2ー3ー7 クロージアン

文字数 9,392文字

 スタージア代表の連邦評議会議員は、どことなく気弱な印象がつきまとう以外にはこれといった特徴のない、中肉中背の老人だった。
「連邦加盟国へのスタージア巡礼研修の義務化の折りにはご尽力頂きまして、誠にありがとうございました」
 連邦評議会の本部会場に通じる廊下で、イェッタは老人から丁寧な謝礼の言葉を受け取った。彼は今日をもって評議会議員の任期を終えるとのことで、縁のあった面々に挨拶して回っているという話だった。
「お陰様で若い人が多く訪れるようになって、スタージアも少しずつ様変わりしています。レンテンベリ議員には感謝の言葉しかありません」
「わざわざ恐縮です。巡礼研修の件は博物院長との約束でしたから、私としても義理を果たすことが出来てほっとしました」
 完璧に取り繕った笑顔で応じながら、イェッタは老人の精神を観察した。
 彼はいかにも影の薄い存在であろうと心懸けているが、その心根は柳のようにしなやかで、状況にただ流されているようでいながらも、決して揺らぐことのない太い幹がある。評議会議員には相応しいしたたかな老人だが、しかし《スタージアン》の影響は受けていない。
 それどころかその存在すら知らないのだ。彼は老練な政治家だが、それ以外の何者でもない。
 評議会議員として派遣する人間にも、その存在を明かすつもりはないという《スタージアン》の意思を、老人は何も知らないままに体現している。
 イェッタたちをはるかに凌駕する強力な精神感応力を備えた、〝始まりの星〟の住人たち。その力がテネヴェまで直接届くことはないにしろ、スタージアという惑星の存在感は銀河連邦を問わず、銀河系人類社会全体に浸透している。
 あのような存在をこの銀河系人類社会に許したままで良いものか。イェッタの胸中には常にそんな疑念がつきまとう。
 いずれ彼らと対峙するときが来る。そのときまでは彼らを監視し続けなくてはならないと、そう思わずにはいられない。
 そのまま二言、三言の会話を交わしてから、老人はまだ挨拶に回らなければならないと言った。
「是非また、レンテンベリ議員もスタージアにお越し下さい。院長導師も歓迎しますよ」
 別れ際の老人の言葉に他意はないことはわかっていたが、イェッタは曖昧に頷くことしか出来なかった。
 もはや彼女はこの地を、テネヴェを離れることは出来ない。
 タンドラとふたりきりで《繋がって》いる間は、まだ揃って行動すればよその星へと足を伸ばすことも可能だった。だが今、大勢の人々と《繋がる》ことを選んだ彼女に、テネヴェから飛び出すという選択肢はなかった。既に三十人近くに及ぶ《繋がった》人々全員と同時に移動するという可能性は、ほとんどゼロに近い。仮に彼女がひとりでテネヴェ星系を飛び越えようとすれば、極小質量宙域(ヴォイド)を跨ぐ恒星間移動を果たした瞬間に絶命する運命が待ち受けている。
(暗い想像ばかりなされますな)
 イェッタの思考に割り込んできたのは、ピントンの思念だった。
(間もなくシュレス女史の葬儀の時間です。祭会堂で手配されてるベンバ様がお待ちですよ)
(……そうね。すぐ行くわ)
 ピントンの思念が口にする言葉は遠慮がちだったが、効率的に物事を進めようとする彼の性質は、好むと好まざるに関わらずイェッタの思念に干渉する。
 ピントンだけではない。生前のタンドラが見繕った人々はそれぞれが有能で、またテネヴェに足止めされたとしてもその影響は最小限となるような、絶妙の人材ばかりだった。彼らと《繋がる》ことで、これまで読心していただけではわからなかった様々な知識や思考を、イェッタは手にしている。
 より正確に言うなら、それぞれの思念が《繋がった》者同士の間で循環されて、互いに分かち合っていると言うべきだろうか。
