1ー4 散策 ――巡礼研修七日目(3)――

文字数 7,847文字

 久方ぶりに正面から見るシンタックの黒い瞳は、活力に充ち満ちていた。それはドリーが初めて彼と言葉を交わしたときに目にした、溢れんばかりの好奇心を宿した瞳の色によく似ていた。
「シンタック……」
「博物院のN2B細胞展示は、物足りなかった?」
 傾きかけた夕陽の明かりが斜めに射し込んで、シンタックの顔はやや翳って見える。それでも彼の口元に浮かべられた微笑を、ドリーの目ははっきりと捉えることが出来た。
「僕もなんだ。博物院には銀河系中の知恵が集まっているとか言って、実際に展示されているのは当たり障りのない程度のことばかり。量が多いのは認めるけど、肝心なことはろくな説明もない」
 その口調は極めて穏やかで、父を亡くして以来彼がまとってきた鬼気迫る雰囲気は感じられない。
「シンタックもそう感じた? そうなの、私もなの!」
 彼女にとって一番の関心事を無視したような展示内容を思い返して、ドリーは彼の言葉に強く頷いた。
「シンタックも見たでしょう? あのN2B細胞の展示。私がずっと不思議に思ってきた均質性について、これっぽっちも説明されてない。たかが中等院生の私にわかるようなこと、博物院が知らないわけないのに」
「たかがと言うけど、なんたって君は学院の特薦枠を勝ち取った身なんだ。そう卑下するもんじゃない」
 シンタックの苦笑気味の言葉に、ドリーは思わず身体を強張らせた。
 やはり彼は、ドリーに特薦枠を奪われたと考えているのだ。ここで待ち伏せのように現れたのも、もしかすると彼女を面と向かって罵倒する機会を窺っていたのかもしれない。
「うん、その、シンタック……」
 だとしても、ドリーは彼と向き合わないわけにはいかなかった。
 シンタックにとって唯一の進学のチャンスを潰してしまった。彼から受けた大恩を、仇で返すような真似をしてしまった。
 その思いは巡礼研修の間中、ドリーの頭の中を占め続けてきた。
 私はちゃんと彼の目を見て、謝らなくてはいけない。
 たとえ彼が許してくれなかったとしても――
「意地悪な言い方しちゃったな。気にしないでいいよ、ドリー。特薦枠の件、僕はもうなんとも思っていない」
 大きく息を吸って、いざ謝罪の言葉を口にしようとしたドリーの機先を制するように、その言葉は投げかけられた。
 出鼻を挫かれ、一瞬表情を空白にしたドリーに向かって、シンタックは至って落ち着いた口調で語りかける。
「そりゃ、発表の直後は思わないでもなかったよ。あんなに勉強したのに、どうして僕じゃないんだって。でもドリーの頭の良さは、僕が一番よくわかってるつもりだ」
 そう言うシンタックの顔には、卑屈な自嘲は見受けられない。淡々と、ただ事実だけを確かめるように口にする彼からは、不思議なほどの余裕さえ感じられる。
「僕が実力不足だった、それだけだよ」
 シンタックはその言葉をすっきりとした顔で吐き出すと、改めてドリーを見返した。
「むしろ謝らなくちゃいけないのは僕の方だ。ドリーは僕のことを気に懸けてくれたのに、なんであんな酷い態度を取ったんだか。あのときは世の中で自分が一番不幸な気がして、全然余裕がなかったんだ。済まなかった」
「それは、仕方ないよ。お父さんがあんなことになって、余裕がある方がおかしい」
「それにしたっていじけすぎだったよ。リュイやヨサンに呆れられるのも当然だ」
 ゆっくりと首を振るシンタックは、彼自身が自分に呆れかえっているかのようであった。かける言葉が見つからないドリーを見返して、シンタックが唇の端で微かに笑う。そのまま彼は踵を返し、博物院の外に向かって歩を進める。
「少し付き合ってくれないか、ドリー。この一週間ずっと博物院の展示に張りついていたから、ろくに外を見ていない。せめて公園ぐらいは散歩してみたいんだ」
 そう言って歩き出すシンタックの後を追って、ドリーもアーチ状の出口をくぐって建物の外に出る。
