2ー2ー1 後継者

文字数 6,389文字

 光量の抑制が効いた明かりが、天井一面にぼうっ、と輝いている。
 天井の下で横になる人物への配慮であろう。淡い光は、見る者への刺激を極力与えないように工夫されており、例えば端末の操作で照明の範囲を自由に調節できるようになっている。ただ天井一面いっぱいに照らし出されたとしても、明る過ぎるというほどではない。現に、うっすらと瞼を開いたばかりの瞳に天井の明かりが飛び込んできても、目が眩むことはなかった。
 ベッドの上にいるのだということを理解するのに、それほどの時間は要さなかった。
 白地のブランケットに覆われた身体は、清潔な病衣にくるまれている。枕の上で顔をゆっくりと左右に動かして、見える範囲に映るのは、ここ数ヶ月間見慣れた光景だった。ここは病室の中だ。
 首を振ることは出来たが、それ以上に身体は動かせるのだろうか。右手に力を入れて持ち上げてみる。ブランケットがめくれて、白く細長い指先が覗いた。掌を握りしめたり開いたりして、身体の自由が効くことを確かめる。
 間違いない。白い肌に、不自由のないこの身体の持ち主、つまり私はイェッタ・レンテンベリだ。タンドラ・シュレスではない。
 タンドラの意識が割り込んでこない。彼女はまだ眠っている。
 精神力に優れた彼女が、消耗し切っているのだということに思い至り、そこからイェッタの記憶が徐々に呼び覚まされていく。
 市長執務室で、イェッタは突然膝をついた。
 それまで慇懃な態度を崩すことのなかった彼女の顔に、どっと冷や汗が吹き出す。跪いたまま瞳の焦点がぶれて、(おこり)のように激しく肩が震え出した。異常に気がついたキューサックの声も、彼女の耳には届かない。
 その瞬間にイェッタを襲ったのは、半身を無理矢理引きちぎられるかのような、暴力的とも言える寂寥感、いや恐怖と呼ぶ方が相応しい。
 普段は蠱惑的なほど艶やかな唇が青ざめてわななき、やがて声にならない叫び声を張り上げるまで、あっという間の出来事であった。
「いやああ! ディーゴ、ディーゴ!」
 鮮明に思い返されていく記憶に再び打ちのめされて、イェッタはベッドの上で頭を掻き毟りながら、再び絶叫を上げた。

 イェッタが二度目に目覚めたとき、病室にはふたりの人影があった。
「ようやく気がついたか」
 生気に欠けた声をかけるロカの顔に、常日頃の精悍な表情はない。疲労が色濃く表れた目元に、均整の取れた長身も背筋が丸まり、どこか縮まってしまったように見える。
「お前が倒れてから、既に十日近く経つ」
 ロカの目つきは虚ろで、イェッタの顔を見るでもなく、ほとんど独白のように言葉を紡いでいく。
「私は三日前に、ゴタンから折り返し帰国した」
 イェッタは枕の上で頭の向きを変えて、彼の顔を見返した。目尻から耳の付け根にかけて、涙の跡が拭われることもなく残っている。
「……ディーゴは」
「補佐官は、亡くなられた」
 彼女の唇の間から、ほとんど無意識に零れ落ちた問いかけを耳にして、初めてロカの目がぎょろりと動いた。
「補佐官の遺体は司法解剖を終えて、現在はこの医院に安置されている。葬儀が営まれるのは明後日だ。それまでには体調を戻しておけ」
 ロカの言葉に、イェッタがなぜと目で尋ねる。彼女に出会って初めて見る弱々しい視線を受けて、ロカは苛立たしげに言葉を吐き出した。
「お前は補佐官の、ディーゴの秘書だろう。彼の葬儀に参列しないでどうする!」
 肩を震わせて、ロカが病床のイェッタを睨みつける。澱んだ瞳には、やり場のない感情が渦巻いていた。どのような表情を、態度を取るべきなのか判断がつかず、(いたずら)に噴き出そうとする激情を必死にねじ伏せている。奥歯を噛み締め、それ以上口を開こうとしないことで、ロカは辛うじて内心を抑え込んでいた。
 ロカが表に出さないよう無理をすればするほど、彼の胸中で荒れ狂う想いはイェッタの意識野に容赦なく突き刺さった。彼女の形の良い眉が、苦悶に歪む。