 連邦評議会本部の正面玄関を出て、目の前の大通りでブレスレット型端末を嵌めた右手を上げると間もなく、イェッタの前に無人のオートライドが停車した。
 かつては流しのオートライドを拾うのにしばらく歩き回らなければならないことも多かったが、今は三分と待たされることはない。街中の上空を飛び交う警備用ドローンが通信中継基地を兼ねることで、セランネ区の都市としての機能は飛躍的に向上した。セランネ区全域を覆う高度な一体型交通システムも、その産物のひとつだ。
 今ではオートライドを個人所有する者といえば、一体型交通システムが行き届いていない地方の住人か、個人の道楽でしかない。
 交通という分野に限らない、テネヴェが産み出してきた様々な情報管理システムは、銀河連邦の全ての加盟国に向けて輸出される主要商品でもある。
 イェッタひとりを乗せたオートライドは、程なくしてセランネ区最大の祖霊祭会堂にたどり着いた。かつてここでディーゴの葬儀が営まれた記憶は、彼女の脳裏に刻まれたディーゴ自身の記憶と相まって未だに生々しい。
 ディーゴの葬儀には多くの人々が訪れたものだが、今日は広々とした敷地内に屹立する祭会堂の本殿を静謐な空気が包んでいた。緑に覆われた敷地に射し込む午後の日差しが、やや肌寒い空気に一抹の温もりを与える。人影のない静かな広場を突っ切って、イェッタは祭会堂の本殿の中へと入っていった。
 本殿の中では、黒い長衣をまとったロカが待ち構えていた。イェッタは黒を基調としたワンピース姿のままだ。
「長衣には着替えないのか。祭会堂で貸してくれるぞ」
 ロカに尋ねられて、イェッタが小さく頭を振る。
「タンドラが、わざわざ畏まらなくてもいいって」
 そうか、と頷いて、ロカは傍らの棺に視線を落とした。
 棺の中には物言わぬタンドラが横たわっている。タンドラは痩せ細ってはいたものの、血色良く見えるように死化粧を施されたその顔を見ていると、ただ深い眠りについているようにしか見えなかった。
 彼女の頬にそっと手を伸ばして触れ、温もりが感じられないことを確かめてから初めて、タンドラは死んでしまったのだということを実感する。
 タンドラの最期の瞬間に、イェッタは立ち会うことは出来なかった。三日前にテネヴェを訪れたエルトランザの使者が連邦評議会で演説を披露することになり、テネヴェに滞在中の評議会議員も必然的に出席を強いられた。タンドラが危篤状態に陥ったのは、評議会本部の会場中央の演壇に立つ使者が、ありきたりの社交辞令を並び立てている最中のことであった。
 ふたりで惑星クロージアを脱出して以来、常に共にあり続けてきたタンドラの死が目前に迫って、イェッタは評議会本部の議員席の中で固く目をつむっていた。肩を強張らせて、両膝の上で握り締められた拳に汗が滲む。たとえピントンやほかの人々と《繋がって》いても、タンドラの死と共に評議会本部ビルの中で絶叫することになるのではないかという不安は、どうしても拭い去ることが出来なかった。
 タンドラの、今にも尽きそうな息遣いが、その都度イェッタの思念に届く。徐々に弱々しく、間隔が開いていく様子は、イェッタにはまるで死へと誘う儀式にしか思えなかった。会場は十分に空調が効いているのにも関わらず、背中には気持ちの悪い汗が滲む。奥歯を食いしばりながら永遠にも感じられる時間を過ごしている内に、(たった今、シュレス女史がお亡くなりになりました)というピントンの思念がイェッタを呼びかけた。
 薄く瞼を開けて、タンドラの思念を呼び出そうと試みる。だがイェッタと《繋がる》範囲の中に見当たるのは、生前のタンドラの感情・思考・知識の記憶ばかりであり、彼女の自発的な意識はすっかり消え去ってしまっていた。
 イェッタの琥珀色の瞳に、安堵の色が広がる。
