第93話

文字数 5,196文字

 「…これは、どういう…」

 私は、繰り返した…

 「…これは、一体、どういうこと?…」

 何度も、繰り返した…

 すると、タクシーを降りた、菊池リンが、

 「…綾乃さんって、案外トロいんですよね…」

 と、答えた…

 「…しっかりしているように、見えて、案外トロい…ひとは、見かけじゃ、わかりませんね…」

 菊池リンが、笑う…

 私は、言葉もなかった…

 「…」

 と、言葉もなかった…

 事実、その通りだったからだ…

 タクシーの移動中、外を見ることもまったくなかった…

 私は、てっきり、都内のどこかのホテルに向かっているものだと、ばかり、思っていた…

 彼女、菊池リンが、これから、ナオキの潜伏するホテルに向かうと言っていたからだ…

 だから、その言葉を疑うことなく、信じていた…

 まさに、バカの極み…

 彼女、菊池リンが、信用の置けない人物であると、思いながらも、彼女の言葉を信じていた…

 考えてみれば、これほど、愚かなことはない…

 なぜなら、彼女は、信用ができないと、考えていたにも、かかわらず、彼女を信用したのだ…

 これは、ありえないこと…

 普通に考えれば、ありえないことだからだ…

 だから、やはり、病気のせい…

 癌のせい?

 とも、思った…

 いや、

 そればかりとも、いえない…

 要するに、自分が、トロいのだ…

 しっかり者の寿綾乃…

 そう、周囲から見られているが、それは、あくまで、周囲から、見られているだけ…

 実際は、それほどでもない(笑)…

 それほど、しっかりしていない(笑)…

 ただ、周囲の人間が、そう思っているだけ…

 それが、真実…

 それが、現実に他ならない…

 これは、誰でも、そうだろう…

 とりわけ、芸能人が、そう…

 いわゆる、本来の自分とは、違う、別の人格で、売っている…

 極端な例で言えば、男関係に奔放だった女が、処女を演じている…

 これまで、男のひとと一度も付き合ったことがないことをウリにしている…

 そんな例は、枚挙にいとまがない…

 それと、私は、同じ…

 私、寿綾乃と同じだ…

 要するに世間で、知られた私と、実際の私にギャップがある…

 そういうことだ…

 私は、事実、そんなにしっかりしていないし、頭も決して、よくもない…

 ただ、周囲の人間は、そう見ない…

 私をしっかりしていると、見ている…

 私をしっかり者のお姉さんと見ている…

 正直、私自身は、全然、そう思っていない(笑)…

 ただ、周囲の人間が、そう見ているに過ぎない…

 そして、以前は、なぜ、周囲の人間が、そう、見ているのか? 

 不思議だった…

 何度も言うように、私は、全然、しっかりしていないからだ…

 だから、不思議だった…

 が、

 歳をとって、わかった…

 要するに、見た目…

 ただ、しっかりしていると、周囲に見られる雰囲気を、まとっているに、過ぎないことに、気付いた…

 そして、見た目と中身とは、違う…

 例えば、頭の良さ…

 正直、東大を出たエリートでも、ひとをまとめられない人物は、いる…

 要するに、ひとをまとめる才能が、ないのだ…

 そして、そのひとをまとめる才能と、頭の良さとは、別物…

 まったくの別物だと、歳をとって、気付いた…

 簡単に言えば、初対面の十人が集まり、その中から、誰かが、リーダーとなって、残りの9人をまとめる…

 では、そのリーダーが、その十人の中で、一番頭が良いかといえば、それは、決して、当てはまらない…

 それが、一番、よくわかるのは、学生時代を思い出せば、いい…

 学生時代は、極端に言えば、全員平等…

 会社ではないのだから、課長も部長もないからだ…

 だから、平等なのだが、それだから、クラスで、一番頭がいい人間が、そのクラスをまとめられるかと、言えば、それは、違う…

 当てはまらない…

 そういうことだ…

 が、

 それが、わからない人間は、世の中に、案外多い(苦笑)…

 もちろん、若いときに、わからないのは、いいが、それが、30歳、40歳と、歳を取っても、わからないのは、周囲の苦笑を買う…

 正直、陰で笑われる…

 そして、大抵の場合、ひとを束ねられる人間は、ただ、堂々として、頼りがいがある場合が、大半…

 要するに、見た目で、選んでいる…

 見た目で、判断している(爆笑)

 だから、ひとをまとめられると、周囲に判断されるのだが、本当は、自分が、自分をどう思っているか、当人に聞かねば、わからないものだ(苦笑)…

 だから、会社に入って、周囲をまとめれば、最初は、自分も出世できるのでは?

