1ー3 N2B細胞 ――巡礼研修七日目(2)――

文字数 3,926文字

 銀河系人類のほとんどがその身体に保有するN2B細胞は、ヒトの身体調節を司る極めて重要な器官である。
 外敵に対する強力な防御・回復機能を持つこの細胞のお陰で、ヒトは宇宙線障害を気にすることなく宇宙空間を自由に行き来し、未知の惑星の風土病も怖れずに開拓することが出来た。N2B細胞がなければヒトの活動範囲が宇宙に及ぶことはなかった、N2B細胞を備えたヒトこそは宇宙に飛び出す運命(さだめ)だったのだと、そう力説する者も少なくない。
 N2B細胞は、それ単体でも健康維持に有用な素材として重宝されている。そういった需要に応じてN2B細胞を培養しているのが、ドリーの両親だ。一般に培養家と呼ばれる両親の元で育ったドリーが、N2B細胞に関心を示すようになったのは自然な流れであった。
 彼女の関心は、N2B細胞を簡単に増やすことは出来ないか、という点にあった。
 N2B細胞はヒトの体内環境下でないと育てることが出来ない。そこで培養家には同様の環境を再現する設備が必要となる。その管理維持のために朝から晩まで培養施設に入り浸る両親を、ドリーは幼い頃から見て育ってきた。
 だからこそ、もっと容易に培養する方法はないかと考えたのだ。
 たとえば現像機(プリンター)は、材料と設計図(レシピ)さえ揃っていれば、様々なものの再現が可能だ。ただし生きている限り刻一刻と固有の変化を遂げる、活動中の有機生命体については、設計図(レシピ)の作成そのものが不可能とされている。
 にもかかわらず、ことN2B細胞に限っては可能かもしれない。ドリーにはそう思えてならなかった。
「なんでN2B細胞だけ例外なんだい?」
 初めてドリーと言葉を交わしたときのシンタックは、彼女のその考えについて不思議そうに尋ね返した。
「N2B細胞だってヒトの身体の中にある有機生命体――いや、生命体って言ったら違うのかもしれないけど、生きているんじゃないのか」
 シンタックの疑問は当然のものだ。だが彼の質問に対して、ドリーはすぐには答えることが出来なかった。
 証明は出来ないが、ドリーなりの回答はある。だが自分以外の他人に、ましてや初めて口をきいたに等しいシンタックに、どうして聞かせることが出来るだろう。
 その考えが禁忌(タブー)に抵触するものであるということを、彼女は十分に理解している。だからこそ、おいそれと口にすることは出来ない。
 それ以前に、そもそもシンタックがこうして彼女に話しかけてくること自体が、ドリーには理解不能であった。
「だってN2B細胞のことならドリーに聞けばいいって言われたからさ。導師よりも全然詳しいんだろう? お願いだからもっと教えてくれないかな」
 自明の理と言わんばかりのシンタックに、ドリーは鼻白んだものだ。
 シンタックは好奇心旺盛な少年であった。
 特に強い関心を示していたのは《原始の民》と《星の彼方》の正体の解明だったが、彼の興味の対象はそれだけにとどまらない。あるときは直接通信の限界が一星系内にとどまるということに疑問を呈し、あるときは現像機(プリンター)で再現出来ない有機生命体とはどこからを指すのか、その限界を確かめようとする。
 その時々で興味の矛先が昨日とは百八十度反対の方向へと向かう彼を、節操のない〝知りたがり〟とからかう輩もいた。その実態が、汲めども尽きぬ彼の知識欲のなせる業であることをドリーが知ったのは、後に彼と親交を深めてからのことだ。
 その日のシンタックの関心は、N2B細胞に寄せられていた。そこで彼は同級になってからも一度も会話したこともないドリーに、当然のように教えを請うたのである。
 N2B細胞に取り憑かれた奇人扱いをされ続けてきて、ドリーは初等院の頃からひとりで過ごすことが多かった。中等院に上がってもろくに友人のいなかったドリーが、久方ぶりの級友との会話に舞い上ってしまったとしても無理はない。
 だからシンタックに対して、N2B細胞について彼女の知りうる限りのことを懇切丁寧に教授する内に、つい喋りすぎてしまったのである。
「N2B細胞は人体のほかの器官とは違う。もしかしたら現像機(プリンター)でも再現出来るかもしれない」と。
 そんな面白そうなことを耳にして、シンタックが聞き流してくれるはずがない。
 癖っ毛気味の短い黒髪の下に覗く、褐色の顔をぐいぐいと近づけてくる彼を前にして、ドリーはついに観念して口を開いた。
「N2B細胞には個体差がないの」
 思い切って口にしたドリーの言葉に、シンタックはきょとんとして、今ひとつぴんと来ないという表情を見せる。言葉足らずだったかもしれないと思ったドリーは、少しばかり早口になりながら説明を加えた。
「どんな細胞だって個々に少しは差異があるはずなのに、それがN2B細胞には見当たらないの。しかも誰の身体から採取しても寸分違わないのよ。それこそ設計図(レシピ)に基づいて再現された機械みたいに」
「機械?」
 シンタックが目を丸くして、ドリーの言葉を反芻する。しまった、今度は言い過ぎたと思って、ドリーは思わず目をつむった。
 そんな単語を使わなくても、もっと上手い説明はあったはずなのに。どうしてわざわざ《オーグ》の禁忌(タブー)に触れるような表現を使ってしまったのだろう。
 まだ幼い頃、彼女が何気なく口にしたその考えを聞きつけて、娘を見返した両親の顔。まるで忌まわしいものでも見るような父と母の眼差しを、ドリーは今でも忘れられない。
 シンタックの顔を確かめるのが怖かった。きっと彼もおぞましいものでも見るような目つきで、自分のことを見返しているに違いない。それとも呆れかえっているだろうか。
 だが少年の反応は、そのどれにも当てはまらなかった。
「そういうことか。同じ機械みたいにどれもこれもそっくりっていうなら、確かに現像機(プリンター)で再現出来るかもしれないなあ」
 おそるおそる目を開いたドリーの前で、シンタックは心底感心したように頷いている。予想外の態度に戸惑うドリーに、シンタックは再び顔を突き出した。
「面白いこと考えるな、ドリー。僕にはとても思いつかないや」
 そう言って彼が白い歯を見せて笑ったときから、ドリーの日常は一変した。
 シンタックはドリーの考えを嫌悪することなく、彼女の主張に一理あることを認めさえした。それだけではない。彼はそれまで彼女を遠巻きにしていた級友たちに、その独特な考えを面白おかしく説いて回ったのだ。
 きっとドリー自身が口にすれば、誰もが眉をひそめて遠ざかっていったであろう。だがシンタックの冗談混じりの言い回しと彼自身の人柄が加わることで、ドリーの持論は突拍子もない、しかしひとつの意見として受け容れられていく。
 言葉の選び方や喋り手の表情ひとつで、こうも受け止められ方は異なるものか。ドリーがシンタックを見る目には、これ以上ない驚きと感嘆の念が込められていった。
 やがてドリー本人も徐々に周囲と馴染んでいく。元々シンタックと親しかったリュイやヨサンと打ち解けたのも、この頃のことだ。
 それまで鬱々とした人生を過ごしてきた彼女を認めてくれただけではない、一気に陽の当たる場所へと引き上げてくれた。シンタックとはドリーにとってそれほど大きな存在であった。

