第89話

文字数 3,398文字

 この菊池リンは、あどけない顔に似合わず、その素顔は、狡猾…

 実に、狡猾だ…

 が、

 頭がいい…

 だから、頭の悪い人間より、はるかにマシ…

 わけのわからないことを、言わないからだ…

 だから、マシ…

 そう、思った…

 そして、私が、そんなことを、考えていると、

 「…寿さん…相変わらず、おキレイ…美人ですね…」

 と、私を持ちあげた…

 それから、

 「…でも、ちょっと、以前より、痩せたかな…」

 と、付け加えた…

 私は、それを、聞いて、

 …やっぱり…

 と、思った…

 頭のいい、彼女のことだ…

 私が、五井記念病院から、戻ってきたことを、自分は、知っていると、暗に仄めかしたのだろう…

 私は、そう見た…

 私は、そう睨んだ…

 だから、

 「…そうね…最近、いろいろあって…」

 と、だけ、言った…

 なにしろ、私が、オーストラリアまで行って、おこなった、癌の治療の費用は、五井家から、出ている…

 具体的には、この菊池リンの祖母、諏訪野和子が、私の癌の治療費を、五井家が負担すると、言明したのだ…

 だから、孫の菊池リンが、そのことを、知らないはずが、なかった…

 すると、菊池リンが、

 「…そうですね…たしかに、いろいろありました…」

 と、笑いながら、言った…

 実に、楽しそうに、言った…

 私は、彼女のその笑いを見て、

 …なんて、かわいらしい…

 と、思った…

 とてもではないが。この愛くるしい顔の中に、その顔と真逆のどす黒い素顔を隠しているとは、微塵も思えなかった…

 いや、

 だからこそ、この笑顔に騙されては、いけない…

 この愛くるしい笑顔に、惑わされては。ダメ!

 そう、自分自身に、きつく、言いきかせた…

 そうでなければ、油断する…

 つい、警戒心を緩めて、しゃべっては、いけないことを、しゃべってしまう…

 そんな危険があったからだ…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…綾乃さん…外で、お茶しませんか?…」