 時刻は既に夕暮れ時で、公園の奥に繁る森の上には真っ赤な恒星が差し掛かりつつあった。博物院の南側に一面広がる芝生は、夕陽を受けて金色に輝いて見える。芝生の一帯を囲うようにして緩やかな曲線を描く緑道は、その両脇に配された広葉樹によって見事な緑のトンネルを形作っていた。
 枝葉の隙間から漏れ射す幾筋もの夕陽の明かりの下、ドリーはシンタックから半歩遅れて、彼の斜め後ろをついていく。
 木々の合間の向こうに広がる芝生の上では、めいめいにくつろいだり、そろそろ引き上げようとする何人もの人影が窺えた。
「この時間でも、まだ結構人が多いね」
 シンタックの何気ない呟きに対して、ドリーが頷きながら答える。
「巡礼研修以外にも、スタージアに来る人っていっぱいいるから」
 巡礼研修が教育課程に組み込まれた銀河連邦加盟国の中等院生以外にも、スタージアを訪れる者は数多い。〝始まりの星〟スタージアに対する信仰は、連邦が成立する以前から銀河系中に根づいている。
「今のグループはサカから来た人たちだな。あそこは特にスタージアへの信仰が篤いから」
 幅広の緑道をすれ違った一団を振り返ってシンタックが口にした言葉に、ドリーはふと小首を傾げた。
「連邦の人じゃないとは思ったけど……サカ人だって、よくわかったね」
 するとシンタックはドリーの顔を見返しながら、どこか愉快そうに笑った。
「わかるんだ。ほかにも色んなことがわかるよ」
「ほかにも?」
「そうだな。たとえば今頃、リュイとヨサンはあそこら辺を、腕を組んで散歩しているよ」
 そう言ってシンタックは、木立の合間に覗く景色に向かって人差し指を向けた。彼が指差したのは広大な芝生の中央にどっしりと構える屋外ステージの、さらに奥。ちょうどふたりが歩く緑道と反対側に配された、もう一本の緑道の辺りであった。
「リュイとヨサンが、あっちの道を歩いているっていうの? えっ、腕を組んでって、あのふたり、そういうこと?」
 彼が指差す先に向けて、ドリーも青い瞳を凝らしてみる。
 それほど視力は悪くないはずのドリーだが、屋外ステージの武骨な外壁ならまだしも、その向こうには辛うじて広葉樹の列が連なっていることが認められる程度だ。さらに奥の緑道を歩く人影など、とても確かめようはない。
「腕を組んでるとかどうとか、いくらなんでもあんな遠くまで見えないよ。シンタックってそんなに目が良かったっけ」
「いや、ドリーと大して変わらないよ。見えてるわけじゃない。でもわかるんだ」
 気のせいだろうか。シンタックの言葉は、その端々から抑えきれない優越感を匂わせているように思える。
「わかるって……私にはシンタックが何言ってるのか、よくわかんないよ」
 ドリーが不審そうに眉をひそめるのを見て、シンタックの褐色の顔にはいよいよ堪えきれない笑みが吹き出した。
「ドリーには教えてあげるよ。この星の住人は、そのほとんどが精神感応的に《繋がって》る──つまりそれぞれが感じたことや考えたことを、皆で共有しているんだ」
 まるで秘中の秘を打ち明けたかのようなシンタックの態度に、ドリーはどういう顔をすれば良いのかわからない。
 満面に喜色を浮かべて、いったい彼は何を言い出すのか。当惑する彼女に構わず、シンタックは嬉々として語り出す。
「《繋がり》合った人たちは、それぞれの思念を全員で分かち合う。リュイとヨサンがあそこにいるのがわかったのも、ちょうどその側を歩く《スタージアン》がふたりを見かけたからさ」
「《スタージアン》?」
 シンタックが口にしたその言葉は、惑星スタージアの住人という意味合い以上の何かを持つように聞こえて、ドリーは思わず聞き返した。
「この星で《繋がり》合う人々をまとめて、そう呼ぶんだ」
 そしてシンタックは再び緑道を真っ直ぐに歩き出す。彼との距離が開くことになぜかしら不吉なざわめきを感じて、ドリーも慌ててその後を追う。
