2ー1ー2 琥珀の眼差し

文字数 9,147文字

 外見と表情のミスマッチ。
 それが、イェッタ・レンテンベリの第一印象だった。
 容貌は間違いなく美しい部類に入る。蜂蜜色のウェーブのかかった長い髪の下に覗く卵形の輪郭には、整った目鼻立ち。中でも琥珀色の瞳と、やや厚ぼったい唇が印象的だ。背の丈はディーゴと同じぐらいだろうか。スレンダーだが丸みを失わない女性的な体つきも、ディーゴの好みに当てはまる。
 だが市民議事堂の第一会議室に現れた彼女が目を引いたのは、その美貌というよりも切迫した表情によってであった。
 手入れの行き届いていない長髪は頭の後ろで無造作に束ねられ、目の下には隈が色濃く浮かび上がっている。にもかかわらず両の瞳が放つ強い光が、疲れ切った彼女がなお保ち続けている意志の強さを物語っていた。
 こういう女は少し胸元の開いた服を身にまとって、瞳を潤ませながら上目がちに男の顔を見上げていれば、それだけで気楽な人生を歩むことが出来るだろうに。どうして惑星開発の調査員などという、恵まれた容姿の価値をどぶに捨てるような道を選ぶのだろう。彼女の志向をディーゴは理解できない。
 だが彼女が惑星開発調査員であろうとするのであれば、かえって美貌は邪魔だったかもしれない。その点は理解できた。全く真逆の方向性ではあるが、周囲からある種のバイアスのかかった評価を押しつけられることの鬱陶しさは、ディーゴもこれまで散々味わってきた。おそらく彼女は、自分の容姿を注目されないよう、苦労してきたはずだ。
 惑星CL4第二次調査隊の報告会の場で彼女を見て、ディーゴが最初に抱いた感想がそれであった。
「CL4への入植は断念すべきです」
 開口一番、イェッタは報告会の出席者たちの顔ぶれを睨め回しながら、そう言った。
「既にレポートで提出しました通り、CL4の現地生態系が人間に与える影響は最悪かつ甚大です。少なくとも対抗措置が確実に見込まれるまで、CL4への入植、いえ接近も禁じるべきです」
 イェッタがテネヴェに生還後、メディカルチェックと並行しながらまとめ上げた報告書は、スタージアから帰還中のディーゴの手元にも届いていた。
 この手の調査報告はうんざりするような膨大なデータで埋め尽くされているのが常だが、今回は例外だった。数字やグラフの欠片もない、惑星への降下から脱出までの経緯を箇条書きに書き出しただけという至ってシンプルなレポートは、形式以上にその内容が異常だった。
「レポートには目を通した。が、俄には信じがたいというのが、率直な感想だ」
 報告者席を取り囲むように設けられた席上に座る年配の市民議会議員が、列席者たちの胸中を代弁するように口を開いた。
「CL4の生命体は種を問わず精神感応的に統合された生態系を形成しており、そこに降り立った人間たちも生態系から精神感応的な干渉を受ける、とある。どのような干渉を受け、どのような影響が出るのか。この点についてもう少し具体的に説明してもらえないかね?」
「具体的に、ですか」
 議員の言葉を反芻しながら、イェッタは緊張気味に噛み締められた唇の端を少しだけ歪ませた。当人は笑みを浮かべたつもりだったのかもしれない。だが、ディーゴには表情を引き攣らせたようにしか見えなかった。
「有り体に言いますと、得体の知れない現住生物たちの感情とも思考ともわからない、それらが一斉に頭の中に流れ込んできます」
 イェッタの説明に、場内の面々は顔を見合わせる。ディーゴも含めて、彼女の言うことが未だ想像がつかない者がまだ大半だった。
「突然というわけではありません。ただ宇宙船がCL4に降り立った当初から、何か耳鳴りのようなものが聞こえる気がしました。タンドラ・シュレス――私と共に生還したもうひとりは、そのせいで降下初日から体調不良で伏せってしまいました」
 イェッタは徐々に顔を俯かせて、伏し目がちになりながら説明を続ける。
「彼女と船医の私を除く他の隊員たちはフィールドワークに出ていましたが、三日としないうちに皆、頭を抱えてのたうち回るようになりました。いくら耳を塞いでも、頭の中を自分以外の幾千万の思考が暴れ回ると言っていましたから、無理もないでしょう。私とタンドラがまだ正気を保てていたのは、おそらくふたりとも船外に出ることがなかったからではないでしょうか。ですがCL4の精神感応力の影響は、それだけでは収まりませんでした」
