第16話

文字数 4,409文字

 しかし、

 しかしだ…

 今、思ったことは、これまで、考えたことのないことの連続だった…

 ユリコについても、ジュン君についても、これまで、考えたことのない、連続だった…

 そして、それを、思えば、妙に疲れてきた…

 突然、疲労が、襲ってきたというか…

 ドッと、疲れが出た…

 そして、それが、表情に出たのだろう…

 「…どうしたの? …綾乃さん…随分、疲れた顔をしているよ…」

 「…そう…」

 私は、短く言った…

 事実、急激に疲れてきた…

 変な話だが、疲労困憊…

 なにも、していないにも、かかわらず、疲れた…

 話題が、ユリコさんだったからかも、しれない…

 私の天敵のユリコさんだったからかも、しれない…

 私は、たしかに、ユリコさんから見れば、絶対許せない女…

 ユリコさんの夫のナオキを寝取り、ユリコさんの息子のジュン君とも、何度か、男女の仲になった…

 ずばり、関係した…

 だから、ユリコさんの立場から、見れば、なにが、あっても、許せる女ではない…

 が、

 それを、抜きにしても、ユリコは、私を嫌っていたに違いない…

 夫と息子を私に盗られたことを、抜きにしても、私を嫌っていたに違いない…

 別に、これは、理由はない…

 ただ、嫌いなのだ…

 ただ、虫が好かないのだ…

 誰でも、そうだろう…

 一目見て、気に入らない人間というのは、間違いなく、この世の中に、誰もが、いるものだ…

 それが、ユリコさんに、とっての私…

 そして、私にとっては、ユリコさんだった…

 これは、もう直観というか…

 初めて会ったときから、ただ虫が好かない…

 初めて、会ったときから、ただ相手が気に入らない…

 そういうことだ(笑)…

 そこに、理由などない…

 ただ、嫌いなのだ…

 ただ、相手の存在が許せないのだ…

 私が、そんなことを、考えていると、ナオキが、

 「…今日、ボクは、この家に泊まっていくよ…」

 と、いきなり、言った…

 私は、驚いた…

 いや、

 このマンションは、ナオキの名義のマンション…

 このマンションのオーナーは、ナオキだ…

 だから、ホントは、驚くことは、ないのかも、しれないが、ナオキが、この家に泊まることは、もう随分、昔…

 随分、昔に、このマンションから、出て行った…

 女遊びが、盛んだったからだ…

 女を、どこかに、連れ込むには、自分の自宅が一番…

 その自宅に、私やジュン君がいるのは、マズい…

 だから、ナオキは、私やジュン君の住む、マンションとは、別のマンションを購入して、そこに、一人で、住んだ…

 それ以来、ナオキが、このマンションに来ることは、滅多になかった…

 まして、泊まるなど、なかった…

 だから、驚いたのだ…

 「…どうしたの? …綾乃さん?…」

 と、ナオキが、不思議そうに、聞いた…

 「…まるで、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているよ…」

 「…鳩が豆鉄砲を食ったよう…」

 その言葉に、思わず、吹き出した…

 イマドキ、そんな言葉は、聞いたことがないからだ…

 だから、吹き出した…

 「…なに、綾乃さん…なにが、おかしいの?…ボクは今、なにか、面白いことを、言った?…」

 「…だって、ナオキ…アナタ…鳩が豆鉄砲を食ったようなんて、言葉…イマドキ、誰が使うの?…」

 私が、言っても、ナオキは、たじろがなかった…

 「…綾乃さん…ボクは、もう四十を過ぎたオジサンだよ…」

 「…オジサン?…」

 「…そんなオジサンが、今さら若ぶっても、仕方がない…現実を受け入れなきゃ…」

 「…ということは、私も、オバサンね…」

 「…綾乃さんもオバサンって?…」

 「…私も32歳…若い子から、見れば、十分、オバサンよ…」

 「…それは、若い子から、見るからだよ…ボクから、見れば、綾乃さんは、若い…なにより、今でも、十分、魅力的だ…」

 「…今でもって? …まるで、賞味期限切れ間近みたいな言い方ね…」

 「…賞味期限って?…」

 「…私の女としての魅力よ…」

 「…綾乃さんの魅力って?…」

 「…私に魅力がないとでも、言うの?…」

 「…もしかして、その気の強さ?…」

 「…なんですって? …私のどこが、気が強いの?…」

 「…強いよ…だって、強くなければ、あのユリコと、闘うことは、できないだろ?…」

 ナオキが、笑った…

 実に、楽しそうに、笑った…

 私は、それを、見て、一気に悔しくなったというか…

 ソファに座る、ナオキの前に行って、

 「…もう一度、言ってみなさい!…」

 と、ナオキに、言った…

 「…なにを言うの?…」

 「…私の魅力よ…」

 「…綾乃さんの魅力?…」

 「…そうよ…」

 私が、言うと、ナオキは、いきなり立ち上がって、私を抱きしめた…

 「…ナオキ…アナタ…いきなり、なにを?…」

 「…これが、綾乃さんの魅力…綾乃さんの存在意義…」

 「…存在意義?…」

 「…ボクが、こうして、今、綾乃さんを抱き締められる…だから、こうして、ボクに抱き締められるために、綾乃さんは、存在する…それが、綾乃さんの強み…」

 「…ナオキに抱き締められるために、いるのが、私の強みって? …随分、上から目線ね…」

 「…そう、上から目線…だって、ボクは綾乃さんより、背が高いでしょ?…」

 と、言って、笑った…

 もちろん、ナオキが、冗談を言っているのは、わかった…

 「…おまけに、このマンションのオーナー…それを今、綾乃さんに住まわせている…だから、こうして、綾乃さんを抱き締めることが、できる…」

 「…私を抱き締めるのに、こんな豪華なマンションに住まわせるなんて、贅沢…」

 「…贅沢って?…」

 「…だって、女一人抱き締めるだけのために、住まわせるなんて…」

 私が笑うと、ナオキは、

 「…いや、これでいい…」

 と、真剣な表情になった…

 「…どうして、これで、いいの?…」

 「…綾乃さんが、存在するだけでいい…」

 「…存在するだけって?…」

 「…生きているだけでいい…」

 「…」

 「…抱き締めるだけで、綾乃さんが、いることが、わかる…」

 しみじみ言った…

 私は、それを、聞いて、

 「…」

 と、絶句した…

 そして、もしかしたら?