 生き残ったという安心感が、タンドラの死を悼むよりも先に生じた。その事実を、イェッタはもはや否定するつもりはない。
 病室でタンドラがロカに語ったように、イェッタ・レンテンベリはどうしようもなく死を恐れいている。そして死を免れるために、ピントンやほかの多くの人々と《繋がる》ことを選択した、そういう女だ。
 今なら自分がどうして《スタージアン》のことをあれ程嫌っていたのか、よくわかる。
《スタージアン》とは、同じような精神感応力を備えるイェッタにしてみれば、どこまでも生き延びたいと願う彼女の理想を体現した姿なのだ。
 彼女が《スタージアン》に抱いたのは嫉妬であり、羨望であり、そしてそこまでして生き延び続けようとする存在への同族嫌悪であった。何より彼女の理想を形にした結果が、いかに醜悪で、おぞましいものであるかを見せつけられたことへの、理不尽な怒り。
 だからこそイェッタは、《スタージアン》という存在を認められない――
 祭会堂の建物に併設された火葬場の屋根に屹立する、ひときわ高い煙突の上から棚引く煙を、イェッタとロカは無言で仰ぎ見ていた。
 遺体を焼却して、煙と共に遺灰を空に播くのは、初期開拓時代に宇宙船内で死亡した乗組員の遺灰を、宇宙空間に散布して弔ったという故事に由来している。空を見上げれば、天に還った故人を偲ぶことに通じるのだという。だが晴れ渡った午後の空にタンドラの遺灰が舞い散っていく様を見ても、彼女の魂がそこにあるとは感じない。
 タンドラの記憶は、テネヴェ中の機械に一片まで漏らすことなく刻み込まれている。機械から呼び出したタンドラの記憶を元に、いつでも彼女の思念を再現することが出来るのだ。
 つまりタンドラ・シュレスは自分たちの中に在り続けている、イェッタはそう思う。
「参列するのは、本当に私たちふたりだけで良かったのか」
 イェッタの傍らに立つロカが、晴天に掻き消えていく煙を見送りながら問う。彼の隣で同じように煙の行方を追いながら、イェッタは呟くように答えた。
「ディーゴが弔われたのと同じ祭会堂で、私たちに見送られれば、それで十分よ」
「彼女の両親が既に亡くなっているのは知っているが……」
「クロージアから脱出後、意識不明で面会謝絶を貫き通してきたから。以降の付き合いがあったのは私たちだけ」
「結局、私はタンドラの私的な部分は知らないままだったな」
 口調の端々に後悔を滲ませながら、ロカは青空の彼方へと消えていく煙から足元の地面へと視線を落とした。イェッタはしばらくロカの横顔を無言で見つめていたが、ふと足を踏み出して前へと歩み出る。
「私もタンドラも、クロージア以前と以後では別人みたいなものだから。以前のことを知っても、何が変わるというわけではないわ。それにタンドラも言っていたでしょう? 私たちが私とタンドラ、それぞれであり続けられたのは、ロカが居てくれたからだって」
 そう言ってイェッタはそのまま二歩目を踏み出し、祭会堂の前を離れて歩き出した。
 緑が生い茂る祭会堂の敷地は広く、木々に覆われた小径を抜ければその奥は小高い丘になっている。イェッタが小径に向かって歩き出すのを見て、ロカもゆっくりと彼女の後を追う。
 煉瓦が敷き詰められた小径は、両脇に季節外れの落ち葉が吹き溜まっていた。時たま踏みしめるとぱりぱりという乾いた音がするが、それ以外には木々の葉が擦れ合う音や鳥の囀りすら鳴りを潜めている。静寂に支配された林の中を、ふたりはただ黙って歩き続けた。イェッタの後ろから、ロカの靴が煉瓦敷きの小径を踏む度に響くこつこつという音がついてくる。わざわざ思念を探らずとも、ロカが真っ直ぐに後を追いかけてくることを疑いもせず、イェッタは林を抜けて丘にたどり着くまで一度も振り返ることはなかった。