 そこで彼女は小さく息を吐き出し、口をつぐんだ。彼女の次の言葉を待つ場内が静寂に包まれる。再び面を上げたイェッタの顔は、陰鬱な表情に染まっていた。
「隊員同士の思考までが、精神感応的に繋がってしまったのです。お互いの考えていること、感じていることが、意識的なものもそうでないものも筒抜けになってしまうということが、どれほど恐ろしいことか」
 呼び覚ました記憶におののいているのか、イェッタは両腕で己の身体を抱えるようにして身震いした。
「一例を申し上げましょう。男性隊員の全員が、妄想の中で私を何度も犯していました。何度も、何度も、何度もです」
 淡々としたイェッタの告白は、列席者たちの息を呑ませるのに十分であった。
「男性の本能的な欲求であり、皆そういう欲求を理性でコントロールしているということは承知しています。でもそんな妄想、私は知りたくなかった。そして彼らもまた、彼らの妄想を私が知ったということがわかってしまうんです。私の場合はまだ程度が軽かったかもしれません。それよりも遙かにおぞましい思考や感情が、互いに隠し通すことが出来なくなりました」
 想像以上に生々しい内容を聞かされて、イェッタたちが陥った状況を自分の身に置き換えて想像してみた者もいただろう。ごくりと唾を飲み込む音が響いたのは、一度ではない。
「私も含めて皆、混乱しました。その場に居ることに耐えきれず、船外に飛び出して帰ってこない隊員もいました。ほとんど発狂して殺し合う者さえいました。その中のひとりに襲撃されてタンドラは負傷し、命の危険を感じた私が彼を射殺しました。結局三名が行方不明となり、三名が死亡。残るタンドラと私が脱出し、帰還したのです」
 イェッタの説明は、それで全てだった。だがしばらくの間、場内で発言する者はいなかった。
 惑星開発計画を続行するために臨んだであろう推進派の人々さえ、冷房の効いた室内だというのにしきりにハンカチで汗を拭っている。列席者たちが一様に顔色を悪くする中、ディーゴだけは少しばかり冷静だった。というよりも現実感が湧かなかった。彼はイェッタの説明は話半分に聞き流しつつ、彼女の容貌にばかり目を奪われていた。
 報告を続ける中、イェッタの表情が時に皮肉っぽく、時に悪夢を思い返して歪む様が、彼には新鮮だった。今まで彼の周りに居た女は、彼の立場や金の恩恵に預かろうと媚びた笑顔で粧うばかりだった。たとえネガティブなものだとしても、こうも感情をあからさまにする女を、いったい何年ぶりに見ただろう。その美貌と相まって、ディーゴは彼女の表情の変化から目が離せないでいた。
 やがて場内がざわめき出し、彼女の報告をどのようにとりまとめて議会に諮るべきかの議論が始まる。こんな報告を聞かされて、惑星開発計画そのものは中断せざるを得ないだろうということは、経験の浅いディーゴにも想像がつく。だがことはそう簡単な話ではないらしい。ここまで膨大な予算を費やして進められてきた計画を中断するとなると、責任が問われるのは免れない。放っておけば推進派が槍玉に挙げられるのは間違いなく、かといって議会主流派の彼らが納得するわけもなかった。
 イェッタの報告を聞き終えればそれで解散するものと思っていたが、ディーゴの周りの列席者たちは徐々に議論を白熱させていく。その様子をうんざりしながら眺めていたディーゴはふと、己の横顔に誰かの視線が注がれていることに気がついた。
 この場の誰からも親の七光りと見なされる自分のことを、熱心に見つめるような人物に心当たりはない。視線の元をたどって場内を見回すと、報告者席にたたずむイェッタと目が合った。
 まさか、イェッタとは今日初めて出会ったばかり。というよりも、ディーゴが一方的に彼女の顔を知っただけだ。彼女が自分に興味を持つ謂われがない。もしかしたら先ほどまで彼女に見入っていたことに気づかれたのだろうか。戸惑いながらもディーゴは目を逸らすことが出来ず、またイェッタも真っ直ぐに見返したまま、喧噪の中でふたりの視線が絡み合う。
 ふっとイェッタの口元が笑ったかのように見えた。
 報告会の冒頭で見せた、無理矢理唇の端をねじ曲げたような笑みではなかった。かといってこれまで何度も目にしてきたあからさまな愛想笑いでもない、自然にこぼれ出た笑顔を、イェッタはディーゴにだけ垣間見せた。
 少なくとも彼の目にはそう映ったのである。

