2-1-5 三位一体

文字数 7,553文字

「急なお願いだったというのに、お聞き入れくださってありがとうございます」
 淹れ立てのコーヒーの香りがくゆる向こうで、イェッタが礼を口にした。ロカはカップを手に取りつつ、彼女の顔を窺い見る。
 蜂蜜色の長い髪を結い上げて、シンプルなバレッタで髪留めしている。瓜実顔の整った容貌の中で何よりも印象的なのは、相手の顔を真っ直ぐに見つめ返す琥珀色の瞳だ。ロカは何度か彼女と顔を合わせているが、その都度この瞳が放つ視線に言い知れぬ圧力を感じていた。
「聞き入れたのは市長だよ。私はむしろ引き留めた口だ」
 ロカはなるべくイェッタから視線を外しながら、コーヒーを啜った。ヴューラーの別宅に設置された現像機(プリンター)だけあって、高級豆から抽出されたコーヒーの味が見事に再現されている。だがじっくりと味わう気分にはなれず、すぐにテーブルの上のソーサーにカップを戻した。
「もっともあれほど強引な補佐官を見たことはなかったから、驚いたのは確かだがね」
「ヴューラー議員からの連絡を受けるや否や、市長官邸へと駆け出していってしまいましたから。急ぎ重要な会談の場を設けることになって、さすがに慌ててらしたのでしょう」
「急に対応する羽目になって、というのはわかる。だがこう言ってはなんだが、そんな急場に適切な対応を取れる方だったかというと、甚だ疑問だ。少なくとも祖霊祭から戻られた日までは」
 その台詞にただ微笑を返して、イェッタは彼女の前のコーヒーカップを手に取った。ロカはイェッタと目が合わぬように微妙に視線を逸らして、今度はカップに口をつける彼女の唇が目に入る。
 彼女の唇の膨らみが場違いなほど官能的に思えて、ロカはさらに視線をテーブルにまで落とした。
「その翌日、君が補佐官のスタッフになった日から、彼は変わった。それまでなおざりだった政務を精力的にこなし、一連の惑星開発問題に関する報道も見事にコントロールし、今また議会対策の要であるヴューラー議員との会談までセッティングしてみせた」
「私は今の補佐官の姿しか知りませんが、ご指摘のような変化があったのだとしても、好ましいものなのでは」
「その通り、むしろ市長も私も望んできた姿とも言える。君と出会ったことで、たとえ中身が入れ替わったのだとしても、それで一向に構わなかった」
 そこまで喋ったところで、ロカは一度口を閉じた。ここから先はイェッタの顔を見据えて話さなければならない。
 テーブルから視線を上げると、イェッタは微笑を崩さぬままに、ほとんど微動だにしていないかに見えた。喉を潤したばかりだというのに、早くもまた渇きを感じる。一瞬の躊躇いを抑えつけて、ロカは再び口を開いた。
「だが今回のこのヴューラーとの会談はなんだ。唐突なだけでなく、会談の目的自体が不明瞭過ぎる。そもそも市長に断りもなくヴューラーと接触していたことからして問題だ」
「それは、市長の意向に沿わない、意図の見えない行動は看過できないと、そういうことでしょうか?」
「当然だろう。今回はたまたま市長が承諾したからいい。だが、毎度この調子で暴走されるのは困る」
「仰ることはわかります。ですが今回はやむを得ませんでした」
「何?」
 イェッタは少しも動じないどころか、真っ向から糾弾を撥ね除けられて、ロカは口端を引き攣らせる。
「聞き捨てならないな。これほどの大事を独断で進める、その理由があると?」
「はい」
 言葉の端々から苛立ちが漏れ出すロカとは対照的に、イェッタの口調は冷静だった。
「市長は最終的には惑星同盟に降るにせよ、せめて有利な条件を引き出すためにアントネエフとの交渉を進めたい。ですが議会はそれをよしとしないヴューラー派に占められている。ただ彼女たちも惑星開発計画に代わる対案を出せていない。このまま議会が膠着したまま、アントネエフとの交渉を滞らせていれば最悪、痺れを切らした惑星同盟による軍事侵略の可能性もあり得ます。多少の手順を無視してでも、市長と議会が手を取り合えるような新構想を、急ぎ打ち立てる必要がありました」
「新構想……」
 淡々と語るイェッタの言葉の中に登場した聞き慣れない単語を、ロカは呟くように繰り返した。
 つまりローベンダール惑星同盟への加盟でもない、惑星開発でもない別の方針ということか。そんな方針が都合良く思いつくものか。ロカがそう口にしかけるより早く、イェッタがおもむろにソファから立ち上がる。
「コーヒーが冷めてしまいましたね。おかわりを用意しましょう」
