外観的差別についての所感(2255,04,04)

文字数 1,601文字

 私は仕事柄、様々な歴史文献を目にするが、其の中でもとりわけ目にするのが差別についての内容だ。差別自体は現在でも存在する為、其れ自体はおそらく人間という種の或る種根源的な欲望である事には違いないが、其の元になる原因自体が今とは決定的に違うのだろう。現在は西暦2255年であるが、ほんの200年程前まで外見についての差別が存在していたというのだから驚きだ。此処から垣間見えるのは、過去に生きた人々は外観というものに思想や理念を絡めていたという事だ。
 現代において身体という物は代替可能な存在である。電脳技術が急速に発展し魂の複写(ゴーストダビング)が一般化した今、私たちは自身の要求通りの外見を手にする事ができる。そして其れが意味する所は、代替可能が故の個人趣向の発露である。だが、だからと云って其の選択は差別の理由とはならない。其処にあるのは、多様化した社会の中に或るありふれた一つの選択だけである。
 私について云えば、電脳化し身体は右腕のみ

しているものの、ベースとしては生まれてからの外見を維持している。其れは私の生活習慣上必要最低限の選択なのであって、其処に大きな意義は存在しない。事程左様に、世間には脳のみ電脳化した者、脳以外の全てを義体化した者、又、人造人間(ヒューマノイドやガイノイド)と云った者もいる。私たちが生きる現代というものは、最早分類分けしようにも、あまりにも其の種類が細分化され過ぎているのであり、外見で差別を行う事自体がナンセンスなのである。単純な話、今の時代に生きる我々には相手の外観が違うからと云って其れによって他者を迫害しようという発想すら無い。私がかつて師事していた教授によると、私たち人類はある地点から確かに外観的差別という物の価値や区別を失った瞬間があったそうだ。そして其れはおそらく電脳化が急速に広まった頃だと云う。
 大昔は人造人間(ヒューマノイド)は云われた事もまともにこなす事も出来ないような、そもそも真っすぐ歩く事もままならないような状態だったらしい。其の事をヒューマノイドの友人に話した折等は、じゃあ自分ももう少し

と云いながら、私の眼の前で機械仕掛けの玩具のようにお道化て歩いてみせた。現代、ヒューマノイドは外観上我々人間と何一つ変わりは無い。
 身体を義体化する事の元々の始まりは整形手術だと云う。当時、まだ人類が電脳化技術を獲得していない頃、然し当時の人々も自身の外見を変えたいという欲望はあった。其の技術自体は顔面の筋肉組織や皮膚と云った表層的な部分を組み換えると云った、現代と比べるとまだ未熟な技術だったようであるが、其れによって当時の人々も新な自身の選択を獲得していたのである。それはまだ生まれた時の自身の肉体から離れる事ができなかった頃の、折衷案的な方法なのであった。そしてまた、まだ其の頃は倫理的な部分で身体という駕籠から出る事を良しとしない、社会の閉鎖的な風潮(肉体に対する盲目的な信仰、或いは、ともすれば自己同一性を根幹から揺るがしかねない可能性に対する過剰な拒否反応)があったという点も忘れてはならない。
 つまり、外観的な差別というものは其れが取り換え不可能な一要素であったが故に生まれたものである。外観が代替可能となった現在、そもそもの人種という生まれた時の肌の色で区別する事もさえも無意味なのであった。過去には人種というものに思想や理念が括りついており単一民族が其のしきたりを守る、という側面もあったようである。其れは屹度、ナショナリズムを補完するシステムとして必要な機能だったのだろう。だが、今私が住む日本という国を俯瞰して見た時、私は千差万別の外観を持つ日本人が住む此の日本が、日本らしさを失っているとは少しも思わないし、むしろそういった人種や外見による縛りに左右される事無く、私たちは主体的にそれらを吟味し納得した上、選択するという自由を獲得している。
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