 惑星国家テネヴェのセランネ区には、テネヴェの総人口のおよそ五分の一が集まっている。静止衛星軌道上の宇宙港に繋がる軌道エレベーター発着場にほど近く、また開拓団が最初に切り拓いた地区ということもあって、セランネ区は入植当初からテネヴェの中心であった。テネヴェ自体にはまだまだ未開の広大な土地が有り余っているが、ことセランネ区では住宅不足が問題化しており、人々の住まいは街中の隙間を埋め尽くすようにしてあちこちに点在している。中でも昨今の流行りである高層住宅が立ち並ぶ一角は、富裕層や成功者たちが多く居を構えていることで知られていた。林立する高層マンション群は、縦横に貫かれた何本もの道路によって区切られている。その中の一本を走り抜けるオートライドの後部座席に、ディーゴの姿があった。
 繁華街でしたたかに酔った帰途である。
 既に時刻は夜半を過ぎ、道路の両脇に聳え立つ建物の明かりも数少なく、辺りに人影は見当たらない。さして強くない酒を呷り続けていたせいで、見慣れたはずの街中の光景に目を向けても、今どこを走っているのか判然としなかった。報告会でのイェッタの姿、表情が頭から離れず、気がつくと許容量以上のアルコールを摂取してしまった。この調子だと明日は宿日酔いを覚悟しないといけないだろう。
 予定時刻を大幅に超過した報告会が解散して、気がつくと報告者席からイェッタの姿は消え失せていた。会場を出て市民議事堂の中を探し回ってみたが、結局彼女を見つけ出すことは出来なかった。見つけ出したところでいったいどうしようというのか、何の算段があったわけでもない。だが報告会での彼女の表情はディーゴの脳裏に焼きついて、市民議事堂を後にしてからも消え去ることがなかった。酒の力を借りて少しでも落ち着こうとして、いつの間にかこんな時間になってしまったのである。
 思春期を迎えたばかりの少年でもあるまいに、我ながらどうかしている。酔いが回った頭で、ディーゴはそう自嘲した。
 美しい女が微笑みかけてくれたような気がして、それしきのことで浮ついてしまう己が滑稽だったし、その単純さが情けなくもあった。上っ面ばかりの人間関係に飽いた男が女の情に絆されるなんて、星の数ほどよくある話だ。だがよくある話だということは、つまりそのようなケースに当てはまる人々が多いということの証左でもある。自分もまたそのような人々のひとりになる可能性を、ディーゴは否定出来ない。
 高層住宅の間を静かに移動するオートライドは、競い合うように天を突く建物の中でも、ひときわ背の高いマンションの車寄せへと滑り込んでいった。地上八十八階建てのマンションは周りの建物に比べても飛び抜けて高く、その最上階――ペントハウス形式のフラットがディーゴの住まいとなる。
 周囲の建物を全て見下ろすことが出来るという点が、彼がここに移り住むことを決めた一番の理由だ。
 マンションの正面玄関の前で音もなく停車したオートライドから、ディーゴはいささかおぼつかない足取りで降り立った。左右にスライドして開くドアをくぐるだけでも一苦労する。思った以上に酔いが回っているらしい。
 マンションのロビーは広々として、この時間だと陽の光が差すこともなく、室内灯の明かりが照らすばかりで寒々しい。千鳥足のままにロビーを突っ切りエレベーターに乗り込もうとして、ディーゴは思わず足を止めた。こんな真夜中に誰も居るはずがないロビーの中央、向かい合うように据えつけられたソファのひとつに、腰掛ける人影があった。
 人影はどうやらこちらに目を向けている。その姿形を認めて、ディーゴはいよいよアルコールによる幻覚を疑った。蜂蜜色の長い髪に琥珀色の瞳、しなやかな体つきの美しい女性。
 先刻から彼の心を捉えて離さないイェッタ・レンテンベリその人が、ソファに腰を下ろしてディーゴの顔を見つめている。
「深酒は余り感心できませんね」
 まるで長年の友人に語りかけるような親しげな口調で、イェッタはごく自然に口を開いた。
「そうでなくとも食生活に偏りが見られるというのに、アルコールは程々にとどめた方が良いですよ。医者としての忠告です」
 のっけから体調を気遣う言葉をかけられて、ディーゴはどう反応すべきか混乱していた。ただでさえ頭の回転には自信がないのに、今夜は大量の酒が重しとなって思考を鈍らせている。もつれそうになる足取りに辛うじて注意を払いつつ、ディーゴはそろそろとソファに近寄った。
「……そこに居るのは、イェッタ・レンテンベリで間違いない?」
 ディーゴに指先を突きつけられて、彼女はあっさりと頷いた。
「間違いありません。私は惑星CL4第二次調査隊医務担当、イェッタ・レンテンベリです」
