知らぬ動物や虫がいる。そこは人間の目から隠された楽園のようだった。レオナルドたちは荷物を足元に下ろして、穴の中の様子を観察する。
「固有種の宝庫だ」
 アルベルトが声を漏らす。外界から隔絶された空間には、世間で知られていない無数の新種の生物がいる。レオナルドたちは、その場所でダイナマイトを爆発させようとしている。
 クモはいるのだろうか。レオナルドは目を凝らして谷底を覗く。なにも見えなかった。穴に朝日は差し込んでいない。底は闇に覆われている。だがわずかに光があった。空気中に漂う滝の飛沫が、日光を散乱させて、淡い光のベールを谷にかけている。
「見て」
 マリーアが一歩前に出て、崖の下を指差した。マリーアが指す場所で、なにかが動いている。視線の先に、見えないはずの姿が像を結ぶ。三、四メートルはあろうかという塊が、空中を歩いている。その丸い体から八本の長い足が伸びていた。各々の足は、四十五度の角度に開いている。それは世界を八つに分ける境界線のようだった。
 レオナルドは、自分が今いる島の中心部を、上空から見下ろした様子を想像する。ウラムの螺旋。素数が産み出す模様は、世界を斜めに横切る点線を作る。クモはその網の中心で全てを支配している。目に見えない糸の上を渡り、地上と暗黒の境界を這い続けている。クモの石像を破壊しなければならない。呪術の源である超常の存在を葬らなければならない。
 半透明だったクモが明瞭になっていく。谷の上に全貌が浮かぶ。その姿を見て、レオナルドは頭が混乱する。クモは入れ子構造になっていた。巨大なクモは、無数のクモの集合体だった。小さなクモも、さらに微小なクモでできている。そして、それぞれの胴体に、人間の顔や手足が融合していた。大小様々な人体の一部。一人の人間の肉体が無限に複製されて、クモから飛び出ていた。
 テオートルだ。無数の顔には緩い笑みが浮かんでいる。魂が抜け落ちて快楽だけが残されたような表情をしている。よだれを垂らして視線をさまよわせ、赤子のように楽しげに顔を弛緩させている。悪意の万華鏡を思わせる無邪気な笑顔の連鎖に目眩を覚えた。他人を呪った果てにたどり着いたのが、この姿なのか。それとも、単に呪術に絡め取られてしまったのか。
 クモに混ざった顔が一斉に眼球を動かす。自由に揺らいでいた黒目が、レオナルドに向けられた。テオートルの表情が憤怒に変わる。クモは猛った雄牛のように全身を身震いさせた。
「早く準備をしないと!」
 マリーアが叫ぶ。ダイナマイトの仕掛けの用意はまだだ。あのクモを簡単に倒せるとは思えない。無限の入れ子構造でできているのならば、銃で撃っても決定的な死をもたらすことはできないだろう。唯一の希望は、中心となるクモの石像を破壊することだ。そのための時間を稼がなければならない。巨大なクモは、無数の複眼とテオートルの目で、レオナルドをにらんでいる。マリーアもアルベルトも入植者の子孫ではない。唯一レオナルドだけが、テオートルの憎しみの対象だ。
「アルベルトさん。仕掛けを用意して、ロープでダイナマイトを谷底に下ろしてください。僕が囮になり、あのクモを引きつけます」
 レオナルドは、アルベルトとマリーアから離れて、崖の外周を走りだす。恐怖で汗が噴き出した。
「やめろ、危ない!」
 アルベルトが声を上げる。テオートルと融合したクモは、まっすぐにレオナルドに向かい始める。囮になる気がなくても、狙われるのはレオナルドのみだ。そのことが分かったのだろう。アルベルトは急いで準備に取りかかる。
 太陽は徐々に空を明るく染めていく。それとともに森は騒がしさを取り戻してきた。神聖な時間が終わり、世界は日常へと移行する。しかしレオナルドは、非日常の世界に取り残されている。時を司る神は、陥没穴の上を覆う不可視のクモの巣を伝って、レオナルドに近づいてくる。なんとかして時間を稼がなければ。時を司る神と、時間の駆け引きをすることに皮肉を感じる。
 巨大クモの脚が崖にかかり、地面に突き立てられた。脚の周囲の木々が砕かれて木屑が舞い散る。あの脚に殴られたらその瞬間に死ぬ。レオナルドは、崖越しにアルベルトたちを見る。ロープを下ろしている。仕掛けの準備ができたのだ。七本のロープを連結して、太い木の幹に固定している。ロープの先にはダイナマイトが入った袋が吊り下げられている。アルベルトの横ではマリーアが、爆破すべき場所を指し示している。あと少しで時間を司るクモの石像を破壊できる。
 背後で破壊音と笑い声が響いた。地上を歩き始めたクモは、周囲の木々を破壊しながら距離を詰めてくる。大小様々な無数のテオートルが歓喜の声を上げる。レオナルドの足元に、鉄柱のような脚が叩き込まれた。崖の一部が砕け、谷底に石と土が落下する。バランスを崩しそうになったレオナルドは、蔦をつかんで体を支えた。そしてついに、手を伸ばせば届く距離までクモがやって来た。
 自分はどのように殺されるのか。鉄柱のような足で殴られる。崖の下に突き落とされる。生きたまま食べられる。あるいは、その巨体で押しつぶされる――。
 クモは体を上げて、二本の脚を腹のうしろに回す。糸を巻きつけて食料として保存するつもりか。レオナルドは警戒しながら後退する。クモは糸をより合わせて紐を作った。そして紐を前に出して、レオナルドの首に絡めようとする。すんでの所で腰を落として攻撃をかわした。レオナルドは敵の行動に困惑する。クモは不慣れな脚つきで、レオナルドの首を狙う。紐を避けながら、なにかがおかしいと考える。わずかだが心の余裕ができた。
