寝言

文字数 1,982文字

 近頃、細君の様子が奇怪しい。何を聞いても空返事しか返って来ず、心此処に有らずと云う風である。然し機嫌が悪いのかと云うと決してそうでは無く、思いついたように私が冗談を云えば其れに手を叩いて笑ってくれるのだから、愈々私の腹に巣食う疑念は膨らむばかりであった。
 一体君は何を考えているんだと或る日彼女に問うてみたが、彼女はこつんと頭を横にして、分からない、と答えるばかりで一向に要領を得ないのである。本人が分からないのであれば、他人である私が分かる道理も無い。力づくで彼女の頭を切り開いて、虫眼鏡で観察しても答えが見つかるような類の話でも無いので、此の時点で私の出来得る策は最早手打ちとなった。此の先私は、細君への緩やかな疑念を抱きつつ生活を続けて行くのであろうと密かに決心していた、そんな或る日の夜、私は唐突に真実に直面する事となったのである。
 其の日は細君が珍しく早めの帰宅をしたので、私は其の労を労おうと玄関で靴を脱ぐ彼女の下へ一目散に向かった。だがそんな私に対して彼女は六に只今の挨拶も無く、吸い込まれるように自身の寝床に入ってしまったのである。矢張り、何処か深刻に具合が悪いのだ。私は玄関に独り呆然と取り残された薄ら寒さに身震いしつつも、此の時ついに確信を得たのであった。そうと決まれば凝っとして等居られない。彼女の下へと再び向かい、一刻も早く身体の変調の理由を突き止めねばならない。其れこそが婚姻と云う法律で縛られた夫である私の責務なのであった。
 だが、そう決断してから既に三十分が経過していた。私は今尚、玄関で棒立ちの儘、一歩も動けずに居た。何故か。仮に私の友人が直ぐ傍らに居たならば、そう問うてくるに違い無い。無論、逆の立場であれば私でもそう問いかけるだろう。然し、私は其れに反証するだけの答えを抱えていたのだ。
 一つに、最早細君は私の事を夫と認定する事を断念したのでは無いか。詰まり、過去私が何等かの過ちに気づく事無く無自覚に、そして無為に過ごしてきた日々に、彼女は愈々もって終止符を打つと決断したのでは無いか、と云う事であった。そして、其の思考の表明が此度の寝床直行事件なのであれば、今更、どの面を下げ彼女の寝床に忍び込む等出来るだろうか。厚顔無恥、面張牛皮、頑鈍無恥、我田引水、其れこそ愚の骨頂なのであった。そう思い至った時、私の足はぴたりと玄関の床に釘付けとなったのである。
 振り返れば思い当たる節は山ほどあった。以前、夕食に出た献立の中に肉団子があったが、大皿に残った最後の一つを私は瞬間的に摘まみ上げ我が物とした事があった。彼女の視線を感じつつも、其れに知らぬ振りを決めて一気呵成に口へと運んだのである。又、別の日には、蜜柑のお尻に人差し指を突き刺した儘、炬燵に仰向けで寝ていた細君を此れ絶好と云わんばかりに、あらゆる角度から撮影した事があった。そして其の写真を突きつけ良い気分になっていた私を、彼女は忌々し気に見つめていたのである。或いは、あれか。普段から私が全裸で屋内を移動するからだろうか。若しくは、屋内で所構わず放屁をするからか。
 想起せられたそれらの数々に対して、私は成す術が無かった。身から出た錆とは正しく此の事である。彼女は元来言葉少なめな女性であるが、其れに乗じて私は今迄ありとあらゆる悪行愚行を積み重ねてきたのであった。覆水盆に返らず。其の代償は己が支払うのである。仕方があるまい。私はそう考え、次の輪廻で細君とまた一緒になれた暁には、そのような悪行愚行は封印しよう。心をしっかりと洗浄し、正しい行いだけを続けよう。そう誓ったのであった。
 其処まで考えて、私は両目をくわっと云う感じで開眼した。最早、今生で犯した罪は仕方が無い。細君と夫婦の契りが決裂する事になろうとも、やり遂げねばならぬ事があった。詰まり、彼女が体調不良であれば、其の病魔から救ってやらねばならない。其れこそが今尚、法律で結ばれ書面上の夫である私の唯一出来る事であった。法律以外に、一体誰が私と細君を繋ぎ止めてくれるのだろう。
 其れから私の足はぐんぐんと歩みを始め、ついに玄関を突破しリビングを通過、二階へと駆け上がり細君の寝る寝室へと忍び込んだのであった。
 私は既に寝息を立てている彼女の顔の近くまで耳をもっていった。すると、彼女が一言ぽつりと寝言を呟いたのである。
「… …水餃子食べたい」
 水餃子が食べたいとの事だった。
 後日、其の事について家族会議が開かれた。細君は最近、広告で見かけて以来、酷く水餃子に憑りつかれていたそうだが、健康による事情(主に体積)の関係で葛藤を抱えていたのである。体裁が悪くてずっと内に秘めていたのであって、昨今の呆としていた奇怪の原因は果たして其れであった。私はゆっくりと落ち着いた口調で、厳かに、知らんがな。と云った。
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