「わかった。じゃあ次だ。あんたは俺が誰だか知っている?」
「ディーゴ・ソーヤ市長補佐官ですね。それともキューサック・ソーヤ市長のご子息と申し上げた方がよろしいでしょうか?」
「なるほど、俺の顔と名前もわかっている、と。じゃあ、あんたがここに居るのも、決して偶然ではないということか」
 イェッタとの身分証明のような会話を経て、ディーゴの頭から急速に酔いが引いていった。改めてソファに座るイェッタの姿を見る。
 頭の後ろで束ねられていた長い髪が解かれて、蜂蜜色のウェーブが細い肩に流れかかっている。照明の明かりの下で艶やかな輝きを放ち、気のせいか先ほどに比べて手入れが施されているようだ。目の下の隈も化粧で覆い隠したのか、今はすっかり目立たない。報告会ではフォーマルだが味気ないグレーのスーツに身を包んでいたが、目の前のイェッタは裾の長い白地のワンピースに、肩の上から淡黄色のカーディガンを羽織っている。ワンピースの胸元は心持ち開き、裾の下から伸びる細い脚が控えめにそろえられている様は、ディーゴの理想とする女性像にぴったり一致していた。
「色々と言いたいことはあるでしょうけど、まずはお掛けになりませんか」
 イェッタの白い指先に促されて、ディーゴは無言のまま彼女の向かいに腰を下ろした。酔いが醒めてきたような気がしても、まだ彼の顔は赤黒いままだろう。イェッタとの初めての会話をこんな有様で始めなければならないのが悔やまれる。
「それで、どうしてあんたはこんなところに居るんだい」
 今さら挨拶を交わすような流れでもないだろうし、アルコールで曇った頭にそんな余裕もない。ディーゴは単刀直入に尋ねた。
「あんたが、俺の行きつけのクラブに入店したばかりのホステスだったら、店長の指示で待ち構えていたのかとでも思って納得できる。だけど実際には市民議事堂というお堅い場所で、ほんのちょっと目が合っただけ、言葉も交わしたこともない間柄だ。あんたがどうして俺の家を知っているのか、知っていたとしてわざわざ待ち伏せしている理由がわからない」
「目が合ったから、それが理由です」
 イェッタは口元に微笑をたたえながら、そう言った。
「嘘ではないんです。あの報告会で、皆さん私の説明が進むにつれて内心すくんでいたというのに、あなただけはどうでもいいという感じで、私の容姿ばかりを気にしていました」
 やはりばれていたのか。ディーゴは自分の赤黒い顔が、さらに赤面するのを感じた。胸中にもたげてきた羞恥心を取り繕うには、イェッタの顔を睨み返すしかなかった。
「そんな下卑た男の元を、こんな時間に訪ねようだなんて正気じゃないな。魂胆はなんだ」
「私のことを保護してもらうためです」
 ディーゴの直截な疑問に対して、イェッタの回答もまた直截だった。
「保護?どうして、誰から守る必要がある?」
「惑星開発計画推進派から、です」
 ディーゴに睨みつけられながら、イェッタは少しも怯むことなく真剣な眼差しで答える。
「既に帰国後のメディカルチェックで入院していた時から、計画の継続を促す方向で報告内容に手心を加えるよう、圧力をかけられていました。その場では頷いてみせましたが、実際の報告会では包み隠さず真実を報告したのはあなたも見聞きした通りです。報告会が終わる直前にこっそり逃げ出してなかったら、多分今頃は彼らに拉致されていたでしょう」
 イェッタはそこまで言うと、わずかに眉をひそめた。
「先ほど、サスカロッチャ区の実家から連絡がありました。グレートルーデ・ヴューラー議員に連絡を取るように、と」
「サスカロッチャ? ヴューラー?」
「サスカロッチャ区はヴューラー議員の選挙区なんです。彼女が推進派議員のリーダーであることはご存知でしょう」
 当然という口調で同意を求められて、ディーゴは曖昧に頷いた。ご存知どころか、実はヴューラーという名前すら薄ぼんやりとしか記憶にない。彼のあやふやな態度に気づいて知らずか、イェッタは話を続ける。
「私の実家はサスカロッチャで農場を営んでいます。父は地元の農業共同体の幹部を務めており、その共同体はヴューラー議員の有力な支援団体です。おそらく実家もヴューラー議員からなんらかの圧力を受けています」
「それでヴューラーたちからの圧力を躱すために、俺に助けてほしいと。そういうことだな」
 ここまで説明されて、ディーゴはようやく合点がいった。それにしても唐突だという感想は否めないが、一通りの筋は通っている。同時に彼女もまた、これまで彼の地位や金を目的に近づいてきた女と大した違いがないのだという、失望に似た感情が湧き起こってしまうのもどうしようもないことだった。
