隣のおっちゃん

文字数 7,133文字

 「おるの分かっとんねんぞボケ!!出てこんかいや」
 外の怒鳴り声で目が覚めた。どうやら隣人の客らしい。
 先ほどから大層お怒りのご様子だが、この客人は怒鳴るだけでは飽き足らずアパートの薄いドアを割れんばかりに叩いている。一体今何時なのかと思って右手を泳がせて携帯を確認すると、時刻は10時半過ぎだった。
 「勘弁してぇな」
 昨日はケンジたちと朝まで飲んでいて帰ったのが朝5時だった。散々酔っぱらってそのまま布団の上にぶっ倒れたが、昔から眠りの浅い俺はちょっとした物音でも目が覚めてしまう。布団を頭から被って雑音の遮断を試みるも、ちっとも効果が無い。しかししばらく耳を澄ますも一向に収まる気配が無い。というか、今度はガツンゴツンと何らかの道具でドアを叩いているようで、その金属音が激しく神経に触る。どうしたもんかなと思ってしばらくもぞもぞと布団の中で(うごめ)いてみる。だがそういう努力があまり意味がないことを俺はよく知っていたのだ。
 彼らは所謂、督促業者という人種の人々だ。平たく言うと借金取り。お金を借りて何時までも返さないでいると彼らのようなガラの悪い人たちが直接自宅にご来訪される。お金を貸す会社と督促業者は違う会社の場合が結構ある。幾度かの催告にも関わらず返済の意思が見られない顧客に対して、督促業者に依頼して債権の回収を図るというのが基本的な業務の流れだ。今回の場合も同様だろう。てか、共同便所、風呂無し1.5万なんてとこに住んでる住民なんて俺も含めて六でも無い連中ばかりだ。だからこういう風景は日常茶飯事、入居した当初はおっかねーなぁなんて肝が冷えたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。だが慣れはしたが、(わずら)わしいには違い無い。なんとかならんかなと思って一寸思案した後、俺は自室のドアをちょっぴり開けて外の様子を伺ってみた。
 ちょっぴり開けたドアの隙間からお隣さんを覗いてみると、其処にはガラの悪いスーツに身を包んだ如何にもって感じの二人組が隣人の部屋の玄関ドアを睨みつけていた。一人は鉄パイプを右肩に乗せて肩で風を切って、ドアに近づいたり離れたりしながら大声を張り上げている。もう一人の方はその後ろでゆっくりと煙草をくゆらせて事態を静観していた。所謂脅し役と(なだ)め役だ。やってる事は警察の取り調べとあまり変わらない。人の心を揺り動かすにはこの配役が最適らしかった。しかし今回の顧客はシブトイらしく中々部屋から出てこない。
 思うにこんな薄いドアなんて、ちょっと昔ならすぐに蹴り開けられて部屋の中に押し入るなんてこともやってたのかもしれないが、今は法律ががちがちに整備された時代。ちょっとでも法律に違反したところを責められると即業務停止命令を食らうって事も分かってるものだから、督促業者も其処まで無理はしない。そういう意味では彼らは暴言を吐くがまだ常識的な業者と言えた。隣人は法律という薄い扉で辛うじて守られているのだった。
 んで、件の隣人でそもそもの発端。つまり金を返さない奴ってのは一体どういう奴なのかというと、俺はそいつを知り合いでは無いがまぁ知っているのだった。
 隣に住んでいる件の隣人は、貧相なおっちゃんだった。
 見た目は痩せこけていて、笑うと歯があまり無く、近くに寄ると酸い匂いを漂わせる人。還暦は過ぎていないとは思うのだが、見た目で言えばもうすぐじいさんの域に入りそうな男だった。
 俺は今酒屋でバイトしていて、飲み屋につまみを配達する仕事がメインだ。なので昼過ぎに出勤するのだけれども、ほぼ毎日廊下でおっちゃんを見かけるのだ。
おっちゃんの部屋はアパートの2階の最奥だ。その横が俺の部屋っていう配置。おっちゃんはいつも自室の前の廊下にしゃがみ込んでぼーっとしている。偶に何処から拾ってきたのかへろへろの新聞を広げて小難しい顔をして眺めたり、ワンカップを(あお)ったりしている。家を出ると廊下にいるもんだから、一応隣人の手前無視する訳にもいかないので申し訳程度に声を掛ける。ういっす、なんて声を掛けるとおっちゃんは、おう、なんて蚊の鳴くようなか細い声で応答して此方を見る。そして小さく笑うその口元には歯がほとんどなかった。生きているのか死んでいるのか分からないような奴だ。