 飲みかけのふたつのカップを丸テーブルから持ち上げて、イェッタは現像機(プリンター)の前に向かう。気勢を削がれたロカは、仕方なくコーヒーを用意する彼女を眺めていた。現像機(プリンター)のパネルを操作するイェッタの所作は至って自然で、ディーゴの暴走を咎められていることを気に病む様子などまるでない。
 この女の、不思議なほどの落ち着きぶりはなんだ。
 目の前に再び淹れ立てのコーヒーを差し出されても、ロカはすぐに手を伸ばそうとはしなかった。彼の態度に気を悪くするでもなく、イェッタはカップを手にしたまま、それまでの会話とは全く関係なさそうな話題を口にした。
「私が惑星CL4――いえ、先日の議会でクロージアと命名されたのでしたね。あの星の調査員だったことはご存知でしょう」
「もちろんだ」
「あの星は無人探査機が計測したデータだけを見れば、開発に理想的でした。まず海が存在し、また大気の組成もほとんど手を加える必要のないレベル。それだけに既に発達した生態系が存在しましたが、先人のノウハウを活かせれば問題ないはずでした」
「いちいち説明されなくとも、報告書の内容は私も目を通している」
「実際にクロージアに降り立ってみると、多少の危険な生物も見受けられましたが、とはいえ既存の装備で十分に対応可能でした。しかし彼らの真の特質は物理的な力ではなく、精神感応的な干渉力でした。個体ごと個別の干渉力であれば、まだ抵抗できたかもしれません。しかしクロージアの精神感応力は、その場にいる全ての生物の意識が互いに絡み合い、融合し、膨大な圧力となって我々を取り込もうと襲いかかってくるのです。どんなに強力な武器があったとしても、どうしようもありません」
「だから、それがどうしたというんだ」
 ひたすらにクロージアの脅威を説かれ続けて、ロカは我慢できずにテーブルに拳を振り下ろした。
 ガラス面が振動し、コーヒーカップが耳障りな音を立てて揺れる。
 だがイェッタは、ソーサーの上に溢れた黒い液体に目もくれず、まるで諭すかのような口調で告げた。
「クロージアの生態系の在り方は、そのままテネヴェが取るべき道を示しています」
「……なんだと?」
「簡単な話です。ひとつひとつの個は弱くとも、大勢の個が結集すれば強大な力をも呑み込むことが出来る。これこそ今のテネヴェが範とすべき姿ではないでしょうか」
 そこまで言ってからイェッタは一度口をつぐみ、カップに口をつけた。まるで生徒に問題を解く時間を与える教師のような間の取り方が気に障る。
 だがそれ以上に、脳裏で導き出された回答がロカを戸惑わせていた。
 同時にヴューラーが大法螺というのも納得できる。これが正解だとすれば、馬鹿馬鹿しい、しかし非常に魅力的な案だ。
 ロカはイェッタを見返すと、その回答を口にした。
「独立惑星国家を糾合して大規模な共同体を結成し、しかもローベンダールまでその中に組み込む。それが新構想の正体か、レンテンベリ」
 するとイェッタはカップを両手に持ったまま、穏やかな笑顔で頷いてみせた。
「補佐官はこの構想を、銀河連邦構想と呼んでいます」
「銀河連邦……」
「補佐官は、私の報告を聞いている内に閃いた、と仰っていました。クロージアの開発調査は失敗に終わりましたが、補佐官が新構想を発案する切欠になったのだとしたら、無駄ではなかったと思えます」
 そう言ってカップをソーサーに戻す際に見せたイェッタの琥珀色の瞳からは、どこか自分に言い聞かせるような表情が見て取れた。
 考えてみれば、この女は未知の惑星で仲間の大半を失うという惨事に見舞われたのだ。その上、調査の結果が絶望しかもたらさなかったのだとしたら、やり切れないままだったろう。銀河連邦構想が編み出されたこと、それ自体が彼女にとって救いになったのかもしれない。
 奥の応接間の扉はまだ閉じられたままだ。防音が行き届いているのだろう、室内で三人がどのような会話を交わしているのかはわからない。イェッタは左斜めに顔を向けて、その先にある応接間の扉に視線を投げかけた。
「あの中では今頃、銀河連邦構想について様々に論じられているでしょう。ただ先週の時点でヴューラー議員からは概ね賛同の意を得ています。後は市長のご判断次第です」
 キューサックはこの、銀河連邦構想をどのように捉えるだろうか。長年仕えているロカにも予想はつかない。
 キューサック・ソーヤの中には冷徹と明晰ともうひとつ、博打打ちのような性分が同居している。いずれも優秀な政治家には欠かせない資質だろうが、それ故にキューサックの判断を推し量ることは出来ない。彼はキューサックが一の指示を下せば十まで先回りして対応することには自信があるが、ゼロの状態からキューサックの思考を読み取れるとは考えていなかった。