 丘の上に立つと、眼前には今や銀河系でも有数の大都市へと急成長を遂げつつあるセランネ区と、さらにその向こうに広がるセランネ湾が一望出来た。湾の一番窪んだ辺りには、銀河連邦の関連施設でひしめく連邦区まで見て取れる。
 快晴の下に広がる街と海を見下ろして、イェッタはようやく足を止めた。やや遅れて、彼女の右隣りに黒い長衣をまとったロカの長身が並び立つ。
「そういえば、いつか落ち着いたら、私の過去を聞かせてあげるって言ったことがあったわね」
 ロカを振り返りながら、イェッタはそう口を開いた。
「そういえばそんなこともあったな」
「もっとも私の履歴書ぐらい、ロカならとっくに知っているはずだけど」
「イェッタ・レンテンベリの略歴で覚えていることと言えば……サスカロッチャの農園主の娘に生まれて、八歳のときに母親が事故で他界。その後は農園のことは父親と兄に任せて、当人はセランネの医学院で学んで志望通り医者になった。その後惑星開発調査員に抜擢されて、それぐらいだな」
「それだけ言えれば十分よ」
 イェッタは小さく笑ったが、すぐに笑みを収めると丘の下に広がる景色に目を向けた。
「私が医者を志望したのは、母の事故が切欠なの」
「それは初耳だな」
「母は農園の監視用ドローンの墜落事故に巻き込まれて亡くなったの。ちょうど私を連れて農園を散歩している最中よ。故障したドローンが私目がけて落っこちて来たらしいんだけど、気がつかなくてね。背中から突き飛ばされて、何がなんだかわからなくて、気がついたら後ろで母がドローンの下敷きになっていた」
 微風すらそよぐことのない丘の上で、イェッタは語り続ける。
「余程勢いがあったのか、当たり所も悪かったんだと思う。母は頭から血塗れになって、それでもしばらくは息があったわ。でも、子供だった私は泣き叫ぶ以外何にも出来なくてね。異常に気がついた父が駆けつけた頃には、母はもう事切れていた」
 そこでイェッタは再び振り返ると、少しだけ首を傾げつつ、ロカの顔を覗き込むようにして尋ねた。
「目の前で少しずつ死にゆく母を前にして、私が何を思ったかわかる?」
 頭ひとつ分下にあるイェッタの顔を見下ろしながら、ロカはしばらく無言のままでいたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「……死ぬことを過度に恐れるようになったのは、母親の悲惨な死を目撃したからか」
「単純でしょう? いつも優しかった母が、あんなに苦しそうに悶えて息絶えるのを見て、いつか自分もあんな風に死ぬのかもしれないと思うと心底恐ろしくなったの。だから医者を目指したのよ。医療の知識があれば、少しでも自分自身が生き延びる可能性が高まると思ったから」
 淡々としたイェッタの言葉を聞くロカの眉間に皺が寄る。だが彼は途中で遮ろうとはしなかった。最後まで聞き届けようというロカの態度に感謝しつつ、イェッタはさらに言葉を紡ぐ。
「銀河連邦を立ち上げようというタンドラの提案は、多分私の本性にぴったり合っていたんだと思う。クロージアでこの精神感応力に目覚めてしまった時点で、多くの人々と《繋がり》続ければ延々と生き延びられるという結論に、いつかは達するに決まっていたから」
 いつの間にかふたりの背後で、木々の枝葉がざわめき出していた。丘の上を微かな風が吹き抜けて、丁寧に結い上げられたイェッタの蜂蜜色の髪が、細やかに揺れる。
「そのためには多くの計算資源と電力が不可欠だし、そのためには情報産業の発展が必要になる。既にテネヴェで機械と《繋がって》根を張っていた私は、今さらよその星で一から機械と《繋がり》直す時間も手間も掛けられない。ならばテネヴェを銀河系の中心と見做されるレベルまで押し上げるしかない。そのためには惑星同盟に征服されるわけにはいかない。タンドラは彼女が私を誑かしたように思っていたけれど、テネヴェを中心に銀河連邦を築こうとした本当の原動力は、私のこの生き汚さなのよ」