 と、誤解するものも、いる…

 が、

 大抵は、誤解しているだけ…

 それは、時間の経過と共にわかる…

 当たり前だ…

 そして、私の場合は、それが、続いたのは、正直、ナオキの右腕だったから…

 FK興産社長の藤原ナオキの右腕として、ナオキのそばにいたから…

 ナオキの社長秘書として、そばに、仕えていたから…

 だから、社内で、しっかり者のお姉さんと見られていたことが、大きい…

 ハッキリ言えば、ナオキの愛人と見られていたのだ(爆笑)…

 だから、社内で権力がある…

 私は、そんなことは、露ほども思っていないが、私に睨まれれば、社内で、身の置き所がなくなる…

 そんな噂が、私の耳に入ったこともある…

 社長の愛人だから、気をつけろ!と、言うことだろう…

 私は、最初、その噂を聞いたときは、驚いたが、それも、最初だけ…

 最初だけだ…

 正直、ナオキとは男女の関係にあったことも、あったが、それは、遠い昔…

 ただ、私とナオキは、ウマが合った…

 それが、なにより大きい…

 そして、ナオキは、私を信頼してくれた…

 私を信用してくれた…

 これが、一番…

 だから、私とナオキの関係を見て、会社の人間は、私に逆らっては、まずいと、判断したに違いない…

 私に逆らえば、社長のナオキに言いつけ、クビにされるとでも、思ったに違いない…

 が、

 それは、事実…

 まぎれもない事実だった…

 正直、男と女を比べれば、女の方が鋭い…

 男のナオキが、わからないことも、女の私は、気付いた…

 正直、なにに気付いたかといえば、人間性…

 例えば、裏表のある人間は、ダメだということだ…

 それなりに、仕事ができても、陰でなにをやっているか、わからない…

 世の中には、そんな人間は、ごまんといる…

 あるいは、少額でも、会社の金を使い込んだり…

 そこまで、いかなくても、他人の手柄をさも、自分の手柄のように、振る舞う人間も少なからずいる…

 具体的には、なにも関係がないにもかかわらず、誰かが、うまくいくと、アレは、オレが教えてやっただのと、吹聴する人間が、少なからずいる…

 私は、正直、そんな人間が、大嫌いだったし、ナオキもまた、それは、同じだった…

 だから、それに、気付いた場合は、躊躇なく、ナオキに伝え、クビにしないまでも、閑職に追い込んだ…

 自分から辞めてもらうためだ…

 が、

 そんなことが、何度か続くと、それが、噂になり、おおげさに言えば、社内で、伝説になる(苦笑)…

 だから、余計に私が、社内で大きな力を持っていると、思われたに違いない…

 私は、思った…

 私は、考えた…

 そして、私が、そんなことを、考えている間に、スタスタと、菊池リンは、五井記念病院の入り口に向かって、歩き出していた…

 そして、私を振り返り、

 「…なにをしているんですか? …綾乃さん…先に行っちゃいますよ…」

 と、叫んだ…

 私は、

 「…ごめんなさい…」

 と、言って、小走りに歩き出した…

 
 勝手知ったる、五井記念病院…

 なにしろ、今日の午前中にも、やって来た…

 さらに言えば、半年以上前には、入院していた…

 ジュン君の運転するクルマにはねられたためだ…

 その後遺症もあり、検査のために、今日の午前中も、この五井記念病院にやって来た…

 長谷川センセイに診てもらうためだ…

 その長谷川センセイが、五井一族だと知ったときは、仰天したが、それ以上に仰天したのが、長谷川センセイの姉が、五井長井家に嫁いでいること…

 長谷川センセイの実姉が、五井長井家に後妻に入っていることだった…

 これは、驚き…

 まさに、驚き以外になかった…

 が、

 そんなことを、考えている間にも、菊池リンは、スタスタと、前を歩いていた…

 私は、彼女に遅れまいと、小走りに、彼女を追った…

 そして…

 そして、彼女の行き先は?