「そうだな。後は会談の結果を待つこととしよう。それが我々の務めだ」
 イェッタの言葉に頷いて、ロカはようやく二杯目のコーヒーに手を伸ばした。一口もつけていないコーヒーは既にぬるくなりかけていたが、渇いた喉を潤すには十分だった。
 その晩、三者の会談は予定の一時間を大幅に過ぎて、夜半にまで及んだ。

『テネヴェ市民議会は惑星開発計画の中止について、今回の経験を踏まえて新たな方策を速やかに策定するという宣言をほぼ満場一致で採択し、これをもって今期の議会日程は終了した。議会の決定に基づいて、市政府は惑星開発計画に代わる指針を示す必要に迫られることとなった。キューサック・ソーヤ市長は議会閉会の当日、ディーゴ・ソーヤ市長補佐官に新指針に関する検討委員会の設置を指示したと見られ、市政府がいかなる見解を打ち出すかが今後の焦点となる……』
 天井から吊り下げられた大型の透過パネルに、複数のウィンドウが重なって表示されている。そのひとつに流れる音声付きの記事は、議会の膠着状態が解けて次の段階に進んだことを伝えていた。パネルに触れて脇にスライドさせればそのままウィンドウを消し去ることが出来るのだが、まだ手はそこまで上がらない。手元のコントロールボールを掌の中で転がして、ウィンドウは素早く畳まれるようにして消えた。
(ようやく、ボールで操作ができるようになった)
 最初は指先をわずか数ミリ動かすのがやっとだった。地道なリハビリを諦めずに繰り返す日々を過ごして半年、肘から先の自由を取り戻す程度には回復している。
 リハビリとは想像以上に苦痛を伴うくせに遅々として進まないものだが、これでも医者に言わせれば驚くべきことらしい。
 医院に運び込まれてきた時の彼女は、本来であれば一生植物状態であってもおかしくないほどの重傷だったそうだ。怪我を負った際、通常であれば機械への生理的嫌悪から拒否されがちな、生命維持装置との大胆な結合に踏み切ったこと。そして体内のN2B細胞が驚異的なほど活性化し、神経を含む体組織の再生を猛スピードで促進していることが、ここまで回復できた原因らしい。
 N2B細胞が人体を調節する重要な存在であることは知っていたが、人体の再生まで促すものだということは初めて知った。
(といっても、日常生活に復帰できるかどうかは不明というのがもどかしいね)
 身体はまだ寝返りを打つことも出来ず、ベッドと背中の間には褥瘡予防のゼリーパッドが敷き詰められている。身体中のあちこちが生命維持装置に繋がれている様は、幼い頃に聞かされた《オーグ》そのものだ。下半身には自動排泄処理装置が装着されているが、感覚がないのはかえって幸いだった。両腕以外に動かせる部位といえば首から上、それもぎこちない表情を浮かべられる程度のことだ。ようやく口から食事を取ることが出来るようにはなったが、発せられる言葉は明瞭からほど遠い。
 もっとも重症になる前から表情に乏しいと言われ続けてたから、その点は個人的にはどうでも良い。元々起伏に乏しい顔立ちの、無表情に拍車がかかっただけだ。
(良かあない)
 彼女のものではない思考が唐突に飛び込んで、苦情を言った。
(たまにお前ののっぺり顔が伝染して、話し相手がきょとんとすることがあるんだ。お前はもう少し豊かな表情って奴を身につけろ)
(今をときめく市長補佐官が、そんな乱暴な言葉遣いでいいのかい、ディーゴ)
(人の身体を好き勝手使っておいて、他人事みたいに言うな)
 彼女の右の頬が少しだけ引き攣れた。微笑を浮かべたつもりだった。
(あんたはよくやってくれてるよ。感謝してる)
 彼女の謝辞に、ディーゴは鼻で笑うかのような感情で応じた。だがその嘲りは彼女に対してというよりは、自身に向けられている。
(俺は単なる容れ物だろう。お前の考え通りに演じさせられただけだ)
(まさかセックスすることであんたまで《繋がって》しまうとは計算外だったけれど、結果的には正解だった。あんたと《繋がって》いなければ、ここまで上手くいくことはなかったよ)
(そういうことならイェッタに感謝しとけ。俺はあいつの色香に迷って、お前たちと《繋がる》羽目になったんだ)
(その割にはあの晩以来、あなたは私とセックスしようとは思わないのね)
 ふたりのやりとりの間に割って入ったのは、イェッタの冷静な思考だった。
(それどころか私に対して劣情を抱くこともない。初めて出会ったときは間違いなく欲情していたのに。不思議だわ)
(お前はお前で、いちいち人の頭の中を分析するな。《繋がる》前から頭の中を覗かれていたかと思うと、顔から火が出るどころじゃない)