 もしかしたら、私のカラダは、私が、思っている以上に、悪いのかも、と、気付いた…

 それが、おおげさに言えば、死相が出ているというか…

 表情に、疲れが出ているのかも、しれない…

 だから、まだ、私が生きていることを、確かめるために、ナオキは、私を抱き締めた…

 まだ、生きていることを、確かめるためだけに、私を、抱き締めた…

 そう、気付いた…

 「…ナオキ…」

 「…なに? 綾乃さん?…」

 「…こうして、二人で、抱き合うと、昔に戻ったみたい…」

 「…昔?…」

 「…私が、まだ女子高生で、ナオキが、まだ、成功する、ずっと前に戻ったみたい…」

 私が、言うと、ナオキは、

 「…」

 と、黙った…

 だから、私は、ナオキが、どうしたのか?  と、思って、ナオキを見上げた…

 ナオキは、実に、複雑な表情をしていた…

 「…どうしたの? …ナオキ?…」

 「…いや、これまでのボクの人生を振り返って…」

 「…」

 「…ボクと綾乃さん…そして、ユリコ…いっしょにいたときが、はるか、遠くに感じる…」

 ナオキが、言った…

 「…そして、今は、敵、味方…」

 「…敵、味方?…」

 「…ユリコと綾乃さんは、敵対しているでしょ?…」

 「…」

 「…人生は、摩訶不思議…こんな展開になるとは、あのとき、考えもしなかった…」

 ナオキが言った…

 実に、意味深…

 意味深だった…


 そして、その夜、ナオキが、私のマンションに泊まった…

 実に、久しぶり…

 いつ、以来だろう?

 覚えていないぐらい前…

 前回、いつ泊まったのか?

 忘れるぐらい前だった…

 そして、なぜ、ナオキが、今日、このマンションに泊まりにやって来たか?

 あらためて、考えた…

 それは、やはり、私の身が、心配だったのだろう…

 そう、思った…

 私は、癌の治療のために、オーストラリアに行った…

 日本では、まだ認められていない、放射線の治療をするためだ…

 が、

 やはり、癌は、治らなかった…

 癌は、完治しなかった…

 あらかじめ、その放射線治療でも、癌が、治る場合と、治らない場合があると、事前に、説明を受けた…

 そして、私の場合は、後者…

 治らないだった…

 が、

 以前と比べれば、大分良くなった…

 しかし、完治は、していない…

 それを、知ったナオキは、私が、心配で、このマンションに駆け付けた…

 それが、真相だろう…

 ナオキは、私が、好き…

 私を愛している…

 それが、実に、わかる行動だった…

 だから、私も、

 「…どうして、今日、やって来たの?…」

 なんて、野暮なことは、聞かない…

 もう、十年以上の付き合いだ…

 互いの行動や、思考は、よくわかっている…

 いまさらだ…

 そして、今日、ナオキは、このマンションに、泊まったにも、かかわらず、私を求めてくることは、なかった…

 もはや、ナオキにとっては、いみじくも、さっきナオキ自身が、言ったように、私が、ここに存在すること自体が、嬉しいのだろう…

 私が、まだ、この世に存在している…

 それを確かめるために、やって来た…

 それが、真相だろう…

 そして、それを、思うと、自分は、実に、幸せな女だと、気付いた…

 ナオキとは、結婚していない…

 もはや、カラダの関係もないに、等しい…

 が、

 ナオキは、誰よりも、私を愛している…

 それが、私にも、痛いほど、わかる…

 そして、こんなに、自分を愛してくれる男と出会ったのは、幸運…

 実に、幸運だった…

 男女が、出会い、同棲したり、結婚したりする…

 が、

 その愛情が、長く続くことは、稀…

 出会った当時と同じぐらい互いが、好きなことは、滅多にない…

 大抵は、ただ、いっしょに、過ごす、ただの同居人になる…

 が、

 ナオキは、違った…

 あっちの女、こっちの女と、さまざまな女を渡り歩いていたが、ナオキにとって、私は、別格…

 別格の存在だった…

 そして、それは、私も同じと言いたいところだが、微妙だった(笑)…

 なぜなら、私もまた、ナオキという存在があるにも、かかわらず、諏訪野伸明に惹かれているからだ…

 独身の五井家当主に、惹かれているからだ…

 だから、それを、思えば、同じ…

 私とナオキは、同じ…

 れっきとした、似た者同士…

 パートナーが、いるにも、かかわらず、別の異性に惹かれる…

 ただ、私の場合は、まだ関係していないが、ナオキの場合は、関係している…

 その違いだけ…

 大差はない…

 だから、もしかしたら、これまで、私とナオキは、うまく、やってきた…

 互いに、似た者同士だから、うまく、やってきた?

 いや、

 それ以前に、互いに気が合うのだろう…

 互いにウマが合うのだろう…

 そう、思った…

 そして、私は、ただ、そんなナオキと知り合うことができた僥倖を喜んだ…

 天に感謝した…

               
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