「なぜだ」
 ロカと反対側、ベッドの上のイェッタから見て右側から、より暗い声が投げかけられる。
 彼女がおそるおそる反対側に頭を向けると、そこにはモトチェアに腰掛けてたたずむ老人の姿があった。
「お前が私の目の前で突然倒れ、ディーゴは死んだ。ロカの話を聞く限り、ディーゴの死に様はお前が倒れたときとそっくりだったそうだ。そしてもうひとり――」
 面を伏せたキューサックの表情は、横になったイェッタからは窺い知れない。だが老人の小柄な身体を覆い尽くすかのように取り巻く悲嘆、怒り、不審などの様々な負の感情を、イェッタの目は捉えている。
 それは彼女がかつてCL4と呼ばれた惑星に降り立ち、嫌というほど見せつけられた、可視化されたヒトの意識だ。
「――タンドラ・シュレス。お前のかつての同僚もまた、入院中の病室で同様の症状を発して、今も昏睡状態にある」
 キューサックの口からタンドラの名前を聞いて、イェッタはようやく自分がどこにいるのかを理解した。ここはタンドラが入院しているテネヴェ最大の医療機関、市立中央医院だ。
「ディーゴは息を引き取る間際、お前と、そのタンドラの名前を繰り返し呼んでいた」
 ロカが押し殺すような声で、キューサックの言葉を引き継いだ。
「全く異なる場所にいる三人が、同じタイミングで、同じように発症した。しかもそのうちのひとりは命を落とした。これを偶然で済ませられるほど、我々も愚かではない」
 そう言ってロカはベッドの端に、力任せに両手をついた。
「お前たちはいったい、なんなんだ。なぜ、ディーゴは死んだ?」
 イェッタの顔に覆い被さるように、ロカが糾弾の言葉を叩きつける。反対の側では、キューサックが放つひたすらに暗い眼差しが、彼女の横顔を射貫いている。
 タンドラの意識は、まだ目覚めない。
 自身も打ちのめされたばかりのイェッタには、もはや真実を隠し通す気力も、そのつもりも残っていなかった。

 ディーゴ・ソーヤ市長補佐官の葬儀は、セランネ区郊外にある祖霊祭会堂で営まれた。
 祖霊祭会堂は文字通り、祖霊祭を催すための会場として設けられた場所だが、地域の住民たちの冠婚葬祭の場としてもしばしば利用される。ディーゴの葬儀会場に選ばれたのはセランネ区でも最大規模とされる祭会堂だったが、当日は祭会堂の大ホールの収容人数をはるかを上回る人々が、参列に押し寄せた。
「彼らは市長の親族の葬儀だから、顔を出しているだけよ」
 一連の葬儀が終わり会場から去りゆく人々の列を、祭会堂の中から窓越しに眺めながら、ヴューラーはそう呟いた。
「だけどあと十年後だったら、ディーゴ自身を悼む人だけでも、これ以上の人が集まったかもしれない」
 正式な喪装とされる黒地の長衣に長身を包んだヴューラーが、傍らに立つイェッタの顔を見ることなく、淡々と語る。だが彼女の言葉の端々に滲み出る悔恨の念は、イェッタに確実に伝わっていた。
 一年に満たない付き合いだったが、ヴューラーがディーゴのことを評価していたのは間違いなかった。
「本日はお忙しいところ、ご参列頂きましてありがとうございます」
「見損なうな」
 イェッタが形式的な謝辞を述べると、ヴューラーは若干の怒気すら孕んだ顔で振り返った。
「盟友の死を見送らないほど、私は落ちぶれてない」
「……失礼いたしました。市長は奥の控え室でお待ちです」
 イェッタが、今度こそ真摯に頭を下げる。その前を無言で通り過ぎて、ヴューラーは祭会堂の廊下の奥へと向かった。
 陽の光も届かない、長い廊下の突き当たりにあるドアをくぐって、ヴューラーは思わず足を止めた。
 いつも通りにモトチェアに腰掛けたまま、室内で待ち構えていた市長の顔には、心なしか刻み込まれた皺が深みを増したように見える。彼が憔悴しきっているのは明らかだった。だが、その目には言い知れぬ眼光が見え隠れしている。キューサック・ソーヤという人物は元来愛想に乏しくはあるが、それにしても目の前の彼がまとう雰囲気は異様だった。
