第92話

文字数 3,887文字

 すると、だ…

 「…どうして、綾乃さん、そんなことを聞くんですか?…」

 「…そんなことって?…」

 「…免許ですよ…免許?…」

 「…ああ、今、タクシーに乗っているから…」

 「…エッ? …タクシー?…」

 「…菊池さん、お金持ちだから、自分のクルマを運転して、来ると、思ったから…」

 私が、言うと、彼女は、黙った…

 「…」

 と、沈黙した…

 それを、見て、私は、

 「…あ、私が、田舎出身だから…」

 と、付け加えた…

 「…田舎出身…」

 「…クルマがなければ、生活できないところだから…」

 「…」

 「…だから、子供の頃は、皆、大人になれば、クルマの運転をすると、思っていたから…」

 私は、説明した…

 すると、

 「…珍しいですね…」

 と、彼女が、呟いた…

 「…珍しい? …なにが、珍しいの?…」

 「…綾乃さんが、子供時代のことを、語るなんて…」

 …言われてみれば、その通り…

 …その通りだった…

 私は、FK興産時代、自分の子供の頃のことに、言及したことがない…

 いや、

 FK興産時代のみならず、ナオキと知り合ってからも、一度もない…

 それは、なぜか?

 それは、矢代綾子の時代の記憶だから…

 寿綾乃の記憶では、ないからだ…

 すでに、何度も、説明したように、本物の寿綾乃は、私の従妹…

 本物の寿綾乃は、病気で亡くなり、私は、彼女になりすまして、上京した…

 それは、母の遺言による…

 本物の寿綾乃は、お金持ちの血を引く娘…

 だから、本物の寿綾乃になりすませば、莫大な財産を得ることができる…

 それが、母の遺言だった…

 が、

 本物の寿綾乃が、誰の血を引くのか?

 それは、最期まで、母は告げなかった…

 今、振り返って、考えれば、告げない方が、良いと、考えたのかも、しれない…

 なまじ、名前を告げることで、私が、本物の寿綾乃の父に接触して、ウソが、バレると、思ったのかも、しれない…

 従妹の綾乃は、決して、美人ではなかった…

 が、

 綾乃の母親は、美人だった…

 私の叔母は、美人だった…

 って、いうか…

 私の方が、従妹の綾乃よりも、叔母の娘といって、おかしくない…

 そんな感じだった…

 だから、私の母が、死に際に何度も、

 「…従妹の綾乃になりすませて、生きなさい…」

 と、言ったのは、別段、おかしなことでも、なんでもなかった…

 普通に考えれば、私の方が、美人の叔母の娘といって、おかしくもなんともない…

 ハッキリ言えば、私の方が、叔母の娘の綾乃より、叔母の娘といった方が、似合う美人だったからだ…

 また、それを、ネタにして、子供の頃に、母と叔母は、私をからかっていた…

 叔母が、冗談で、

 「…綾子ちゃんは、ホントは、私の娘なのよ…」

 と、言って、からかっていた…

 だから、母が、遺言で、

 「…従妹の綾乃になりすませ…」

 と、言ったのは、驚きでも、なんでもなかった…

 正直、驚いたのは、綾乃が、金持ちの血を引く、娘だったということ…

 そして、その金持ちというのが、他でもない、五井家の人間…

 五井家の前当主、諏訪野建造の娘だったということだ…

 そして、私は、そんなこととは、露知らず、偶然、五井家の人間と接した…

 諏訪野建造や現五井家当主、伸明と接した…

 が、

 それは、おそらく、偶然ではなかった…

 なぜ、偶然では、なかったのか?

 それは、必然…

 あらかじめ、諏訪野建造は、私を自分の娘と、知っていた?

 あるいは、そう、直感したということだ…

 それは、ナオキが、諏訪野マミと、雑誌で、対談したのが、契機だった…

 契機=きっかけだった…

 若手の経営者同士という雑誌の企画で、諏訪野マミと、ナオキが、初めて、会った…

 そのときに、ナオキの秘書である、私も、ナオキに同行した…

 そのときに、おそらく、諏訪野マミは、ピンときたに違いない…

 諏訪野マミは、建造の娘…

 建造が、正妻の昭子ではなく、外に作った娘だった…

 愛人との間に作った娘だった…

 そして、建造は、マミを溺愛した…

 おそらく、愛人の子供であるというマミの環境が、不憫だと、思ったに違いない…

 だから、人一倍、溺愛した…

 そして、おそらくは、マミに、父親の建造は、本物の寿綾乃の母の写真を見せていたのでは、ないか?

 今になって、考えれば、そう思う…

 私と叔母は、瓜二つとまでは、言えないが、だいぶ似ている…

 だから、それを、父の建造に伝えたのでは、ないか?

 その結果、他人の空似では、ないことを、突き留めた…

 私が、叔母の娘であると、突き留めた…

 そういうことでは、ないか?

