1ー1 天球図 ――巡礼研修七日目(1)――

文字数 3,262文字

 この銀河系に暮らす人間の数はおよそ百億人近く、人々が住まう星は百を超えると言われている。
 銀河系人類社会に(あまね)く伝わる伝説によれば、三百年余りの旅路を経て《星の彼方》から現れた《原始の民》が、今では〝始まりの星〟と呼ばれる惑星スタージアに降り立った。彼らはスタージアへの開拓入植を果たし、その子孫がさらに新たな星へと移り住み、その繰り返しを経て人類は生活圏を広げてきたという。
 そこに費やされてきた年月は、《原始の民》の降下から数えておよそ五百年近くに及ぶ。その間に積み重ねられてきた様々な人々の足跡――未知の星を切り拓く上での困難克服の歩みや、人間同士の間で繰り広げられてきた大小様々な争い、また科学技術や文化芸術の発展といった華やかなものから、名もなき市井の人々の営みまで。
 それら全てをひっくるめた、銀河系人類の歴史を綴った膨大かつ詳細な資料の数々を、少年は一週間という限りある時間をぎりぎりまで費やして、その黒い瞳に余すことなく焼きつけてきた。
「さすが銀河系随一の博物院、どの展示も十分見応えはあったよ」
 建物の内、七階にまで及ぶ吹き抜けの空間に、静かに浮かぶ巨大な球状のホログラム映像を見上げながら、少年は誰に聞かせるともなくそう呟いた。
 球形の映像は漆黒の闇に満たされて、その中にはまるで宝石箱のような色とりどりの(おびただ)しい輝きが、幾千万と散りばめられている。映像に向かって少し手を翳すと、中の明かりは赤や青といった何種類かの淡い光に包まれて区分けされた。それぞれの色合いは銀河連邦、エルトランザ、バララト、サカといった、銀河系人類社会における最新の勢力図を表している。
 少年が翳した手から指を一本立てて何やら動かせば、色合いの分布は徐々に形を変えて、やがて銀河連邦を示していた最も大きな青色はふっと掻き消えた。代わりに個々の微妙に異なる色合いの星の群れと、中心には新たに紫色に区分けされた一群が登場する。あれは銀河連邦の前身とされるローベンダール惑星同盟だろう。
 少年の指先に合わせるかのように、天球図の中では銀河系人類社会の勢力図の変化を遡っていく様が繰り広げられていく。
 彼の指がさらに動き続けるに連れてその紫色も消えて、そのほかの様々な色合いも少しずつ占める部分を減じていった。
「これがスタージアか」
やがて最後に残ったのは少年の目の高さよりもやや低いところ、球体の底に近いほとんど表面で淡く光る、赤い星ひとつだけである。
「僕は今、こんな端っこの星にいるのか」
 少年は惑星スタージアの、人類最古にして最大とされる博物院の中にいた。
 銀河系人類発祥の星にあって、(いにしえ)から人類の歴史を集積し続けてきたというスタージア博物院を、隈無く見学して回ること。
 その望みを、彼はつい先ほどかなえたばかりであった。
「この一週間駆けずり回って、見れるものは見尽くしたつもりだけど……」
 弱々しく瞬く赤い光をしばらく見つめていた少年が、そう口にしてゆっくりと顔を上げる。
 博物院は大きい。彼が一週間をかけて見て回った、一般客用の展示エリアが収まる巨大な長筒状の中央棟と、その中央棟を左右から挟み込むふたつの弧状の研究棟と生活居住棟。そして三棟の周囲に広がる広大な博物院公園の敷地内には、さらにいくつもの研究施設が点在している。博物院とは一級の展示施設である以上に、銀河系中から集めた叡智をさらに追究し続ける、最先端の研究機関でもあるのだ。
 本心を言えば一般エリア以外にも、この博物院公園内にある全ての施設を見学したい。だがそれは、博物院の院生にでもならない限りかなわぬ希望だ。博物院生となる手段は非公開とされており、であれば少年は、この一週間で目にした展示で満足するしかない。
 だからだろうか。せっかく望みを果たした直後だというのに、少年の顔には今ひとつすっきりしない、釈然としないものが残る。
「まさか、これで全部ってことはないだろう?」
