平日、昼間

文字数 3,784文字

 海が見える。
 と、頭の中で発してみた言語が如何にも陳腐でバカらしいのは、それがごく当たり前の事象、つまり眼の前にあるこの広い風景を只解説しているに過ぎないのであって、しかも、それが解説というほどの含蓄も皆無であるところが既に救い難く、自身の知的レベルを恥ずかし気もなく露呈せしめているからであるが、ただし、その一見陳腐な言葉、知的レベルが露呈するような発話を敢えてするということの唯一の効能があるとすれば、それは頭の中で、海が見える、と独り言ちることにより、現在の自身の置かれている状況、もっと言えば自身では抱えきれない面倒な事象から一旦意識を打っ遣ることで現実から逃避することに成功しているということである。
 と、そういうことを脳内でしこしこと思考しているのですが、現実というものはそんな僕をほおっておいてはくれないようで。
「ねぇ」
「… …… …」
「ねぇってば。」
「… …… …… …」
「ちょーっと。無視するのやめてもらっていいですかぁ」
「…… …… …」
「… ……… …」
 突然、大きくこれでもかと深呼吸をする女。
「… …… …無視、… …するなぁあああああああ!!!!!」
「…… …!!!… ……だ、黙れよ、お前!」
 僕は慌てて辺りを見渡す。崖の上の高台にあるこのホーム、つまり海が見渡せるこの駅は、元々利用客が少なく、朝夕の通勤ラッシュでも大したこと混雑にはならない。それが昨今の少子化の影響で二十年で更に減少。学生も一時に比べてかなり少なくなったとは家の両親も良く話しているものの、それでも周辺住民には欠かせない駅なのであって、今も、えっーと平日の十一時だけれど、向かいの上りホームにもちらほらと人は居る。その人たちが女の大声でこちらを一斉に振り向くものだから、僕はとても恥ずかしくなって取り乱してしまったのだ。いつものように、このふざけた女のぺースだ。
「やっと喋った」
「っせーよ。周りの人に迷惑かけんな」
「話しようよー」
「やだよ」
「なぜー」
「ヤだから、今とりあえず現実逃避をしていた」
「毎度だけど、そんなことやっても意味無いこと、そろそろ学んだ方が良くない?」
「俺より偏差値ちょーうんこの学校のお前に、学びについてトヤカク言われたくない」
「あら。たかしクン。学校のお勉強だけが学びだと思ってるのかしら?そんなことだと社会でやってけないよ」
「… …うっ」
 原千夏(はらちなつ)。いつもながら、まじむかつく女。バカのクセに妙に慧眼な、それでいて達観したような物言いをしてくるところがまったくもって鼻につく。だけれど、それに対して反論できるほどの材料がないのは、どこかでこの女の言うことが真理だということが分かっているからで、僕がそれを持っていないところについての自信の無さだとの一応の自覚はある。
 僕は海を見ながら塀の上に顎肘をついてた。目線だけを女の方に向ける。髪は茶髪のロング。ケバイ化粧。丈の短いスカート。まったくもって同じ高校生であるということが信じ難い。知識も趣味もまるで噛み合わないし、こいつの交友している周りの男連中も頭が悪そうな奴ばかりだ。そんな奴等に絡まれたら僕の日常は崩壊しかねない。
 女が僕の視線に気づいてにっこりと笑顔を作る。まるで作り慣れたような顔だ。おそらく、この女が相手を懐柔すべく編み出したであろう、一番ウケの良さそうな顔。これはまったくもって、僕の個人的な見解ではなく一般的な評価基準で平たく言えば所謂、可愛い顔だ。原に初回で出会ったヤツは、もれなくこの笑顔にやられる。そして、恐ろしいことにこの笑顔は優良な一般男子高校生にも漏れなく効力があるのだ。僕はそこに一番の空恐ろしさを感じるのである。だから、大事な友人たちにはいつも、この女が一体どれほどの恐ろしさを兼ね備えたヤツなのかということを滾々と説いているのであるが(原は近隣では割と顔が売れているので友人も知っている)、何も知らない友人たちは、必死で力説する僕を見て、「え、何。たかしって、あーゆーのが好みなの?」なんて言う見当違いの意見が噴出するところが非常に悩ましい。そうじゃないんだ。マジでこいつは何考えているのか分からない、恐ろしいヤツなんだ。
 僕の女性の好みは、自分で言うのもなんだがとても一般的だ。つまり、カラスの濡れ羽色って感じの美しい黒髪ロングで、色白な、女優で例えるならば若き日の吉永小百合を更に可憐にしたような美少女だ。そういう女性に惹かれるのである。だから、断じてこの女のような不良女ではありえない。
「ねぇねぇねぇねぇ、たかしクン」
「… …なんだよ」
「毎回聞くけど、なんでこんな時間にこんなとこ居ンの?」
「なんで毎回、おんなじこと聞くんだよ」