 緑道は森の手前で芝生の縁に沿ってカーブしていた。ちょうど曲がり始めてすぐのところに、横へと逸れるようにして森の中へと続く小径を見つけて、シンタックは迷わずにそこに向かって飛び込んでいってしまう。緑道以上に深い緑に囲まれた小径は細かくうねって、少し離れればすぐ彼の姿を見失いかねない。「待ってよ、シンタック」と呼びかけながら、ドリーは小走りでシンタックの背中を追いかける。
 そのまま小径を歩き続けて、やがてふたりは森の中に小さく開けた広場で立ち止まった。
 周囲は背の高い木々に囲まれて、広場一面に敷き詰められた煉瓦敷きの足下では、ところどころ落ち葉が乾いた音を立てる。そしてその奥にはこれも煉瓦造りの、年代物の建物が佇立していた。
 壁一面に蔦が這う様から、相当の年月を経た建造物だということがわかる。大きさはそれほどでもない建物を特徴づけているのは、屋根の上から突き出した尖塔だ。木々の背丈すら越すほどの高さのその尖塔は、きっと森の外の芝生からもよく見えるに違いない。
「記念館だよ。ここには博物院そのものの歴史が展示されている。歴代の博物院長が誰々だ、とかね」
 シンタックは広場を横切って記念館の前まで進むと、入口へと連なる石造りの階段に積もった埃を払い、その場に腰を下ろした。
「ちょっとここで休憩しようか」
 隣りに座るよう仕草で促されたドリーは、だが素直に腰掛ける気になれなかった。
 彼女の脳裏には、先ほどシンタックから告げられた台詞がぐるぐると回り続けている。ドリーが知るシンタックは好奇心の塊だが、決して人を煙に巻くような、突拍子もないことを言い出す性質(たち)ではない。その彼が何を言っているのか理解出来ないということ自体に、ドリーは戸惑いを募らせていた。
「シンタック。さっき言ってた《繋がり》とか《スタージアン》とか、あれ、なんなの?」
 極力訝しさが表情に出ないように努めながら、ドリーは尋ねた。
「言った通りだよ」
 広場の中央で立ちすくんだドリーの顔を見上げながら、シンタックはさも当然という顔で答える。
「この星の住人の大半は精神感応的に《繋がって》いる、《スタージアン》なんだ。ああ、でもまだ言葉足らずだった。とっておきはここからさ」
「とっておき?」
 既に十分驚かされているというのに、まだ何かあるのか。ますます眉をひそめるドリーに、シンタックは屈託のない笑顔を向けた。
「聞いて驚け、ドリー。《スタージアン》は大昔に《原始の民》がこの星に降り立つ、その前からの記憶を、ずっと保ち続けているんだよ! 《スタージアン》は、《原始の民》や《星の彼方》の正体まで全て記録した機械とも《繋がって》るんだ。むしろその機械こそが、《スタージアン》の原動力なのさ」
「機械に《繋がる》って、そんな」
 少年が口にした言葉に驚いて、ドリーは慌てて周囲を見渡した。リュイでなくとも眉をひそめそうな発言だ。誰かに聞かれたらと思うと気が気ではない。その様子を見てシンタックがおかしそうに笑う。
「もしかして《オーグ》みたいだなんて、君が気にするのかい、ドリー」 
「ねえ、ねえ、待って、シンタック」
 興奮冷めやらぬといった口調のシンタックに、ドリーは両手で押さえつけるような仕草で彼の語りを制した。彼女が聞きたいのは、《スタージアン》とやらの素晴らしさなどではない。
「それが本当だとして――とても信じられないけど、だとしても、シンタックには関係ないことでしょう。だってあなたは明日、私たちと一緒にミッダルトに帰るんだから」
「関係あるんだよ、ドリー」
 シンタックは困ったような笑顔で彼女の言葉を否定した。
「言っただろう、今の僕はなんでもわかるんだって。君が混乱している振りして、本当は僕の言うことを全て理解してるってこと、僕には全部わかっているよ」
「振りって――」
「でも、そうだね。ちゃんと言葉にしなければ、君も納得出来ないだろう。君も勘づいてる通りだ。僕は今、《スタージアン》と《繋がって》いる」
