ラルゴ

文字数 1,307文字

僕たちの或る美しい昼下がり。秋の木漏れ日はリビングの窓から優しく降り注いで、あらゆる角度でパノラマに反射する。ウォールナットの円卓に並べた同系色のソファ。気怠(けだる)く身体を預けるキミの手が繊細に動いて文庫本のページをめくる。テレビからは延々とニュースキャスターが時事を伝えているが、その声は誰の耳にも届く事無く、空気に紛れて消えてしまう。
僕は二人分の珈琲をそれぞれの専用カップに入れ、ケトルからお湯を注ぐ。カップに行儀良く落ちていく液体を、飽きもせずずっと見て居たい気持ちになる。
「珈琲、入ったよ。」
僕は零さないように入念に気をつけながら、円卓までゆっくりと歩く。いつの間にか文庫本から目を上げたキミの顔が、危うげな僕の動向を見つめている。
「うん。」
円卓に置かれた二人分の珈琲。僕らは二人共ブラックが好みだ。そして、それに合わせてスーパーで買ったチョコレートのお菓子を食べる。こんなどうでも良い所作が、付き合う前から僕たちそれぞれのルーチーンだった。だから、価値観からの今の現状は至極当然の流れだったのかもしれない。
「ねぇ」
「うん?」
キミは手を伸ばして一つチョコレートを摘まんで口に運ぶ。僕を呼んだ後の続きの言葉は当たり前のように紡がれない。
僕は自分の珈琲を一口飲んでみたけど、ペースを間違えてしまったものだから舌を少し焼けどしてしまった。
「アチチ… …」
「… ……ネコジタ…」
「うん、イタイ… …。」
キミが目の端で笑っている。二つに割れて円卓の上に保留されていた文庫本を、キミはもう一度丁寧に開いて再開する。
「なんで、キミは毎回火けどするの。」
「… …我ながら、学習しないねぇ… …」
学習しない。僕はその自分のコトバに、心臓を激しく打ち抜かれた気がした。
珈琲を飲みながらカップを持つ手が微妙に震える。キミの表情は既に文庫本の下に落ちていて良く見えない。僕たちの居る空間に静かな沈黙が訪れて、堪らず僕は用事も無いのに自室に足を運ぶ。
作られた不要の行動。動いてから整合性ある言い訳を考える。僕のいつもの行動パターンだった。少し考えてから、僕も彼女と同様に、本棚に指を這わせてから、何気ない一冊を手にとってリビングに戻る。
「… …… …そのときの二人が状さま、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし… …」
キミが不図顔を上げて、立っている僕の方を見る。
「… …外科室ね。」
「ウン。美しいセンテンスだよね。」
全てが終わって、お互いの全てが清算され、既に台風は去ってしまっていた。
後に残ったのは、荒野と疲れ果てた木々と花。それと、その光景を無慈悲に照らし続ける木漏れ日。
「… …… …キミはさ、… …後悔ってある?」
彼女が真顔でゆっくりと言葉を紡いだ。
「どんな、後悔?」
「どんなだろう、分からないけど。」
「無いかな。そういうキミは?」
「…… …私は、… …… …良く分からないや。」
事後、物語の善悪を考える余裕も無く、只逃げるように荒れ地を離れた。
多分、この穏やかに流れる時間の中で、僕たちはずっと生きていくのかもしれない。色んな感受性が麻痺してしまった、何処までも続く、この広く蒼い草原を。

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