 俺はスティックパンが好きでいつもコンビニやスーパーで買いこんでは、仕事の日は朝飯変わりに咥えながら家を出ることが多い。そういう状況で廊下でおっちゃんに出会うと、おっちゃんは必ず俺が加えたスティックパンに目が釘付けになった。おそらく日頃から六な飯を食べていないのかなと思う。そういうおっちゃんの尋常じゃない姿を日常的に見るにつけ、俺は少しおっちゃんに対して苦手意識があった。
 「見せもんちゃうぞ、ガキ」
ドアをちょっぴり開けながら俺がぼーっと別の事に考えを巡らせていると、脅し役の男の方が此方に向けて大声で威圧してきた。どうやら思うように回収が捗らなくてイライラしているようだった。俺は、やばい、と心の中で思ったが目を付けられた以上どうにもならない。これはもう土下座でも何でも平謝りしかねぇなと思ったところで、今度は宥め役の方が声のトーンも穏やかに話しかけてきた。
 「おい、ガキ。此処に住んどうおっさん、まだ家ン中おるんか?」
 宥め役の方も言葉尻は冷静に話しているが、相当フラストレーションは堪ってるんじゃないのか。多分俺が知ってるだけで、もう3回は隣の部屋に取り立てに来てると思う。そして、1、2時間ほど粘った後帰るということを繰り返していたのだ。
 「いや、知りませんけど。どっか出て行ってんちゃいます?」
 「お前、隣に住んどんのに、なんで何も知らんねん!」
 脅し役が理不尽な暴言をこっちに投げかけてくる。なんで何も知らんねん、ってそんな無茶な。しかし、宥め役がその言葉を制して懐に手を突っ込んだ後、俺に話しかける。
 「そうか。ほなな、隣のおっさんが家帰ってきたらな、俺んところに電話してくれな。」
 そういうと宥め役は俺のドアまで近づいてきて名刺をドアの隙間に突っ込んできた。俺は目の前の名刺を掴むと宥め役を見上げながら軽く会釈する。
 「ちゃんと連絡くれたら小遣いくらいやるから、頼むわ。」
 「まじすか」
 「あぁ。まぁ、見かけたらで、かまへんから。」
 そう言うと、帰るぞ、と今までとは違うドスの効いた声を脅し役に投げかけてさっさと帰っていった。脅し役は廊下に唾を吐き捨てながら俺を睨みつけて宥め役の後を追って帰った。
ああいう24時間暴力の中に生きている連中には極力関わらないようにしようと心に誓っていたのだが、お小遣いが貰えるという話は美味しいなと思った。
 だけれど、俺は知っているのだ。実は隣のおっちゃんは何処にも行っちゃいない。おっちゃんはずっと声をひそめて部屋の中に居るのだった。
こうやって督促業者が取り立てにくるとおっちゃんはすぐ押し入れに声を潜めて隠れる。そして後はただ声を潜めて空気と同化するのだ。奴らが帰るとその後30分くらいは静かだが、その後ゆっくりと部屋を歩き回る音がする。これも何時ものことだった。おんぼろアパートの壁はドアと同じく途轍もなく薄いので、互いのプライベートなんか筒抜けだった。脅し役の、隣に住んどんのに、なんで何も知らんねん!というツッコみは割と正論だったのだ。俺が知ってるってことがバレると奴らにぶっ殺されそうだが。んで、じゃあ俺が何故どっか出て行ってんちゃいます?という、ある意味おっちゃんの居留守に助力したように見えるかもしれないが、それは決して其処まで人助けの気持ちがあったからではなく、つまりはとっとと奴らに帰って欲しかったから。ひいては、俺がもう一度穏やかな睡眠に戻りたかったからに他ならない。ようやくやかましい奴らが消えてアパートに平穏が戻ったところで俺は布団に潜って再睡眠に入った。



 携帯の目覚ましが13時に鳴る。
 俺は眠たい目を擦ってから、歯磨きをして顔を洗って申し訳程度のスタイリング。服は臭くないから昨日のままでいいや、と。いつも通り、スティックパンを齧りながら部屋を出た。バイトは14時からだった。
 ドアの鍵を閉めていると脇の方に人の気配を感じた。いつも通りの感覚だ。
 「… …ういっす。」
 「…おう」
 奥に目をやると廊下の端っこに専用の椅子が置いてあり、其処でおっちゃんは外の景色を眺めていた。午前中は督促業者が来て大ピンチだったはずなのに、午後にはもう廊下に出てワンカップを呷って一人管を巻いている。やっぱりこの人は普通の人間とは感覚が違うのだなと妙に納得した。形ばかりの挨拶もそこそこにバイトに向かおうと歩き始めたとき、おっちゃんが俺に声を掛けてきた。