 息子を亡くしたショックはそれほど大きかったのか。キューサック・ソーヤも人の子だというわけだ。
 ヴューラーは自分にそう言い聞かせつつ、型どおりの弔辞を述べながら席に着く。そして気がついた。キューサックの傍らには彼の秘書のロカ・ベンバが、そして彼女の脇には共に入室したイェッタ・レンテンベリが、それぞれ着席している。
 彼女の表情から察したのであろう。「このふたりも同席させて欲しい」と市長に頭を下げられては、ヴューラーもあえて反対することはなかった。それよりも早急に今後のことを話し合う必要があった。
「ディーゴの代わりを急ぎ、スタージアに送らなければならない」
 剛毅と言うべきか、キューサックの言葉に取り乱した調子はなく、その口調は極めて事務的だった。
「でも誰を送るというの。彼の代わりが務まるような人材が、そう簡単に見つかるとは思えない。それこそあなたか、それか私が行くしかない」
 ディーゴ・ソーヤの気質は、今となっては貴重に思えた。飄々とした、相手に警戒させることなくその懐に潜り込むという術は、誰もが身につけられるものではない。少なくともヴューラーの身内に、同じ真似が出来る者はいないだろう。
 するとキューサックは、ヴューラーの顔からゆっくりと視線を動かして、その横に控える人物に目を向けた。
「代役はそこの、イェッタ・レンテンベリだ」
 キューサックの指名を聞いて、ヴューラーは隣りに座るイェッタの顔を振り返った。
 イェッタは閉じた両膝の上に置いた両の拳を軽く握り、微動だにせず市長の視線を受け止めている。彼女の、ほとんど無機質にすら思える白い横顔をしばらく見つめてから、ヴューラーは再び市長の顔を見た。
「本気?」
「本気だ。現時点でほかの代役は考えられん」
「彼女はまだ、政界に足を踏み入れて一年もしない、ひよっこよ」
「政治の素人だったのは、ディーゴもたいして変わらんよ」
「それにしたって」
 ヴューラーは額に手を当てて唸った。
 ディーゴには当人の資質以上に、キューサック・ソーヤの息子というこれ以上ないバックボーンがあった。イェッタ・レンテンベリには何があるだろうか。
 ディーゴが精力的に活動を始めたのは、イェッタがスタッフに加わってからだということは知っている。イェッタとの初対面を思い返せば、彼女の胆力が十分だということもわかっている。銀河連邦構想の草案も、ディーゴと彼女が共に練り上げたという話だ。
 ディーゴ以外に銀河連邦構想を最も理解しているのは、おそらくイェッタなのだろう。
「実際のところ、ほかに務まる者がおらんのだ」
「……そうかもしれないわね」
「確かにディーゴと同じことは出来ないかもしれん。だがお前も聞いたというではないか」
 そう言ってキューサックは、白い髭で覆われた顎先でイェッタの顔を指し示した。その言葉が伴う響きが必ずしも好意的でないことに、ヴューラーは一瞬眉をひそめる。
「この女はディーゴと一心同体を称していた。ならばディーゴ亡き後、奴の後を引き継ぐのはこいつ以外にありえん」
 キューサックの言葉を受けて、イェッタの表情はますます無機質な、というよりは透明になるという表現こそ相応しい。市長に言われるがまま、己の意思を一切差し挟まず、彼の指示に従うことだけに徹底しているかのようだ。彼女の彫刻のように整った、だが血の気に乏しい唇が開いて、キューサックの言うことをなぞるように宣言した。
「補佐官の遺志は、私が遂行します」
 抑揚に欠けた彼女の態度に、なぜだかキューサックが心持ち口角を引き攣らせる。だがそれもほんの一瞬のことで、再びヴューラーに向けられた顔は冷静な表情を取り戻していた。
「そういうわけだ。日を改めてレンテンベリをスタージアに派遣する。ディーゴのときと同様にベンバも一緒だ」