 ディーゴの顔がここにあれば、そこには間違いなくしかめ面が浮かべられていたことだろう。
(わかってるだろう、駄目なんだよ。《繋がって》からのお前は俺の身体と同じ感覚で、抱こうと思えば抱けるだろうが、マスターベーションと変わらない。だからといって他人を抱いたら、今度はそいつと《繋がっち》まうんだろう。そんな際限なく《繋がって》られるか。お陰であれから女っ気がすっかりなくなっちまった)
(そいつは悪かったね)
 右頬がまた少しだけ引き攣る。大して悪いと思っていないことまで伝わるので、ディーゴの不満が和らぐわけもない。ただ彼女自身、ディーゴをなだめるつもりもなかったので、それ自体は一向に構わなかった。代わりに口にしたのは、念押しの一言だった。
(まあ、当面はそのまま清く正しい生活を送っておくれ。今ここでスキャンダルやら起こされても困る)
(どのみちお前たちと《繋がって》いるのに、そんなこと出来るわけないだろう)
(市長の駄目息子がヒロインとで会ったことで覚醒して、テネヴェを救うかもしれないんだ。この調子でいけば、ディーゴ・ソーヤの名前は末代まで語り継がれるよ)
 誰もそんなこと望んじゃいないという、その声はディーゴの本音に違いなかったが、彼女は無視した。今さら引き返すつもりはさらさらない。
(いくらなんでも気が早すぎやしない。やっと最初のハードルをクリアしたばかりよ)
 イェッタの意識が指摘する通り、まだ序の口についたところだった。市長と議会が協力して、銀河連邦構想の実現に向けて動き始める体制は整ったが、これから先にもやるべきことは山ほどある。
 まずテネヴェが音頭を取ったところで、銀河連邦構想に賛同する独立惑星国家は多くないだろう。何より惑星同盟が納得するはずがない。下手をすると惑星開発計画よりも実現性は薄いかもしれず、だからこそ市民議会も銀河連邦構想をまだ公にはしていない。それどころか市長とヴューラーが手を組んだことすら、表には出ていない。
 惑星同盟からの圧力を躱し続ける口実として、市長と議会が対立しているという構図は今しばらく引っ張る必要があった。
 ローベンダール惑星同盟に呑み込まれるのではなく、惑星同盟も含めた各国から銀河連邦構想への同意を取り付けること。これが次にクリアすべき、そしておそらく最大の難関だ。
(どうするんだよ。他の星に渡って、今回みたいにいちいち相手の頭の中を探りながら、上手いこと説得して回るのか)
 ディーゴの意識が口にしたアイデアは、当人もわかっている通りに却下された。それでは遅すぎるのだ。
 ローベンダール惑星同盟からテネヴェに対して加盟を迫られている最中である。必要なだけの独立惑星国家を説得する前に、アントネエフに押し切られてしまう可能性が高い。返事を引き延ばすにしてもイェッタがロカに告げた通り、待ちきれなくなった惑星同盟が軍事的に併合してくる可能性まである。
(場合によっては《繋げる》対象を増やすことも考えないと)
(増やすって、またイェッタを人身御供に差し出す気か。それとも俺か。勘弁してくれ、俺は自分より年下しか興味ないんだ。年増を相手にするのは御免被る。だいたい、こっちがその気でも向こうが応じてくれるわけがない。自分で言うのも情けないが、俺みたいに脇が甘い奴ばっかりじゃないんだぞ)
《繋がって》からのディーゴは、彼女たちに対して全く繕おうとしない。おかげで言語化された意識の、さらに奥にある感情まで、いちいち読み取らなくても良いのは手間が省ける。
 そもそも《繋がる》対象を増やすことも一度に出来るわけはなく、個々に説得して回るのと手間暇はさして変わらないだろう。もっと別の方法を探さなければならない。
(余裕かましてないでちゃんと考えておけよ、タンドラ。それがお前の役割だからな)
 ディーゴに言われるまでもない。
 彼女――タンドラ・シュレスは、傍らのコントロールボールを動かして透過パネルの表示をブラックアウトさせると、おもむろに瞼を閉じた。
 彼女に《繋がる》イェッタやディーゴが動き回るお陰で、タンドラが思い描いた構想は一歩ずつ実現へと歩みを進めている。さらにその先に進むそのためにも、次の一手を模索すること。
 それこそが今の、彼女が唯一やるべきことであった。
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シンタック・タンパナウェイ:第一部に登場。

ドリー・ジェスター:第一部・第三部に登場。

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