1ー5 オーグ ――二十八年と十ヶ月後――

文字数 7,000文字

「懐かしいわね。三十年ぶりになるのかしら」
 右手の人差し指と中指の間に挟んだ、長さ二十センチほどのベープ管――加熱した溶剤から発生する水蒸気煙を味わう嗜好品――の端から唇を離すと、ドリー・ジェスターは台詞ほどには感慨のない口調でそう呟いた。
 彼女が大きく吐き出した水蒸気の煙の固まりは、高く大きな天蓋状の天井にたどり着く前に、エアコンディショニングの微風に掻き消されていく。
 ひとりで使用するには明らかに広すぎる円形の室内には、中央に厚みのある巨大な円盤が鎮座している。その上で宙に浮かび上がるのは、博物院の玄関ホールに飾られているものとそっくりの、ゆっくり回転する天球図のホログラム映像だ。だが映像の中では数えきれないほどのメッセージが絶え間なく表示されては消え、また表示されるという明滅を、至るところで繰り返している、その点が大きく異なっている。
 それはまるで銀河系中から掻き集めた情報を、その都度上書きしているかのように見えた。
 柔らかい暖色の照明の下、天球図の前には楕円形のテーブルが設けられている。ドリーはテーブルの扉側の席に腰掛けて、向かいに座る人物の顔に冷ややかな視線を投げかけていた。
「二十八年と十ヶ月ぶりだよ、ドリー」
 ドリーの正面に座るシンタック・タンパナウェイは、彼女が最後に会ったときと変わらない、含みのない笑顔を見せた。だが黒い髪には若干白いものが混じり、褐色の肌も年相応の落ち着きを見せ、彼自身が歩んできた歳月が窺える。
 一方のドリーも、肩までかかるほどに長かった波打つような金髪を、耳が覗く程度に切り揃えて、目尻にはやや小皺が目立つ。しかし青い瞳から放たれる眼光には、生来の学究の徒らしい活力が溢れ、何より経験に裏打ちされた自信が与える立ち居振る舞いが、小柄な彼女を見た目以上に大きく見せた。
 今やドリー・ジェスターといえば、研究者として比類ない実績と名声を兼ね備えた、銀河系でも最も聡明な女性のひとりに数えられる存在であった。
「君の噂はかねがね聞き及んでいる。新設されたミッダルト総合学院の初代院長に就任したそうじゃないか。友人として鼻が高いよ」
「あら、天下の博物院長に友人と呼んでもらえるとは光栄だわ。てっきり忘れ去られてしまったものだと思ってた」
 ドリーの皮肉たっぷりの返事に、シンタックは苦笑めいた顔で応じた。
「ドリー・ジェスターとシンタック・タンパナウェイの友誼を重く見ているからこそ、ミッダルト総合学院からスタージア博物院への留学生受け入れを承諾した、とは考えてくれないかな」
「無理を承知の申し入れに応じてくれたことについては礼を言うわ。でも留学制度は私じゃなくて、事務長が私とあなたの接点を知って思いついたアイデアなの。箔がつくってね。思いのほか賛同を得てしまって、押し切られちゃった」
 クッションの効いた椅子に身体を押しつけながら、ドリーはため息混じりに答えた。
「私がそんなこと言い出すわけないじゃない。大事な院生たちを、《スタージアン》の生け贄に差し出すような真似」
 シンタックは何も言わずに目を伏せる。彼の仕草を醒めた目つきで見つめながら、ドリーは脚を組み、再びベープ管の吸い口を咥えた。
「ベープを嗜む姿なんて、昔の君からは想像もつかなかったな」
 軽く驚いた顔を見せるシンタックに、ドリーが一瞥をくれる。
「誰のせいだと思ってるの。あれから私が心の平穏を取り戻すまでどれほど苦労したか。ベープでも吸わなきゃやってられなかったわ」
「それは済まないことをした」
「あら、思ってもないことまで口に出来るようになったのね。昔のあなたは馬鹿正直が美徳だったのに」
「手厳しいね」
 白煙をくゆらせながら、ドリーが吐く言葉にはいちいち棘がある。だがシンタックはわずかに眉尻を下げるだけで、微笑を崩そうとしない。
 ミッダルト総合学院の留学生受け入れ承諾について、博物院長へ感謝の意を伝える――それはドリーがはるばるスタージアまで足を運び、こうしてシンタックと院長室で面会するための口実に過ぎない。
「本当は釘を刺しに来たのよ。それがわざわざここまで来た、目的のひとつ」
「そうだろうね」
「先刻承知って顔ね。でもはっきり言わせてもらう。いい? 留学生を博物院生に、いえ、《スタージアン》にスカウトすることは絶対にやめて」