 それまで一言も口を利かずに、部屋の隅で固まっていたロカが小さく頭を下げる。ヴューラーはため息をつきながら頷くしかなかった。
 話はまだ終わったわけではない。ディーゴの代役を選ぶほかに、ヴューラーには今ひとつ言うべきことがあった。
「市長、あなたにはしばらく喪に服す姿勢を貫いて欲しい。であれば臨時議会を招集しないことに反発する議員たちも、強くは抗議できないでしょう」
 あからさまにディーゴの死を利用しようという提案に、ロカが非難めいた視線を向ける。だがヴューラーは表情を崩さない。冒涜的なことを口にしていることは、彼女も重々自覚している。しかし同時に、キューサックが受け入れるだろうことも確信していた。
「無論だ」
 モトチェアをわずかに揺らして、キューサックはヴューラーの策を肯定する。それどころか老人は、彼女の策への上乗せを口にした。
「ひとり息子を亡くして意気消沈するという父親という姿は、このまま最後まで引きずらせてもらう」
 キューサックの冷静な振る舞いは、本当に意気消沈しているのではないのか、という疑問を差し挟むことすら許さない。
 それよりも、ヴューラーは彼の言葉の別の部分に引っかかった。
「……最後って、どういう意味?」
「来年の定例議会前に、私は市長を退く」
 あっさりと引退宣言を口にするキューサックに、ヴューラーの大きな目が一層大きく見開かれる。だが彼がさらに続けて発した言葉は、それ以上の衝撃を伴っていた。
「私の身内からは後継候補は立てん。次の市長はヴューラー、あなただ。面倒ごとばかりを押しつけることになるが、後は頼むぞ」
「突然、何を」
 驚きよりも怒りを込めて、ヴューラーは抗議した。
「何を言い出すのかと言えば。ディーゴだけでなく、あなたにまで退場されてどうしろっていうの」
「許せ」
 キューサックの返事は簡潔だった。
 それだけに、それまで完璧に取り繕われていた彼の心情が、迂闊にも吐露されていた。
 その瞬間、ヴューラーの目に映ったキューサックは、疲れ切った身体をモトチェアにぐったりと預けている、息子の死を悼むただの老人に過ぎなかった。
「本来ならスタージアを引き込んだ上でのつもりだった。だがディーゴの死で予定に狂いが生じてしまった、今となってはやむを得ん。市長選となれば、定例議会の日程も大幅に遅らせることが出来る。惑星同盟に対する引き延ばしは、これが限界だ」
 市長引退の意図を告げるキューサックの横顔からは、既に翳りが一掃されている。だが老市長の限界をわずかでも垣間見てしまったヴューラーに、それ以上の異を挟むことは出来なかった。それがキューサックのしたたかな演技だったとしたら、彼女は素直に騙される方を選ぶ。
 ヴューラーが沈黙すると、キューサックは最後に彼女の隣りへと視線を向けた。
「レンテンベリ」
 その名を呼ばれて、俯き加減だったイェッタが無言で顔を上げる。
「ヴューラーが市長となれば、サスカロッチャ区の議席は空席となる。お前が立て」
 彼女に向けられる市長の目の色は、単純なものではなかった。複数の名状しがたい感情と、それらを御する強固な意志が混在している。
 ともすれば狂気へと昇華しかねない精神状態を、キューサックは恐るべき精神力でねじ伏せていた。
「これからはお前が表舞台に立つのだ。それがディーゴと一心同体を名乗る者の務めだろう」
「……畏まりました」
 狂おしいほどの感情のただ中に身を置きながら、キューサックはなお頑なに正気を保っている。彼を正面から見据えつつ、イェッタは透き通りそうな表情のまま、静かに頷いた。
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シンタック・タンパナウェイ:第一部に登場。

ドリー・ジェスター:第一部・第三部に登場。

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