 と、彼女が、いきなり、言った…

 「…お茶?…」

 私は、つい、彼女の言葉をオウム返しに繰り返した…

 「…そうです…お茶です…なんのために、こんなところで、綾乃さんを、待っていたと、思っているんですか?…」

 彼女、菊池リンが、口を尖らせて言う…

 私は、彼女の言うことは、もっともだと、思ったが、正直、彼女と付き合うのは、ゴメンだった…

 なにより、彼女が、その見せかけとは、違って、狡猾な女であることが、一番…

 また、私自身、五井記念病院から、帰って来て、疲れていたこともある…

 一刻も早く、自室に戻って、ベッドの上で、横になりたかった…

 別に、寝たいわけでも、なんでもない…

 ただ、ベッドに横になって、くつろぎたかった…

 だから、

 「…ごめんなさい…菊池さん…実は、今、病院から帰って来たところなの…」

 と、まずは、言った…

 続けて、

 「…実は、最近、カラダの調子が悪くて、今も一刻も早く、自室に戻って、ベッドの上で、横になりたいの…」

 と、言った…

 実は、言うほど、体調が悪いわけでも、なんでもない…

 ただ、そう言えば、彼女が、諦めると、思ったからだ…

 諦めて、この場を去ると、思ったからだ…

 だから、

 「…ホントに、ごめんなさい…」

 と、ダメ出しした…

 そう言えば、さすがに、彼女も帰ると、思ったからだ…

 が、

 彼女は、諦めなかった…

 「…だったら、綾乃さんの部屋で、お話しましょうよ…綾乃さんが、具合が、悪いなら、ベッドに横になっていても、構いませんよ…」

 と、言い出した…

 これには、驚いた…

 まさか、そんなことを、言われるとは、思わなかった…

 当たり前だが、婉曲に断ったつもりだった…

 それが…

 当然、私の言葉の意味は、わかっている…

 彼女は、バカではないからだ…

 にもかかわらず、この言動…

 厚かましいというか…

 ずうずうしいというか…

 今さらながら、彼女の本性を見た気分だった…

 「…いいでしょ? 綾乃さん?…」

 彼女が、屈託のない笑顔で、続ける…

 が、

 私は、断った…

 「…ごめんなさい…今日は…」

 と、だけ言った…

 これ以上、押し問答を続けるつもりもなかった…

 さっさと、このマンションのエントランスから、出て行ってもらいたかった…

 だから、言った…

 わざと、言った…

 すると、さすがに、彼女も、

 「…わかりました…」

 と、引き下がった…

 「…時期が悪かったですね…」

 と、続けた…

 「…ええ、ごめんなさい…」

 と、私は、言った…

 「…今度、時間があったら、お茶しましょう…」

 ホントは、彼女とお茶するつもりなど、まったくなかった…

 これっぽっちもなかった…

 彼女は、狡猾…

 見かけとは、違って、実に、狡猾な人間だ…

 そんな人間と、関わるのは、ゴメンだった…

 これは、誰もが、いっしょ…

 誰もが、同じだろう…

 私は、女だから、まだ、彼女を冷静に見れる…

 彼女、菊池リンという女を冷静に判断できる…

 が、

 さすがに、異性では、難しいだろう…

 異性=男では、難しいだろう…

 とりわけ、若い男では、難しいだろう…

 どうしても、見た目に騙される…

 見た目=ルックスに騙されるからだ…

 だから、そんな男は、いっしょに、暮らして、初めて、菊池リンの本性を知る…

 こんな女だったんだと、初めて、本性を知る…

 そういうことだ…

 私は、思った…

 私は、考えた…

 そして、目の前の菊池リンに、追い打ちをかけるように、

 「…ホントに、ごめんなさい…」

 と、繰り返した…

 もう、何度言ったか、わからないが、同じ言葉を繰り返した…

 すると、だ…

 菊池リンが、突然、

 「…FK興産の件、残念でしたね…」

 と、言った…

 私は、一瞬、心の中で、

 …エッ?…

 と、呟いた…

 口にこそ、しないが、呟いた…

 まさか、ここで、FK興産の名前が、出るとは、思わなかったからだ…

 だから、驚いて、彼女を見た…

 菊池リンを見た…

 彼女は、笑っていた…

 実に、楽しそうに笑っていた…

 きっと、私が、彼女の予想通り、驚いて、彼女を見るのが、嬉しかったのだろう…

 自分の思い通りになって、嬉しかったのだろう…

 が、

 私は、それが、悔しいというか…

 彼女の思い通りになって、たまるか!

 と、いう気持ちになった…

 だから、

 「…ええ…よかったわ…」

 と、言った…

 わざと、言った…

 もちろん、彼女、菊池リンにとっては、私の言葉は、青天の霹靂(へきれき)…

 思っても、見ない言葉に違いない…

 彼女は、慌てて、

 「…どうして、よかったんですか?…」

 と、聞いてきた…

 当たり前のことだ…

 「…だって、それは、会見で、社長が、おっしゃってたでしょ?…」

 「…社長が?…」

 「…FK興産の社長、藤原ナオキが、これからは、五井に経営指導してもらって、会社の業績を改善すると…」

 「…」

 「…所詮、FK興産は、ベンチャー企業…正直、会社の経営は、素人…五井が、資本参加して、経営を助言してもらえば、業績は、改善するでしょ?…」

 「…」

 「…だから、よかったじゃない?…」

 私は、言った…

 思っても、みないことを、言った…

 考えても、みないことを、言った…

 いわば、口から出まかせ…

 わざと、彼女の言葉に、反論したのだ…

 すると、だ…

 彼女は、最初こそ、呆気に取られた顔をしたが、すぐに、

 「…綾乃さんは、悔しくないんですか?…」

 と、私に食ってかかった…

 まさに、彼女の本性が出た瞬間だった…

 普段、ヘラヘラと愛想のいい、顔と真逆の素顔が出た瞬間だった…

 勝気な素顔が出た瞬間だった…

 そして、そんな勝気な素顔を目の当たりにして、ふと、和子の顔が、脳裏に浮かんだ…

 五井の女帝の素顔が、脳裏に浮かんだ…

 この菊池リンは、あの和子の孫…

 血を分けた孫だ…

 勝気でないはずが、なかった…

 気が弱いはずが、なかった…

 当たり前だった…

 そして、これこそが、五井一族…

 400年の歴史を持つ、五井一族の血なのでは、ないか?

 ふと、思った…

 だからこそ、400年の長きに渡り、この国の上流階級に位置している…

 当たり前だが、こんなことは、普通は、ありえない…

 誰にも、できることではない…

 が、

 それが、できるのは、血…

 優秀な血に他ならない…

 400年と、延々と長きに渡る、人並み外れた優秀な血に他ならない…

 私は、思った…

 私は、考えた…

               

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