「なるほど、俺には、というより俺の父には、推進派に対抗できるだけの力も、多分そのつもりもある。だけどそれなら、俺ではなくて父の元に駆け込んだ方が早いだろう」
 そう言って大袈裟に肩をすくめるディーゴの顔には、ありありとした自嘲が浮かんでいた。自分自身にはさしたる力はない。市長の七光りに過ぎないという評価は、誰よりもディーゴ自身が最も納得している。
「父の秘書なら今からでも連絡がつく。呼び寄せておくから、あんたは彼について行けばいい」
 だがイェッタは彼の言葉に首を振った。
「いえ、私が縋りたいのはあくまでディーゴ・ソーヤ、あなたです。あなたのお父上ではありません」
「俺個人には何も出来ないよ。ただの親の脛齧りだ」
「お父上――市長の元に行っても、最初は助けてもらえるかもしれません。でも推進派を抑え込むことが出来たらその後は、おそらく用済みになって放り出されてしまうでしょう。そういう意味では失礼ながら、市長もヴューラーたちと立場が異なるだけで、いつまでも頼れる相手ではないのです」
「それは俺も同じだろう。どうして俺が君の面倒を見続けるものと言い切れる?」
 ディーゴにとっては当然の問いかけだった。だがイェッタは彼の台詞を受けて一瞬押し黙ると、不意にソファから立ち上がった。
「あなたはそれで良いのですか?」
 彼女が何を言いたいのか、ディーゴにはよくわからなかった。訝しげに顔を上げた視線の先で、イェッタは自身の胸元に右手の親指を突き立てている。思った以上にタイトなシルエットのワンピースが、ソファから見上げるディーゴの目に、彼女の形の良い乳房と細く引き締まったウェストのラインを強調して見える。天井の照明を受けてやや翳ったイェッタの顔には、まるで内心を見透かすかのような、自信とも挑発ともつかない微笑が浮かんでいる。
「あの場でただひとり、私の女の部分にばかり興味を示していたあなたが、この機会を逃すとは思えません。たとえ政治的に用済みになったとして、その後も私を手放そうとはしないだろうという人を、私は見込んだつもりです」
 自信満々に言い切られて、ディーゴは呆気にとられていた。彼女が口にした台詞は、無礼千万と切り捨てられても仕方のない内容だった。ディーゴのことを女の美貌に執着する男だと決めつけて、その上で彼の立場を利用させてもらおうという宣言だ。ここで激怒して席を立っても、彼を責める者はいないだろう。
 だがディーゴの口から漏れ出たのは、思いがけない笑い声だった。
 最初は小さく低く、やがて呵々大笑となって深夜のロビーに響き渡る。糸が切れたゼンマイのように笑い続けるディーゴは、しばらくすると喉をかすれさせて立て続けに咳き込み、やがて笑うのを止めた。
 その間イェッタは立ち尽くしたまま、彼の哄笑を黙って眺めていた。
「明け透けな女だとは思っていたが、ここまで馬鹿正直だとは予想外だった」
 笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を拭いながら、ディーゴはイェッタの顔を見返した。
「あんたは女として見られることを何よりも嫌がるタイプだと思っていたんだが、そいつは俺の見立て違いだったかな?」
「いえ、あなたの仰る通りですわ」
 そう答えるイェッタの口調は、思いがけず明瞭だった。
「でもこれは取引です。あなたが私を守ってくださるのなら、私は喜んでこの身体を差し出しましょう」
 下世話極まりない申し出だというのに、彼女の琥珀色の瞳にはいっそ清々しいほどの輝きがたゆたっている。その潔さには苦笑するしかない。
 あれほど脳裏を覆い尽くしていた酒精の靄は、今やすっかり晴れて澄み渡っている。ソファからゆっくりと腰を上げて、ディーゴはロビーの奥、エレベーターの乗降口へと恭しく手をかざしてみせた。
「どこまでご期待に添えるかはわからないが、いいだろう。あんたを保護することを約束する。では俺の部屋で続きといこうじゃないか」
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登場人物紹介

シンタック・タンパナウェイ:第一部に登場。

ドリー・ジェスター:第一部・第三部に登場。

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