 「兄ちゃん。」
 俺は突然のことに少し動揺した。まさか向こうの方から声をかけてくるとは思わなかったからだ。俺は足を一歩踏み出した態勢で固まったまんま、顔だけおっちゃんの方に向けた。
 「…へ?… …な、なに?」
 「ああ、あの… …」
 あの、と言ったものの、おっちゃんはなんだかもじもじと中々発言せず一向に要領を得ない。俺はバイトの手前、早く家を出たい。焦れる時間がこの上なく迷惑だった。
 「何なん。俺、今からバイトやから、急いでんねん」
 そう言うと、おっちゃんは若干の焦りのような表情をした後、ようやく要点を話始めた。
 「… …け、今朝、のことやねんけどな。… …なんか、有難うな。」
 「へ?何が?」
 「……わしが、家おらへんって、ヤクザにウソゆうてくれたやろ」
 言い切ると、おっちゃんは手に持ったワンカップを一気に三分の一ほど飲み込んだ。
 「あぁ。いや、まぁ。あれはヤクザの声がうるさかったもんで、さっさと帰って欲しかっただけやで。別に誰のためにやった訳でもないわ」
 「… …あぁ。そう、なんか。でも、おかげで助かったもんで。感謝してるわ。」
 「はぁ。」
 感謝してるわ、というとおっちゃんはまた得意の笑みを浮かべて此方を凝っと見た。やはり開いた口の中には歯が(まば)らにしか無かった。そしてまた何時もと同様、今回も話している間中ずっと、おっちゃんの目は俺が齧っているスティックパンに釘付けだったのである。
 だが、俺はこの会話がとても意外だと思った。まさか、こういう人種の人間に謝罪や感謝の念があるなんて思わなかったからだ。まぁ、これはまったくもって俺の思い込みで偏見だったのだが、借金を抱えている人間や犯罪者という人種は漏れなく心に余裕が無いため、他人のことを何かの道具としか思ってないんじゃないかと感じていた。しかし、ちゃんと面と向かって話してみると、彼らにも通常の人間と同じような、そういった気持ちがあるにはあるんだなぁと思ったのだった。
 「ふーん」
 俺は誰に話し掛けるでもなくふーん、と発音してみて、それから少し閃いたので鍵を開けてウチの部屋に入った。それから台所で探し物を掴んだ後、すぐにおっちゃんのところに戻る。
 「はい、どうぞ。」
 「…… え?… …なに…」
 俺は部屋に戻って未開封のスティックパンの袋をそのままおっちゃんに持ってきてやった。
 「お腹空いてんのとちゃうの。食べえや。ウチまだいっぱいあるし。」
 おっちゃんは、目の前に突き出されたスティックパンの袋を穴が開くほど見ているが、中々素直に受け取ろうとしない。
 「ええねんて。なんか、大変そうやん。俺な、他人やからおっちゃんに何もしてやれへんけどな、このパンやるわ。」
 そう言ってみるけど、それでもまだ、いやぁ、だの、うーんだの言っている。好い加減イライラしてきた。
 「まぁ、要らんかったら捨てたらええやん。人の好意は素直に受けといた方がええで。ほなな!」
 俺はそう言ってから半ば強引におっちゃんに袋を渡して、廊下を階段の方に歩いていった。その後すぐに後ろから、か細い声で
 「にいちゃん、堪忍な」
 と聞こえてきた。階段を降りるときチラッと一瞬見てみると、既におっちゃんは袋を開けてスティックパンをむさぼり食っていた。




 バイトが終わったのが22時。其処からケンジたちが連絡してきたので行きつけのスナックに集合した。いつもの朝までコースだ。
 俺は最近スナックに行くのが楽しい。それは何故かと言うと新人のカナちゃんが居るからだ。まだ19とか言っててついこの間まで高校生だったなんて初々しいことこの上無い。まだ何にも分かんないから此方の要求に素直に頷いちゃうところとか、他の従業員の女共とは大違いだ。俺たちは最近は彼女の一挙手一投足を眺めるためだけに通っていると行っても過言では無い。なんて言うと古株のアツコやマサミがぶち切れるのであまり公には言えないのである。今日も24時頃までカナちゃんを楽しんだ後は、近所の朝までやってる飲み屋に移動してどうでも良い近況やウワサ話に花を咲かせた。
 「おい、もうそろそろ終わりせんならんやろ。今何時や」
 顔面のみならず目まで充血させながらケンジが聞く。
 「え?今ぁ、今は、えーっと。4時。よ、え。えぇー?!もう4時ぃ?」