 不可解なクモの動きは、テオートルの意識が残っているせいだろう。神であるクモと戦うのは無理でも、人間相手なら対処のしようがある。レオナルドは、テオートルについて知っていることを必死に思い出す。しかし絶望的なほどに、彼について無知だった。レオナルドは懸命に考える。テオートル個人ではなく、先住民の集団ならどうか。レオナルドは、入植者の末裔の一人として、先住民の末裔に話しかけようと決める。
「入植者を代表して謝罪します。僕の存在が、あなたを苦しめていたのならば謝りたい。人はときに、そこにいるだけで誰かの心を傷つけてしまうことがある。僕はそのことを、自分の人生を通して知っている」
 兄たちのことを思い出しながらレオナルドは言う。兄たちが自分の悩みを知ったら、同じように話すのではないか。
 ――人間ってのは、他人と比較することで幸福や不幸を感じる。
 ギレルモの言葉が頭に浮かぶ。ときに争い、ときに仲間として仕事をした相手を思い出す。歩み寄る努力とともに、心をどう持つかが重要なのだ。クモと融合したテオートルは動きを止める。レオナルドの言葉が届いたのかもしれない。彼は怒りとも悲しみともつかない表情をする。やり場のない感情を自身の中で消化しようとしているように見えた。
「爆破するぞ!」
 アルベルトの声が、崖越しに届く。レオナルドは蔦を強く握り、衝撃に備えるために身を硬くする。
 陥没穴の底で光が閃く。穴の闇が晴れ、わずかな時間、地下の光景が目に入った。遥か高みから見下ろした先には、ピラミッド型の神殿があった。周囲には幾何学的配置で柱が並んでいる。神殿の中央、階段の頂点には丸い石がある。時を司るクモの石像。手前には、戦士が仰向けに寝て膝を立てた、チャクモールと呼ばれる石像もある。メソアメリカ全域で見られる、生贄の心臓を置くための祭壇だ。
 陥没穴の中は、重力源でもあるように空間が歪んでいた。三百メートルを超えるロープは谷の途中で斜めになり、祭壇を突き抜けてさらに先へと伸びている。
 重なり合う時間がそこにはあった。谷底にあるのは過去の光景だ。祭壇には無数の人がいる。彼らは呪術を使い、その身に虫を宿していた。いろとりどりの虫を、体に埋め込んでいた。滅びの目的ではなく、自身の威信を高めるために巨大な虫を利用していた。そこには唯一無二の文明があった。
 神殿では呪術を操る貴族――時を司る神官――たちが暦に従い、儀式をしている。レオナルドは、メソアメリカの暦を思い出す。彼らは十三という数字を多用した。十三日、十三年、それらは時間の単位として何度も繰り返された。この暦は神聖暦として、古くから中米一帯で利用されてきた。十三は素数である。島の先住民は、そこから考察を深め、時間の秘密を探り出したのか。
 爆発音とともに衝撃が伝わってきた。森から一斉に鳥が飛び立つ。世界が飛び起きたような騒々しさになる。クモの石像は破壊できたのか。レオナルドは、自分を捕らえようとしているクモの様子を窺う。水面に浮かんだ無数の泡が、徐々に弾けて消えていくように、無限に入れ子構造になっていたクモが溶けていく。無限大は一へと収束する。その過程で、時間の狭間に紛れ込んでいたテオートルの姿は押しつぶされる。クモと融合していたテオートルは、人知のおよばぬ場所に引きずり込まれていく。そして最後に、この島の神だった超常のクモは、姿を霞ませて消えていった。
 穴の底は煙に覆われていた。過去の世界は、人の目には見えない場所へと沈んでいった。レオナルドは崖の端で、蔦を握ったまま尻餅を突く。谷底に落ちないように、自分を叱咤しなければならなかった。
 レオナルドは景色を見ながら考える。島の先住民の文明は、これで完全に滅んだ。これが最後の抵抗だった。爆破の音は、太古の文明の断末魔なのだろう。レオナルドは過去の遺産を葬った。一つの文明に終止符を打った。助かったという安心感とともに、人類の一人として自分がしたことの大きさにレオナルドは震えた。
 谷間に響いていた音が、空気に飲み込まれる。飛び立った鳥たちが、再び木の上に戻っていく。レオナルドは、足に力を込めて立ち上がる。崖から少し離れた場所を歩いて、遠回りにアルベルトたちのもとに戻った。
「終わったわ」
 マリーアがつぶやいた。彼女はわずかに目に涙を浮かべている。祖父のことを思っているのだろう。
「貴重な遺産や生物が失われてしまった」
 アルベルトは悲しそうにこぼす。
「その代わり僕たちは、今を取り戻しましたよ」
 レオナルドは静かに言い、谷底に視線を向ける。ロープの先は、ダイナマイトの爆破で途切れている。穴の底は見えなかった。相変わらずの闇があった。その様子をながめながら自分が見たものを振り返る。暗黒の向こう、時の彼方では、人々が暮らして人生を全うしていた。消えた文明は無価値なのか。いや、彼らは無価値な存在ではない。文明も人も同じだ。時間が入れ子構造なら、人も等しく価値があるはずだ。レオナルド自身にも価値があるはずだ。
「戻ろう」
 感慨を込めてつぶやく。アルベルトとマリーアはうなずいた。レオナルドたちは荷物を持ち、大地の裂け目を出発した。太古へと続く呪術世界の入り口を離れて、文明世界へと引き返し始めた。
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