「たまたまだ。今ある現実から逆算すれば、なんだって意図的に解釈出来る。巷に溢れる陰謀論と大して変わらん」
 ロカは大袈裟に頭を振って、イェッタの言葉を否定した。
「だいたいそんなこと、今となってはどうでも良い。銀河連邦は人類にとって大いに意義がある」
「でも銀河連邦が存在し続ける限り、私はもう人と《繋がり》続けることを止められない。あのタンドラですら、私の生き延びたいという本能に抵抗出来ず、言いなりになってしまった。銀河連邦は私の強欲の証しでもあるの」
「お前が強欲の化身だろうが、生き汚い女だろうが、そんなことは私にとって関係ない!」
 イェッタの台詞を振り払うように強い言葉を吐き出したロカは、そのまま彼女の前に回り込んだ。まるで自分だけを見ろと強いるかの如く、丘の下に広がる景色を遮るようにして立ちはだかる。
「お前はどうして、私と《繋がろう》としなかった?」
 ロカが大きな手を伸ばし、イェッタの細い肩を両手でつかんだ。イェッタは成されるがまま、それまでの饒舌が突然堰き止められたかのように言い淀む。
「それは……」
「タンドラの寿命が尽きるとして、常にお前の側にいたこの私こそ、次に《繋がる》相手としては最適だったはずだ」
 イェッタは何度か唇を開きかけて、何も言わずにそのまま面を伏せた。口ごもるイェッタを見て、彼女の両肩に置かれていたロカの手がゆっくりと離れる。
「それがお前の答えだ」
 そう言ってロカはため息混じりに首を振った。
「《繋がる》ことを欲するのがお前の本性なのだとしたら、《繋がら》ない相手を求めるのもまた、お前の本質だ。お前の正体を知って、その上でお前のことを一個の人間として見る存在を、お前は必要としている」
「――そうよ」
 イェッタは俯いたまま、喉の奥から絞り出すようにして声を上げる。
「そんなことが出来るのはロカ、あなたしかいないのよ。もしあなたと《繋がった》りしたら、あなたは私の一部になり、それ以前のロカとは別の存在になってしまう。もう本当のイェッタ・レンテンベリと接してくれる〝他人〟は、この銀河系中にいなくなる。あなたの認識があったから、私は私個人を保つことが出来ていた。でもそれもなくなってしまったら、これまで保たれてきたイェッタという人格を、私は多分維持出来ない」
 おそるおそる面を上げて、ロカと目を合わせた。齢を重ねてもなお、磨き抜かれた黒檀のように精悍な彼の顔は、同情と哀れみが混在した痛ましい表情でイェッタを見返している。それほど自分の顔は青ざめているのだということを、イェッタは自覚した。
「いずれ《繋がった》者同士は皆混ざり合い、融合してしまうでしょう。それはもう、従来のヒトとは異なる、ひとつの巨大な個として数えた方が良いのかもしれない。私はそれを《クロージアン》と呼ぶことにしている」
「《クロージアン》?」
「クロージアに端を発する、ヒトとではない生物の名称として。そもそも惑星CL4にその名が冠されたのは、〝禁足(クローズド)〟が由来なのは知っているでしょう? 本来なら禁足地に封じられているべき、忌むべき存在なのよ」
 もうひとつの理由、《スタージアン》と対になると考えて思いついた呼び名であることを、ロカに告げようとは思わなかった。
 彼に《スタージアン》の存在を知らしめるつもりはない。あれほどの強大な、不可解な存在を、ロカという個人が受け止める必要は微塵もない。《スタージアン》に立ち向かうとしたら、それは彼らと同等の存在に成り果てた《クロージアン》であるべきなのだ。たとえその力が《スタージアン》の足下にも及ばないにせよ――
 ふたりの間を吹き抜ける風は、徐々に勢いを増していく。
 イェッタの髪が右へ左へと靡き、ロカの黒い長衣の裾が大きくはためいている。丘の麓に広がる木々のざわめきもますます耳を騒がして、先ほどまで林を包んでいた静けさとは様相を変えていた。