 「せやでお前。もうそろそろお開きしよか」
 「えー。まだ全然いけるやろ」
 俺はもうちょっと飲めるから行きたいのであった。まだカナちゃんの良さについて語り尽くすことが幾らでもあるからだ。
 「阿呆かお前。俺は今日朝から仕事やねん。さすがに2連チャンはしんどいから、今日はこれくらいで勘弁してくれ。」
 そう言うと、他の仲間2人もケンジの意見に賛同したのだった。まぁ満場一致となったら仕方が無いので俺も素直に従った。本日もいつも通りとても幸せな一日であった。そういう訳で後は恒例の千鳥足、重度の酩酊状態にて帰宅と相成ったのである。
 なんとか無事におんぼろアパートに到着し、ふらふらと廊下を歩いてなんとか鍵を差し込みドアを開け、目の前の煎餅布団にぶっ倒れ込む。それから気を失うまで30秒とかからなかった。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。って思う考えも朧気。俺は部屋の中の小さな物音と気配にうっすらと目が覚めた。でも例えるならば、幾重もの眠気の層の下の下にあるやっとこさ意識というくらいの、本当にうっすらとした自意識だった。夢うつつな意識の中で感じた人の気配に、俺は、あぁと納得した。おそらくアツコかマサミだろう。
 俺の住むおんぼろアパートは文字通りおんぼろだ。それぞれの部屋についている鍵だって形ばかりのものだ。なので外出の際は一応戸締りするものの、自宅に居るときは基本鍵なんてしない。一日中ドアを開けっぱなしの住人もいる。こんなところに住む人間の財産なんて知れているので取られる物なんか大して無い。で、そういう訳で戸締りをしない俺の家は都合が良いのか、何時の間にか自宅に帰るのが面倒になった奴らが勝手に上がりこんで泊まるなんていう、所謂、簡易避難所化していたのである。この間などは朝目が覚めると、アツコが全裸で隣に寝ていて心臓が爆発するくらい死ぬほど焦った。エアコンが無いから仕方ないやん、とか、もう阿呆かと思った。俺はこのとき絶対こんな恥じらいの無いような女とは結婚するまいと固く心に誓ったのだった。
 そういう訳でこの今ごそごそと蠢いている気配もその辺の連中だと閃いたのだ。ケンジたちは本日の飲み会の所為で家に帰ってるはずだから、後は件の女連中って訳だ。
 「おい、上がりこんでもええけど、全裸で寝るなよ!」
 俺はうつろな意識のまましっかりと一喝して、それからすぐに意識を失った。



 携帯のアラームが鳴る前に目が覚めた。
両手をあらゆる方向に泳がし携帯を握りしめ時間を確認してみる。11時だった。まだ眠れると思ったが、既に喉がからっからに渇いた俺は飲み物が欲しかった。
 元々水道水が嫌いな俺は、飲み物は必ず近くの自販機に買いに行く。なので、そういや小銭あったかな、と思って机の上に置いておいた財布を手を伸ばして取ってみた。
 眠たい目をこすりながら小銭入れを確認する。あれ。一円も入って無い。昨日の飲み屋の釣り銭があったはずだけど、気のせいかな?と思って、何とは無しに札入れの方も確認すると2万くらい入ってたはずが何故か此方もカラ。あれ、なんで財布の中身が全部すっからかん?と思ったと同時に思い浮かんだのはある連想、俺は意識が自分でも驚くほどハッキリして、煎餅布団から飛び起きるとすぐにドアの外へと飛び出した。目の前にはおっちゃんの部屋のドア。
 「おい!おっちゃん!俺や。隣のもんや!おい!」
 割れんばかりにドアを叩くも返事が無い。
 「入るで!!」
 叫ぶように断りを入れてからドアノブを回して部屋に入ってみた。鍵はかかっていなかった。
 部屋の中は隅っこに遠慮がちに置かれた煎餅布団と、その横に置いてある貧相な小さな机。部屋には既に人の気配は無かった。俺は息が自分でも荒くなっているのを感じながら、部屋のあらゆるところを確認する。すると、テーブルの上に一枚の紙きれが置いてあるのを見つけた。よく確認してみると、それはくしゃくしゃの新聞広告だった。その裏面に、ひらがな文字で、これまたびっくりするほどのへったくそな字で、申し訳程度の一文が書かれていた。
 『にいちゃんかんにんな、』
 つって。… …… ………クソジジイ!!!

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