 ベープ管の端がテーブルを叩く音が、広い室内に一際強く響き渡った。シンタックは一瞬天井を仰ぎ見たが、すぐにドリーの顔に視線を戻す。
「我々は常に優秀な人材を欲している。君の教え子をスカウト出来ないのは、博物院にとって大きな機会損失だ」
「約束出来ないなら、留学制度の話は白紙よ」
「ここまで来て白紙になったら、君の立場にも影響があるのでは?」
「そんなことでどうにかなるなら、こっちから辞めてやるわ」
 腰を浮かし、身を乗り出しながら、ドリーはベープ管の端をシンタックの鼻先に突きつけた。
 こんな芝居がかった真似をしなくとも、シンタックはこちらの真意を全て見抜いている。それは十分に理解しているつもりだが、ドリーは自分自身に言い聞かせるためにベープ管を振り回した。
 シンタックは冷静にベープ管の端先を見つめていたが、ふっと息を吐き出すと共に椅子の背凭れに身体を預けた。
「わかった。ミッダルト総合学院からの留学生を博物院生にスカウトしないと約束しよう。君の職を奪うことになってしまったら、僕としても寝覚めが悪い」
「ご理解いただけたようで嬉しいわ」
「ひとつ誤解を解いておきたいんだが」
 中腰の姿勢を解いて席に腰を下ろすドリーに、シンタックは心持ち身を乗り出すようにして言った。
「僕が巡礼研修からそのままスタージアにとどまったのはイレギュラーなんだ。普段の《スタージアン》は、あくまで中等院卒業後に博物院に来るようスカウトするだけなんだよ」
 ドリーは「へえ」とだけ答えると再びベープ管を吸い込み、今度は鼻腔から水蒸気の煙を勢いよく吹き出した。
「じゃあ、記念館の前で私の前から姿を消したのは《スタージアン》の作法じゃない。あくまであなた個人の意思によるものだってことね」
「まあ、そういうことだ」
「ますますもって最悪ね。《スタージアン》に操られたってことにしてくれた方が、よっぽどまし(・・)だったわ」
 くゆる白煙が少しずつ掻き消されて、やがて現れたドリーの青い瞳は、若干の怒気すら孕んでいる。
「つまりあなたは、私たちを切り捨てても《スタージアン》になることを望んだのね」
「ドリー」
「あなたはあのとき、私の心も読み取っていたんでしょう? 私の気持ちもわかって、それなのにあんな形で突然別れを告げるなんて」
 わざとらしいほどの刺々しさをまとうことで保たれていた冷静な表情が、少しずつ剥がれ落ちていく。徐々に感情が剥き出しになっていくことがわかっていても、ドリーはもう溢れ出す言葉を止められない。
「あの後、帰りの宇宙船にあなたの姿がないっていうのに、リュイもヨサンも導師も、誰ひとりそのことで騒ぐ人はいなかった。そうよ、誰ひとり――私も当然のこととして受け止めてた。あれが《スタージアン》の精神干渉なのね。ミッダルトに帰ってからようやく騒ぎになったけど、それもあなたが博物院に編入したって報せが届いて、そのままなし崩しにうやむやになってしまったわ」
「そうだね。僕がいなくなっても混乱しないよう、少しだけ触らせてもらった」
少しだけ(・・・・)ですって?」
 奥歯を軋ませるほどに噛み締めながら、ドリーはシンタックの落ち着き払った顔を睨みつけた。
「お陰で私は、あなたがいなくなったことを嘆くことさえ出来なかった。心の底から悲しかったはずなのに、泣き叫ぶこともなかった」
 記念館の前で彼の姿を見失った際に溢れ出した一粒の涙。それがドリーが流すことの出来た唯一の涙であった。
「《スタージアン》って輩はなんて傲慢なの。私の心を中途半端に弄くって、後に残ったのは消化不良のままの絶望だけよ」
 昂ぶった感情に突き動かされて、ドリーは自分がいつの間にか椅子から立ち上がっていたことにも気がついていなかった。見下ろした先にあるシンタックの顔は穏やかなまま、ただ口元の笑みだけは失われている。
「その通りだ。君には酷い振る舞いをした」
 伏し目がちに語るシンタックの言葉は丁寧だったが、どこか他人事について述べるかのような口上で、ドリーの心には響かない。
「《スタージアン》からの博物院生への誘いは、失意のどん底にいた僕にとって降って湧いたような希望だったんだ。博物院生に、《スタージアン》になれば、過去の膨大な記憶から、今後スタージアを訪れる人々がもたらす知識まで、万遍なく目にすることが出来る。あのときの僕は、その可能性に目が眩んでしまった」