 風に揺れる髪を右手で押さえながら、イェッタの言葉は徐々に呟きめいていく。
「今になってわからなくなってきたのよ。《クロージアン》の一部となって生き延びるとして、それは本当に私が生き延びることになるのかしら? 私という個人の人格が《クロージアン》に呑み込まれてしまった時点で、それはもう私の死と同じなんじゃないかって」
 そう言うとイェッタはゆっくりと振り返って、その向こうに聳え立つ火葬場の煙突に目を向けた。
「今はタンドラが少し羨ましいと思う。少なくとも肉体が死を迎える瞬間までは、タンドラ・シュレスのままでいられたのだから」
「安心しろ」
 背後からの即答を受けて、イェッタは肩越しにロカの顔を見返した。
「タンドラがタンドラのままで最期を迎えられたのは、私が居たからだというのなら、お前もお前のまま、《クロージアン》などという得体の知れないものに呑み込まれる前に死を迎えられることを約束しよう」
「……もっと、はっきり言って」
 半身を向けて、ロカを見つめるイェッタの顔には、抑えきれない感情が今にも零れ出さんばかりに込み上げている。彼女の、半ば潤んだ琥珀色の瞳に映るロカの姿は、握り締めた拳を胸に当てて力強く断言した。
「何度でも言ってやる。私はお前の死の瞬間を、必ず看取る」
「……必ず? 私より、十歳以上も年上なのに」
「そんなことは関係ない。私は絶対にお前より先に死なない。お前より一分一秒でも必ず長生きすることを、約束する」
 ロカの宣言に耳を傾けるイェッタは、右手で口元を覆っていたが、細い指の隙間から漏れ聞こえる途切れ途切れの嗚咽までは抑え切れなかった。目尻から溢れ出す涙が彼女の右手に当たって、その甲を伝う。
「ありがとう、ロカ。その言葉だけで、私は、もう」
 それ以上、イェッタは言葉を口にすることは出来なかった。
 口元を押さえたままに、両腕で自らの華奢な身体を抱きすくめるようにしながら、イェッタはひたすらその場で肩を震わせ続けていた。やがてロカの手に頭を抱き寄せられて、彼の胸元に額を押しつけられても、イェッタの嗚咽はしばらくの間止むことはなかった。
「風が強くなってきた。そろそろ戻ろう」
 そう言って肩を抱えるロカに身を委ねながら、イェッタは祭会堂の本殿に続く小径へと足を向ける。
 背後に広がるセランネ区の街並みを、イェッタは一顧だにしようとは思わなかった。振り返らずとも、この丘から望むことの出来る景色にある全てを、彼女は隅々まで知覚しているのだ。
 今もまた、林の小径へと向かうふたりを、上空にたたずむ警備用ドローンのカメラが監視している。イェッタの思念は、自らの後ろ姿が木々の陰に隠れていく様子を、ドローンのカメラを通してはっきりと認識していた。

 ロカ・ベンバは晩年、銀河連邦の成立について回顧録を記した。一連の経緯に関わり続けた者が著した貴重な記録であり、後の研究者からも一級の史料として数えられている。
 彼の回顧録で特徴的なのは人物ごとに章立てされている点だが、その章題を飾った人物は以下の七名。

 タンドラ・シュレス
 ディーゴ・ソーヤ
 キューサック・ソーヤ
 グレートルーデ・ヴューラー
 バジミール・アントネエフ
 ローザン・ピントン
 イェッタ・レンテンベリ

 回顧録の冒頭文は「今は亡き友、イェッタ・レンテンベリに捧げる」であった。

(第二部 了)
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登場人物紹介

シンタック・タンパナウェイ:第一部に登場。

ドリー・ジェスター:第一部・第三部に登場。

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