 そう告げたシンタックの顔は、ここ最近の思い詰めた雰囲気が嘘のように晴れやかな表情を浮かべている。
 あまりにもあっけらかんとした告白に、ドリーはその場から一歩も動けないまま、ただ呆然とするほかなかった。
 彼女を混乱させているのは、シンタックの言葉が意味するところではない。彼自身の変貌そのものだ。あのシンタックが、いったいどうしてこんな荒唐無稽なことをを口走るのか。ドリーの知るシンタックは、溢れんばかりの好奇心の持ち主ではあっても、決して夢想に耽るような少年ではなかったはずだ。
 だが父を失い、進学の道も断たれたことで、シンタックはもしかしたら――
「『――もしかしたら、追い詰められて気が触れてしまったの』」
 脳裏に思い浮かべただけのはずの考えが、彼女以外の声によって読み上げられる。
 誰の声と問いかけようもなかった。この場にいるのは彼女と、目の前で腰掛けるシンタックのほかには誰も居ない。
 目を見開いて彼の顔を見返すドリーに、少年は追い打ちをかけるように口を開く。
「『なに? どうして私の考えていることを』」
「いや……」
「『いやだ、やめて。やめて、シンタック!』」
 ドリーは目を閉じて、両耳を手で塞いで、その場にしゃがみ込んでしまった。
 なぜ、どうして彼女の考えをシンタックが口にすることが出来るのか。
 その理由をドリーは直感的に悟ったが、理性が理解を拒む。そんなわけがないと首を振る彼女に正解を突きつけたのは、シンタックの穏やかな声だった。
「君の考えている通りだよ、ドリー。《スタージアン》の精神感応力が及ぶのは《繋がる》者同士だけじゃない。《繋がらぬ》人の意識を読み取ることも、その思念に触れることも出来る」
 煉瓦敷きの床にへたり込んだまま、ドリーが青ざめた顔を上げる。額に落ちかかる金髪を透かして、視線の先にはちょうど同じ高さにあるシンタックの顔が、相も変わらず微笑をたたえていた。
「ちょっと驚かせ過ぎたかな。でも確実に信じてもらうには、こうするのが手っ取り早いと思ってね」
 そう言うとシンタックはおもむろに立ち上がり、ドリーに向かって歩き出す。
 乾いた落ち葉を踏みしめる音と共に、彼がゆっくりと近づいてくる。ドリーは青い瞳を震わせながら、その姿から視線を逸らすことが出来ない。
 やがて彼女の一歩手前で立ち止まったシンタックは、少し腰を屈めて口を開いた。
「怖がらないで、ドリー。《スタージアン》は別にヒトに害を成すわけじゃない。ただヒトの歩みを観察し、その知識を蓄えることを生業としているだけだ。〝知りたがり〟の僕が天職を見つけた、それだけのことだ」
「天職?」
「僕は《スタージアン》から、博物院生にスカウトされたんだ」
 そしてドリーの目の前に、そっと褐色の右手が差し出された。おそるおそるその手を握り返せば、掌から伝わる彼の体温がじんわりと温かい。彼女の知るシンタックとは別人になってしまったのかという錯覚は、皮膚を通して感じる温もりによって打ち消される。
 軽く手を引かれながら立ち上がって、ドリーは上目遣いに彼の顔を覗き込んだ。
「もしかしてシンタックは、ミッダルトには帰らないつもりなの」
 その問いに見返してくるシンタックの瞳は、彼女の言葉を無言のまま肯定していた。
 向かい合ったシンタックと互いの右手を握り締めながら、いつの間にかドリーは不思議なほど落ち着いていた。先ほどまであれほど取り乱していた自分が、まるで嘘のようだ。彼の言うことを反芻しても、翻意を促すような言葉すら口にする気も起きない。ありのままを受け止めてしまっている。
 ただ、その理由だけは確かめたい。脳裏に思い浮かんだその想いに、シンタックは申し訳なさそうに答えた。
「《スタージアン》は、スタージア星系から出ることは出来ないんだ。一生ね」