 周囲には誰の姿も見当たらない。長大な博物院中央棟の、ちょうど南端の玄関ホールで天球図のホログラム映像を仰ぎ見るのは、少年ひとりであった。人類発祥の星を目指す巡礼客は日々多く訪れているというから、こうしてこの場所に彼ひとりでいるのはきっと珍しいことだろう。
「だってここに展示されているのは全部、《原始の民》降下後の出来事ばかりじゃないか」
 漆黒の中に煌めく星の輝きの群れに目を凝らしながら、少年は再び疑問を口にする。さして大きくないはずの彼の呟きは、無人のホールの中で思いのほか響いて聞こえた。
「《原始の民》や彼らの来し方である《星の彼方》の正体について、なんの説明もないなんて。そりゃないよ」
 そう独りごちる少年の頬は、唇の端に力が込められたせいか、やや引き攣れていた。本来なら褐色の肌に浮かぶ穏やかな笑みこそ似合うであろう顔立ちが、眉間に縦皺を一本刻み込み、納得のいかない面持ちを見せている。
「中等院の導師も誰も知らないっていうから、ここが最後の希望だったのに。僕が何よりも知りたかったことだけ抜け落ちてるなんて、あんまりじゃないか」
 博物院の全てを見尽くした――そこで見知った事物を自らの糧としたことで満足出来ていれば、少年は心置きなくこの星を後にすることが出来ただろう。
 だが一度抱いてしまった渇望は、そう簡単に振り払うことは出来ない。
「中等院を卒業する前に全てを知り尽くそうだなんて、どだい無理な話だったのかな」
 ひそめられた眉の下で、少年の目が悔しそうに細められた。
 ――でも、もう終わりだ。進学の道が断たれた僕にはもう、これ以上学びに費やす時間は残されていない――
 黒い瞳には満たされぬ欲求と、諦めと、そして少なからぬ悔恨が浮かび上がっている。
 目尻にうっすらと涙がこみ上げかけたその瞬間、少年は球体映像の中に変化が生じていることに気がついた。
 星明かりに満たされているはずの黒い球体の、その中心に当たる部分に、薄緑色の光が一列になって浮かび上がっている。
 わざわざ目を凝らすまでもない。その光の列は意味を成す文章となって、少年の瞳に飛び込んできた。
『さらに知りたいと欲するならば、その手を前に伸ばすこと』
 少年が驚くより先に、その光の列にはさらに新たな文章が付け足された。
『〝知りたがり〟のシンタック、君にはその資格がある』
 ――この文字列は、いったいなんだ――
 球体映像の中心に浮かんだままの光の列を凝視して、少年は訝しむ。
 ――どうして僕の名前やあだ名を、望みを知っている?――
 そんな疑問が脳裏をよぎると同時に、少年の胸中を別の思いが占める。それは五里霧中の中にぽうっと灯った明かりのような、一連の文字列が意味するところであった。
 手を伸ばせばいいのか。
 もう駄目だと諦めなくても良いのか。
 それだけで欲するものを手に入れる、その資格が僕にはあるのか。
 自問自答に似た内心の葛藤は、実際には自分自身の背中を後押しするため、光る文言の誘いに靡く己への言い訳に過ぎなかった。少年の躊躇はわずかのことで、次の瞬間には黒い球体に向かって開いた右手を突き出して――
 鈍い衝撃を感じた。
 掌に波動が伝わる。ざわめくように体内に押し寄せていく波は、二の腕から肩を通り過ぎて、あっという間に全身に行き渡った。
 それはほんの一瞬のことに違いない。だが全身の血管、筋肉の腱の一本一本、消化器官の内壁の(ひだ)、肺胞のひとつひとつの表面から、眼球の裏をなぞり、脳細胞の樹状突起の末端まで、シンタック少年は身体中を内側からめくり上げられるように塗り替えられていく錯覚に襲われた。
 平衡感覚が失われて、思わず片膝を床につく。その姿勢すら保つことが出来ず、ついにシンタックが(うずくま)ってしまった頃には、天球図の中の文字列は跡形もなく消え去ってしまっていた。
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登場人物紹介

シンタック・タンパナウェイ:第一部に登場。

ドリー・ジェスター:第一部・第三部に登場。

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