 ある意味、予想通りというか…

 以前、訪れた、伸明が、いる部屋だった…

 伸明が、隠れている病室だった…

 入口には、以前もいた、屈強なボディーガードの男が、二人いた…

 そして、私と、彼女、菊池リンを見ると、驚いた様子だった…

 いや、

 菊池リンを、見て、驚いたのでは、ない…

 私を見て、驚いたのだ…

 私、寿綾乃を見て、驚いたのだ…

 まさか、私が、菊池リンと、いっしょに、やって来るとは、考えても、いなかったに違いない…

 思っても、いなかったに違いない…

 「…伸明さんは、いますか?…」

 と、菊池リンは、聞いた…

 当然、その質問に、ボディーガードたちは、

 「…います…」

 と、答えると、思った…

 が、

 意外にも、二人のボディーガードは、無言で、首を横に振った…

 つまり、いないと言ったわけだ…

 これは、予想外…

 まさに、予想外の事態だった…

 私は、一体、どうするのだろう?

 と、思った…

 当然、菊池リンは、この部屋に、伸明がいると、思って、私を連れてきた…

 そう、思ったからだ…

 だから、どうするのか?

 帰るのか?

 それとも?

 彼女が、どうするのか?

 興味津々だった…

 興味津々で、彼女を見守った…

 が、

 彼女の行動は、予想外…

 まさに、予想外だった…

 いきなり、

 「…ウソを言わないで!…」

 と、大声で、怒鳴ったのだ…

 これには、私も、驚いた…

 そして、おそらく、私以上に、この大柄なボディーガードの二人の男たちは、驚いたに違いない…

 なにしろ、菊池リンは、愛らしい…

 菊池リンは、可愛らしい…

 そして、頼りない…

 男でも、女でも、誰もが、一目見て、彼女を守ってあげたくなる…

 そんな外見をしている…

 そんな彼女が、大声で、

 「…ウソを言わないで!…」

 と、怒鳴るものだから、驚かないはずが、なかった…

 彼女を知っている私自身、驚いた…

 すでに、彼女、菊池リンが、これまで、私に見せてきた姿が、あくまで、演じていたものとは、わかっていた…

 にも、かかわらず、驚いた…

 いかにも、可愛らしい彼女の外見と、怒鳴る姿は、合わなかった…

 実に、合わなかった…

 それは、大げさに、言えば、彼女が、五井家の娘ではなく、ヤクザの娘だと、言っているようなもの…

 彼女の愛くるしいルックスと、真逆の行動だったからだ…

 そして…

 そして、だ…

 眼前のボディーガード二人は、私以上に、驚いていた…

 自分より、十歳以上は、優に若い、年下の、愛くるしいルックスの女のコが、いきなり、怒鳴るものだから、どうしていいか、わからない、様子だった…

 だから、屈強な男たち二人が、顔を見合わせて、いた…

 どうして、いいか、わからず、互いに、思わず、顔を見合わせたに違いない…

 どっちかが、答えを出す…

 思わず、そんな期待をしたのかも、しれない…

 が、

 当然、どうして、いいか、わかるはずも、なかった…

 すると、

 「…中に通して!…」

 と、彼女が、怒鳴った…

 そして、怒鳴りながら、部屋に入ろうとした…

 ボディーガード二人は、慌てて、

 「…それは、困ります…」

 と、言って、彼女を制止した…

 すると、彼女が、

 「…私を誰だと思っているの? さっさと、中に通しなさい!…」

 と、叫んだ…

 まさに、ありえない…

 ありえない行動だった(爆笑)…

 私は、あまりの展開に、どうしていいか、わからなかった…

 ただ、口をポカンと、開けて、バカみたいな表情で、事態の展開を見守っていた…

 しかも、その事態は、さらに、続いた…

 「…ダメです!…」

 屈強なボディーガードの男たち、二人が、彼女、菊池リンの侵入を阻む…

 それを、

 「…中に入れなさい!…」

 と、言いながら、無理やり、部屋に入ろうとする…

 もはや、コントだった…

 もはや、コント=お笑いだった…

 160㎝足らずの菊池リンが、180㎝は、優に超える大男を相手に、勝ち目が、ないにも、かかわらず、部屋の中に入ろうとする…

 これが、コントでなく、なんだと言うんだ?

 私は、思った…

 私は、考えた…

 すると、突然、部屋の中から、ひとが、やって来た…

 あまりにも、騒ぐので、なにが、あったのか?

 心配になったのだろう…

 私は、当然、伸明が、出て来たと、思った…

 この部屋には、伸明が、身を隠しているのだから、当たり前だった…

 が、

 出て来た人物を見て、驚いた…

 出て来たのは、ナオキ…

 FK興産社長の藤原ナオキだった…

               
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み