月光虫

文字数 1,485文字

 草原は全ての色を失っている。葉にまとわりついた雫が未練深そうに地面へと落ちていく。其れほどまでに辺りは事も無げにしんとしている。
 空にぽっかりと浮かぶのは、発光する満月であり、世界の明かりは今やそれのみであった。
 其の明かりの中に円を作りながら天を目指す虫共がいた。地面に横たわった、最早、死後数か月が経つであろう若い男の躯から這い出している此の虫たちは、男の身体から数多くの記憶という栄養分を根こそぎ奪い去った後、何故か月を目指しているのである。体長2~3センチほどのこれらの虫を月光虫と人は呼んだが、その美しい響きとは裏腹に、円、渦を巻きながらゆっくりと天を目指す其の光景を見れば、つまりそこには死体があることと同義であるので、人々は其の虫を不吉であると噂し倦厭した。かつて世界的な戦争が起こった時期等は、月の夜、道を歩けばそこら中に月光虫が天へと立ち昇っていくのが見れた。虫共はいつもそうやって、死んだ人間たちの記憶を月へと運んでいく。親が虫を遠ざけるのも聞かず、興味本位で子供等が立ち上っていく虫に手を触れると、子供等は其の死亡した者共の記憶を見る事ができた。米をたらふく食った者、失恋して身投げした者、怨みを買い殺された者。それらの記憶は、其処に善悪等なく、等しい記憶なのであり、子供等は無邪気にかまけて走りながら手を広げると、あらゆる虫が彼らの身体を通り抜けた。虹色のような走馬灯に彩られた記憶は、幼子にとってめくるめくサアカスのような夢を見せるのであり、其の瞬間、子供等は現実でのひもじさを忘れることができた。
 大人は虫を倦厭したが、子供の中には虫に魅せられる者も居た。大人は其れを中毒と云って酷く禁止をしたが、大人が禁止をすればするほど、虫は子供等を魅了していくのである。ある日、新聞の見出しに、少女二人が手首を切って死ぬという記事が載った。ある月の夜の出来事であり、其の少女たちの死体を囲むように少年少女が立っていた。彼らは祈るように少女の虫に触れたが、彼らは其の後、落胆したように散らばって何処かへ消えていった。少女らの記憶はどうしようも無く詰まらなかったからである。
 その後も、同様の所謂遊戯は子供等の暇つぶしの一つとして行われたが、其れはまさに暇つぶしというに相応しく、彼らを満たすような記憶ではなかった。彼らの体感は、かつて幼き頃、其の身に降りかかった神がかりとでもいうような虹色の経験に彩られているのだった。子供等は最早、過去の記憶の虜となっていたのである。そんなある朝、人が殺された。
 事件の犯人は少女であったが、尋問をする上で刑事は、告白する子供の恍惚なる表情に言葉を失った。少女はより美しく儚い記憶の残影に取りつかれていたのであった。
 殺した男の傍らに座り、花弁の蜜を吸いながら白い指先で虫に触れているところを通報された。美しさの為に子供等は殺人をも犯した。この事件の犯人の少女を旗印として、全国各地で同様の殺人が多発した。国はすぐさま報道を規制したが、すでに時は遅かった。特に、愚かしく卑しくひもじい男の記憶が好まれた。それらの男たちの記憶は、陰惨で、近寄りがたく、不潔で、救いようのない泥沼をくぐるような人生であった。人生のうちの負け犬であり、辛酸を舐める日々である。だが其のうち、誰かしらが気づくでも無く、同時に気が付いた。そのような記憶である方が、虫の輝きはより一層、輝きを増すのであった。そう気が付いたとき、少女らは、初めて薄い紅を引いた。すべての大人を殺そうと子供たちが相談を始めるまでには、まだもう少しだけ時間を要する。

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