「今さらそんなことを聞かされても、私があなたを許す謂われはないわ」
「君の言うことはもっともだ。だがどのみちもう、君がシンタック・タンパナウェイを許すことは不可能なんだよ」
「……何を言っているの?」
 積年の想いを叩きつけた末に返ってきた言葉としては、シンタックの言うことは突拍子もないように思えた。奔流する感情の行き着く先が突然見失われたような気がして、ドリーは思わず戸惑いを口にする。
「では今ここで私と喋っているのは、いったい誰だというの」
「ドリー、本当は君も薄々勘づいている。その証拠にここを訪れてから君はまだ、僕のことを一度もシンタックという名前で呼んでいない」
 その指摘にドリーが一瞬言葉を詰まらせる。彼女の反応を確かめてから、シンタックは再び目を伏せた。
「僕が記念館前で《スタージアン》について語ってみせたときのことを覚えているかい? 機械と《繋がり》共生するという《スタージアン》の在り方を聞いて、君はまるで《オーグ》のようだと怯えていた」
「……人間と機械が融合した化け物のことを《オーグ》というなら、あなたの言う《スタージアン》とはまさしく《オーグ》にほかならない。つまりそういうこと? 自分はもう《オーグ》同然、ヒトにあらざる身なのだと」
「伝説上の存在について定義を問うても仕方ない。ただ、《スタージアン》に《繋がる》者にはひとつだけ共通点がある。資格と言ってもいい」
 そう言ってシンタックは面を上げて、ドリーの目を見返す。
「それは、《オーグ》になることを厭わないことだ」
 決して強い口調ではない。シンタックの述懐はむしろ淡々としたものだったが、ドリーは何も言い返すことが出来なかった。
 それはシンタック自身が《オーグ》になることを躊躇わないと、そう打ち明けたに等しい。
 伝説の化け物に身をやつしてもなお知識を求めようという貪欲さ、それこそがシンタックをシンタックたらしめるものなのだ。かつてのドリーを孤独から救い上げ、そして記念館の前で追い縋る彼女を振り払った、そのいずれも彼の持つ底抜けの知識欲がもたらしたものに過ぎない。
 シンタック・タンパナウェイという人の本質を突きつけられて、ドリーはこれ以上彼を糾弾する気力を失ってしまった。もはや何を言っても、彼に響くものはないのだろう。
 ましてや目の前の彼は《スタージアン》に成り果てた、ドリーの記憶にあるシンタックとは別人なのだと、彼自身がそう言うのだから。
 若干の目眩を覚えつつ、ドリーは無言で席に腰を下ろす。
 怒りに任せた言葉を叩きつけて、詫びる言葉も反論も聞き届けずにこの場を立ち去るつもりだった。だが目の前で悠然と腰掛ける彼が、実は彼の姿をした何者かであると告げられて、何もかもが空回りに終わった脱力感に襲われる。
 もうこれ以上ここにいる意味はないのではないか。そんな考えに囚われ始めたドリーをまるで引き止めるかの如く、シンタックがふと口を開いた。
「そういえばドリー、ついにN2B細胞の正体にたどり着いたんだね」
 それまでとは異なる話題を突然持ち出されて、ドリーは軽く目を見開き、次の瞬間に嘆息する。
「私の頭の中を読んだってことね。だったらわざわざ説明するまでもない」
「スタージアまで赴いた、もうひとつの用件はそれだろう? 嬉しいよ。N2B細胞の秘密を解き明かしてくれという願いを、忘れないでいてくれたなんて」
「自惚れないで。私の研究にはまだ論拠となるデータが不足している。ここに来たのはあなたと会ってその確証を得るためだってこと、わかっているんでしょう?」
「それで、確証は得られたかい」
「得られたも何も」
 ドリーは白々しい顔で言った。
「私の研究を突き詰めれば、正体にたどり着く。さっきのあなたの台詞が答えでしょう」
 シンタックの唇の端がわずかに吊り上がって、笑みの形を見せる。彼の表情に微かに苛立ちを覚えながら、ドリーはN2B細胞の正体に言及した。
「ヒトとヒトを精神感応的に《繋げる》、通信装置としての役割。まさかN2B細胞にそんな機能が備わっているなんて、このことを知ったら銀河系中がパニックになるわ」
我々(・・)としても、君がそこまで突き止めるとは驚きだよ。君の頭脳は我々の想像をはるかに上回った」
「当事者であるあなたたち(・・・・・)からの賞賛なんて、毛ほどの価値もない」
 ようやく気持ちを落ち着けて、ドリーは再びベープ管を口にした。