「聞きたいから」
「は?」
 僕は呆れながら顔を原に向ける。原はその僕の顔を見て、眉毛をあげて笑顔を向ける。
「… …ちぇっ。」
「昼間の海って良いよねー。水面がきらきらしてるもんねぇ」
「ゆってんじゃん」
「うふふ。」
「お前こそ、ちゃんと学校行けって」
「あたしは色々忙しーの。昨日だって夜中まで仕事してたしー、それに、遊んでたし。」
 こいつは高校生のクセに飲み屋で働いている。そして、遊んでる、っていうのは、こいつはSNSトカで不特定多数の男と会っているのだ。つまり、そういうアソビってやつだ。
「たかしクンこそ、ちゃんと勉強しないといけないんじゃないの?それとも、なんか悩みとかあるの?」
 原が塀に両手を置いて、そこに乗せた横顔をこっちへ向けている。
「あー、俺、そういうンじゃないから。交友関係至って良好、勉強学校の悩みもナシ。純粋に、昼間の海みたいから時間作ってここに来てるだけなの。」
「そうなんだ。じゃあ、あたしとおんなじじゃん」
「まじかよ」
「まじよ」
「お前に、この海のせつなさ分かンのかよ」
「むかっ。あたしの方がこの海のこと分かってるわよ。」
「ちょ。むかってなんだよ。」
「擬音よ」
「口に出すとか昭和かよ」
「昭和、結構すきよ」
「あー、マァ。たしかに」
 いくつかの普通電車の到着ベルがけたたましくなって、いくつかの普通電車があまり乗客を乗せることなく発車していく。この駅から見える海は、ここまでは波の音を運んでくれない。だけど、こんなに広々と海のさざ波を見渡すことができるこの駅があって、僕はとても幸運だと思う。僕は本当に特に悩みとかは全然なくて、将来に向けて抜かりなく勉強も出来ているから、これからもそれなりに頑張っていけると思う。
 原は、何時からか分からないけれど、何時の間にかこうやって駅で出会うことになった。最初に会ったのはいつだったか分からないけど、こんな人気の少ない駅だから、偶に通学の時に駅で見かけることがあった。最初に声をかけてきたのは勿論、原だ。僕が一人、今日のようにゆったりと海の景色を楽しんでいたところに、知らない間に隣に立っていて。それで、どうやら、しばらくそうやって無言で一緒に海を眺めていたらしい。僕が我に返ってさて帰ろうかなと振り向くと、そこに見知らぬケバイ女子高生が立っていたときの恐ろしさったらなかった。間違いなく、何等かのトラブルに巻き込まれて金品をもれなく強奪されると思ったものだ。だけれど、そんなことは特になく、マァ大した事件もなく、今日に至っている。
 既にご承知の通り、僕と原の住んでいる世界はまるで違うし、知識も考え方も趣味も違う。だからよくある恋愛小説のような、こういう出会いから恋愛に発展するということも無いし、今後もそういう展開はないと断言できる。で、マァなんだかんだとこの女については悪口のようなことを言ってはいるものの、僕はなんだかこの女は大物になるのではないかなと思っている。この女は馬鹿だけれど頭の回転は速いと思うし、そういう地頭は賢いと思う。で、今の僕よりもはるかに現実を知っている。恐ろしいことも、楽しい事も。僕がまだ知らない、色々な世界の現実を知っているのだ。そういう意味では、愛すべき隣人なのだろう。いちいちムカつくヤツだけれど。
「たかしクンってさぁ、面白い人ではあるよね」
「何、その含みのある言い方」
「そう?すっごく褒めてるんだけど」
「褒めてるように聞こえない」
「あたしに褒めてほしいんだ?」
「あ、結構です」
「遠慮しなくて良いんですぞー」
「死ね」
 気温が結構あったかくなってきた。春が何時の間にか、来ている日差しだ。明るくて、でも日差しがなくなると少し寒いような。
「ねぇ、そんで、恒例の面白いこと言ってよ」
「恒例かよ」
「うん!」
「… …ムチャ振りすんなよ」
「笑いのセンス試されるの、嫌いじゃないって顔してるの、知ってる」
「… …あー… ……」
「わくわく… ……」
「俺の知識ってさ、全部本の知識だから」
「それでも良いよ」
「…… …そっか。… ……では… …」
「わくわく… …」
「…こほん。… …平凡な女の子が、すっごくド派手なドレスを着たんだって。そうすると、周りに居た猫や犬が口を揃えて鳴いたの。」
「うん」
「… ……にゃーわん、って。」
「うん」
 頷く原の真顔。
「… ……。… ……えっ」
 僕の狼狽。
「えっ。え、おわり?」
「う、うん」
「え、ど、ゆこと?!」
「えっ」
「え、えっ。なに、何が起こったの、一体」
「え、いや、だから、その」
更なる僕の狼狽。
「えっ」
「えっ」

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