 それゆえ、建造は、私に優しかった…

 驚くほど、優しかった…

 それは、自分の娘だと、誤解していれば、それも、納得する…

 私は、そう、思った…

 今さらながら、そう、気付いた…

 そして、そんなことを、考えていると、隣の菊池リンが、

 「…綾乃さんって、不思議ですね?…」

 と、言った…

 突然、言った…

 「…なにが、不思議なの?…菊池さん?…」

 「…綾乃さんって。ガツガツしていないんですよね?…」

 「…どういうこと?…」

 「…こんなことを言うと、偏見になっちゃうかも、しれないですけれど、一般のひとって、お金持ちを前にすると、余裕がなくなるんですよね?…」

 「…余裕?…」

 「…ほら、さっきも言ったように、嫉妬と羨望が、入り混じって、変な行動に出ちゃう…普通じゃ、いられなくなるっていうか…」

 「…」

 「…でも、綾乃さんには、それがない…泰然自若(たいぜんじじゃく)というか…」

 「…泰然自若(たいぜんじじゃく)…随分、難しい言葉を知っているのね…」

 私は、言った…

 もちろん、彼女をからかったわけでも、なんでもない…

 が、

 彼女は、そうは、とらなかったようだ…

 「…これでも、ちゃんと、大学を出ているんですよ…」

 彼女、菊池リンが、口を尖らせて、言う…

 私は、彼女の期限を損ねたことを、知り、

 「…ごめんなさい…そんなつもりじゃ…」

 と、詫びた…

 が、

 彼女は、

 「…これでも、一生懸命に勉強したんですよ…」

 と、口を尖らせて、言った…

 「…ほら、私は、五井家の人間だから、どこに行っても、目立つ…だから、勉強も、スポーツも、人一倍、頑張りましたよ…さもないと、陰で、なにを言われるか、わかったものじゃないから…」

 菊池リンが、憤懣やる方のない表情で、語る…

 「…綾乃さんには、わからないかも、しれませんが、お金持ちには、お金持ちの悩みがあるんです…」

 「…お金持ちの悩み…」

 「…要するに、目立つんです…芸能人じゃ、ないけれども、どこに行っても、目立つ…」

 「…」

 「…だから、どこに行っても、おおげさに言えば、逃げ場がない…」

 「…逃げ場?…」

 「…そうです…逃げ場です…どこに行っても、五井家の人間だと、バレるから、コソコソと、隠れることが、できない…」

 「…」

 「…正直、やんなっちゃいますよ…」

 彼女、菊池リンが、嘆息した…

 私は、それを、聞いて、さもありなんと、思った…

 彼女の悩みは、十分、理解できた…

 人間は、嫉妬の生き物…

 目の前に、金持ちの娘が、現れれば、誰もが、興味を持つ…

 そして、その興味には、羨望と嫉妬が、入り混じる…

 本音では、誰もが、彼女のようになりたいからだ…

 彼女のように、お金持ちの家に生まれたいからだ…

 だから、イジメが、起こる…

 自分が、絶対的に、下の人間であることが、許せないのだ…

 どんなに、頑張っても、彼女のような地位には、なれない…

 それが、わかっているから、よけいに彼女が、許せないのだ…

 もちろん、全員ではないが、ごく一部の人間は、彼女が、なにも、しなくても、彼女に反感を持つ…

 そういうことだ…

 だから、彼女は、隙を見せらない…

 隙を見せれば、その隙を見て、相手が、なにか、仕掛けてくるからだ…

 それゆえ、彼女は、学生時代、勉強もスポーツも頑張ったのだろう…

 要するに、五井家という金持ちの家に生まれたばかりに、生まれながらに、プレッシャーが、かかる…

 そういうことだろう…

 これは、有名人の息子や娘でも、同じ…

 芸能人や政治家の息子や娘でも、同じだ…

 私は、思った…

 私は、考えた…

 と、

 そんなことを、考えていると、

 「…着きました…」

 と、菊池リンが言った…

 「…そう…」

 私は、答えて、タクシーを降りようとした…

 が、

 そこは、ホテルでは、なかった…

 五井記念病院だった…

 今日の午前中に訪れた五井記念病院だった…

 私は、タクシーを降りて、呆気に取られた…

 まさか?…

 まさか、五井記念病院に、戻って来るとは、思いもよらなかったからだ…

 「…これは、どういうこと?…」

 思わず、呟いた…

 私は、タクシーに乗りながらも、外の景色は、まったく見ていなかった…

 彼女とのおしゃべりに、夢中で、見ていなかった…

 いや、

 おしゃべりに、夢中だっただけではない…

 実は、体調も心配だったのだ…

 体調は、別に、今は、問題はなにもないが、いつ、どうなるか、わからない…

 そんな不安があった…

 これは、例えれば、カラダの中に、爆弾を抱えているようなもの…

 いつ、なんどき、爆発するか、わからない…

 そんな不安がある…

 だから、おしゃべりしながらも、心は、体調にあった…

 私の体調にあった…

 が、

 さすがに、それは、言い訳にできなかった…

 極論すれば、窓の外を見るだけ…

 それだけのことを、怠ったのだ…

 これは、さすがに、言い訳できなかった…

 失態といえば、あまりにも、失態…

 情けないほどの、失態だった…

               
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