「調べれば調べるほど異質さばかりが浮き彫りになる。ヒトとヒトを《繋ぐ》ためならば、個人差が皆無なのも当たり前。統一された規格でなければ通信機能に支障を来すからね。N2B細胞は蛋白質と脂肪から構成された、でも〝機械〟としか言いようがない代物よ。どうして今まで誰もそのことに触れてこなかったのか、その方が不思議だわ」
「誰も体内に機械が存在するなんて想像もしないよ。ドリー・ジェスターの異才は、そもそもその観点を持ち得たところにある」
「私がその発想に至ったのは、あの日《スタージアン》になったあなたを見たからよ。精神感応力の実在を目の当たりにしなかったら、さすがに確信出来なかった」
 唇の端から漏れ出る白煙をまとわりつかせながら、ドリーの青い瞳が放つ眼光はあくまで冷ややかだった。
「誰もが体内に機械を飼って、共生している。だというのに機械との有機的な融合を忌み嫌う伝承が、銀河系中に蔓延っている。これはどういうこと?」
 ドリーの突き刺さるような視線を受けて、シンタックは表情に変化を見せぬまま、ただわずかに椅子の背凭れを揺らした。
「君はそれが《スタージアン》の仕業だと言いたいのかい」
「〝始まりの星〟に在り続けて、しかもN2B細胞の機能を自在に操れるんでしょう。あなたたち以外の仕業だとしたら、むしろその方が驚きだわ」
 ベープ管を口にしたままふんぞり返るように目を向けるドリーと、テーブルの上に組んだ両手を乗せて、どこまでも落ち着き払った表情を崩そうとしないシンタック。
 両者の視線が絡み合い、しばし沈黙が漂う。
 暖色の照明の下で動きを見せるのは、ドリーの口から吐き出されるベープの白い煙。そしてシンタックの背後で、多数の明滅を繰り返しながらゆっくりと回転し続けている、漆黒の天球図だけであった。
 どれほどの時間が経過しただろう。天球図の前の空間に漂うベープの白煙が、いつの間にか薄まっている。そのことに気づいたドリーがジャケットの内から交換用のリキッドを取り出そうとして、手を止める。
 シンタックから回答を得られないのなら、これ以上の滞在は無意味であった。
「そろそろ失礼させてもらうわ」
 そう言って立ち上がったドリーに、シンタックが名残惜しそうに声をかける。
「今日の会談は非常に有意義だった。また折を見て遊びに来てくれないか。僕はここから動けない身だから」
 既に踵を返しかけていたドリーは、シンタックの言葉を受けて肩越しに険しい視線を放った。
「冗談じゃないわ。もうこの星に来るつもりはないわよ」
 彼女の口から吐き出された声には、静かな怒りが込められていた。
「私から大切な友人を奪った《スタージアン》とは、二度と顔も合わせたくない」
 それは天球図の前にたたずむ博物院長が、彼女の知るシンタック・タンパナウェイと同一人物ではないことを、ドリー自身が認めた言葉であった。
 目の前で穏やかな表情を見せる紳士は、ドリーにとって友人の皮を被った《オーグ》でしか有り得ない。
「私はN2B細胞なんて必要としないような身体調節の手段を、一生かけても見つけ出す。それはあなたたち《スタージアン》の脅威になるかもしれない。阻止するなら今のうちよ」
「我々は君たちのすることをなんら邪魔するつもりはないよ。ここに集まってくる人たちから知識を拾い上げ、蓄積していくだけ。それが我々の役目であり、存在意義だ。君の研究が実を結ぶことを願っている」
「心にもないことを」
 ドリーは鼻を鳴らして笑ったが、すぐに無表情に戻って扉に顔を向けた。
「こんな、ただの知識の墓場に存在意義なんて要らないわよ。いつかあなたたちの存在が意味を失くす日が来ることを祈ってるわ」
 そう言い残して、ドリーの姿が院長室の扉の向こうに消える。
 天球図の前でしばらく腰掛けたままだったシンタックは、彼女が言い捨てた言葉を静かに反芻した。
「君の言う通りだ、ドリー。《スタージアン》が無意味となるような日々が来ること。我々もそれを待ち望んでいるよ」

(第一部 了)
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登場人物紹介

シンタック・タンパナウェイ:第一部に登場。

ドリー・ジェスター:第一部・第三部に登場。

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