 そう告げるシンタックの顔には、広場を覆う枝葉の隙間から斜めに注ぎ込んだ夕陽が差し掛かって、ドリーの目にはやけに曖昧に映る。
「本当は誰にも何も言わずに、姿を消そうかと思ってた」
「……でも、私のことを待っててくれたんでしょう」
「思い直したんだ。僕のことを気に懸け続けてくれた君には、一言伝えなくちゃいけないって」
 シンタックは自分に真っ直ぐな視線を注いでいる。なのにどういうわけか、傾いた日差しがいやに眩しくて、彼の瞳をはっきりと捉えられない。
「ドリー、君は僕のことなんて気にしないで、そのまま前に進んでくれ。N2B細胞の正体も、ドリーなら突き止めるかもしれない」
「シンタック、でも、私は」
 ドリーが何か言い返そうとしたその瞬間、シンタックが握り締めていた右手をするりと離す。そしてそのまま後ろに一歩、後退った。
「ドリー、ここでお別れだ」
 シンタックはドリーと向き合ったまま、一歩ずつ距離を広げていった。その後ろには先ほどまで彼が腰掛けていた、記念館の玄関扉へと続く小階段がある。
「待ってよ、シンタック。私はもっと……」
「もし僕に会いたくなったら、またスタージアまで遊びにおいで。そうだ、そのときにはN2B細胞の秘密について教えてくれると嬉しいな。〝知りたがり〟の僕には、それが最高の土産だよ」
 言いたいことだけ早口に捲し立てるシンタックの顔が、ドリーには滲んで見える。それどころか輪郭まで揺らいで、はっきりとした姿を認めることも出来ない。
 それが彼女の目から零れ出す寸前の涙のせいだけとは、とても思えなかった。
 再び彼の右手を握り返して、引き留めなくてはいけないのに。彼を追うための一歩がどうしても踏み出せない。まるで見えざる手によって枷を嵌められているかのように、ドリーはゆっくりと離れていくシンタックをただその場から見届けている。
 せめて彼の名を今一度口にしようとして、唇を開きかけたそのとき――
「あれ、ドリー?」
 彼女の名を呼ぶ聞き慣れた声が、背後から投げかけられた。
 振り返ったドリーの目に飛び込んだのは、広場の反対側の小径から並んで現れたリュイとヨサンの姿だった。
「こんなとこでどうしたの。てっきりまだ博物院の中だと思ってた」
「一日中建物の中にいるのは、さすがに飽きたか」
 見慣れた友人たちの顔を目にした途端、不意に緊張が弛緩して、涙腺が緩む。目尻に涙を溢れさせるドリーを見て、驚いたリュイが慌てて駆け寄った。
「どうしたの、ドリー。なんかあった?」
「シンタックが……」
「シンタック? シンタックがここにいるの?」
 背後を指差すドリーの指先をたどって、リュイが記念館に目を向ける。ヨサンも一緒になって辺りを見回すが、やがて彼が口にしたのは不審そうな一言だった。
「誰もいないぜ」
 その言葉に弾かれるようにして、ドリーは背後を振り返った。
 彼女の青い瞳に映るのは、広場を囲むように生い茂る木々と、ぽっかりと空いた空間から斜めに射し込む茜色の日差し。そしてところどころ落ち葉に覆われた石畳と、その奥に聳える尖塔が特徴的な記念館だけ。
 先ほどまで彼女と共にいたはずのシンタックの姿は、その一片も見当たらない。
「シンタック……」
 もしかしたら、記念館の玄関扉が微かに開いて見えたかもしれない。だがそこに彼の名残があったとしても、ドリーにはなんの慰めにもならなかった。
 それはシンタックが彼女の前から姿を消してしまったことの証左でしかない。
 もはや少年の姿を追っても無駄であることを悟って、少女の頬を伝うように一粒の涙が零れ落ちた。
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登場人物紹介

シンタック・タンパナウェイ:第一部に登場。

ドリー・ジェスター:第一部・第三部に登場。

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