「おかしいな」
 スタージア巡礼研修の最終日、リュイたちに宣言した通り、ドリーはひとりで博物院を見学していた。
 目当ての人体関連の展示エリアは、長大な博物院中央棟の南端に近い部分にあった。中でもN2B細胞に関する展示には、相当のスペースが割かれていた。N2B細胞の様々な特徴や、人体に及ぼす役割から、社会に及ぼしてきた影響まで。多種多様な資料や展示物を用いた説明は、ドリーも目を見張るような内容に満ち溢れている。
 だがドリーにはひとつだけ、腑に落ちないことがあった。
「N2B細胞の均質性に関する説明が、ない」
 彼女にとって、それはN2B細胞の決定的な特徴のひとつであった。
 確かにこれまで学んできた資料に、その点に触れたものはない。だがそれはきっと《オーグ》の禁忌(タブー)を嫌って記述が避けられてきたのだろう、そう思ってきたのだ。
 しかし、まさかスタージアの博物院の展示からもその点がすっぽり欠落しているとは思いもよらなかった。
 肩透かしを食らったような気分のまま展示エリアを出た先には、何層も吹き抜けになった玄関ホールが広がっている。中央のホログラム映像投影盤の上に浮かび上がる天球図の周りをゆっくりと歩きながら、ドリーは釈然としない面持ちでいた。
 博物院ならば、N2B細胞に個体差がないことも、その理由についても、きっと納得のいく説明があるに違いないと思っていた。だが充実した展示内容の中に、彼女が抱き続けてきた最大の関心事が一片もなかったことに、ドリーの胸中によぎる失望はやがてふつふつとした怒りへと姿を変える。
 両親にまで眉をひそめられて、シンタックと出会うまではろくな友人もいなかった彼女の思いを、踏みにじられたような気分だった。彼女の関心事は取るに足らないものであると、博物院という銀河系最大の権威が下した裁定に、納得できるはずもない。そんなはずはない、と声を大にして反論したかった。
 いつの間にか足取りも荒く、天球図を背にしたドリーが博物院南端の出口へと向かった、そのときである。大股で歩き出す彼女の耳に、不意に堪えきれないような笑い声が飛び込んできた。
 聞き覚えのあるその声は、アーチ状の出口の陰から近づいてくる。
「そう腹を立てたもんじゃないよ、ドリー」
 そう言って姿を現した人影を、彼女が見間違うはずもない。
 小柄なドリーに比べると頭ひとつほど背の高い、褐色の肌に短い癖のある黒髪の少年は、シンタック・タンパナウェイその人であった。
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登場人物紹介

シンタック・タンパナウェイ:第一部に登場。

ドリー・ジェスター:第一部・第三部に登場。

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