父さん、母さん、和人、夕暮れ

文字数 4,644文字

 母さん。僕は今、とても複雑な心境です。狐につままれたような気分です。これは一体どういうことなのでしょうか。僕は、自分の感情というものがまるで分からなくなってしまった。喜怒哀楽の感覚が沸き上がってこない、とても不思議で静かな心境です。でも、それでいて興味だけがある。なんだかこのままずっと、眺めつづけたい気もしているのです。
 母さん。僕は今、生まれて初めての境遇に見舞われています。何も考えられない頭の中でそれだけは確実に実感しています。こんな状況は生まれて初めてなのです。これが、所謂、初体験というものなのでしょうか。
 初体験。なんて赤面するフレーズなのでしょう。僕にはまだ、早いような気がします。しかし僕は今、間違いなく初体験している。それだけは、しっかりと認識しています。
 母さん。今まさに初体験している僕は、生まれてからもう十四年が経ちました。be動詞はとっくの昔に習いました。バスには大人料金で乗っていますし、学生服ももうすっかり馴染んでいます。それに、内緒ですが、好きな女の子もいます。これからの僕はきっと、色々なものを塗りつぶしていく日々の連続です。真っ白なキャンバスを順番に黒く塗りつぶして行くんです。きっと、それが成長していくということであって、その只中に、僕は今立っている。立っているのですね、きっと。きっと、そうなのだと思います。
 だけれども、母さん。果たしてこの今の僕が置かれている状況も、これから歩む人生において意義ある経験として、僕が受け入れていくべき過程の一つなのでしょうか。色んなことが始まったばかりの僕にはまだ、どうにもそれが分からないのです。
 母さん。あなたは何故、部活から帰ってきた僕に向かって、先ほどから正拳を固め間合いを維持しているのでしょうか?母さん。それは、オープンフィンガーグローブ、と言うものでしょうか?初めて見ました。大きくて大層物々しいですね。きっとそれで殴られでもしたら、僕はすぐに気絶してしまうでしょう。殴られた経験なんて生まれてから一度も無いですが、なんだかそんな気がします。それにしても、構えた姿があまりにも様になっているので、とても驚きました。
 母さん。あなたに言った事はありませんでしたが、僕はあなたのエプロン姿が大好きです。それに、グローブをつけたエプロン姿も捨てたものじゃないと思います。ですがそろそろ、その拳を下げてどうか、どうか。オムレツを作ってくれませんか。僕は母さんの作ったオムレツがとても食べたい。



 和人。
 オムレツね。冷蔵庫に入っているわよ。そろそろオムレツが食べたいって言う頃よね。大丈夫。ちゃんと作ってあるから。お母さん、和人のお腹の周期は完璧に把握できているの。だから、スケジュール管理はばっちりよ。お母さんね、今日は早めに夕食の支度しちゃったから、作ったお料理は全部冷蔵庫の中なの。今日のオムレツはね、中々上手に出来たのよ。今日のはね、少しいつものオムレツとは違うの。安田さんいるでしょう、安田さん。ほら、潰れかけの煙草屋の向かいの道の、どんつきを曲がって左。ささ屋っていう惣菜屋さんの奥さんよ。あなたも何度か連れて行ったことがあるでしょう。あそこの奥さん、お料理が大の得意なのよ。あの人に今日、オムレツの作り方を教わったの。きっとあなたも気にいると思うわ。とてもマイルドな味になったのよ。でも、特別な事は何もしていないの。ただ、作り方の手順を変えただけなのに、味も風味も全然違うのよ。味見してお母さん、本当にびっくりしちゃった。改めて料理の奥深さというものを思い知らされた気がするわ。
 和人。私の可愛い息子。いつも部活忙しそうね。そういえばもうすぐ新人戦だったかしら。毎日、遅くまで練習しているわね、本当にご苦労様。夕ご飯出来ているから、早く食べなさい。そして沢山寝て、また明日頑張ってね。勿論、勉強の方も忘れないように。
 和人。可愛いマイサン。お母さんね、あなたの元気な姿をいつも応援しているのよ。あなたが学校に行っているお昼間、お父さんが会社に行っているお昼間。私は、物干し竿に洗濯物を干しながら、いつもあなたたちの無事を願って生活しているわ。あなたたちが元気で生活していてくれたら、私は他に望むものはないの。あなたたちの幸せが私の幸せよ。それさえあれば、私はこれからもずっと生きていけるわ。
 和人。ところで、お母さんの構え方、様になっているかしら。可笑しくない?なんだか成り行きで、エプロン着たままになっちゃってるけど。だってあなた今日、いつもより帰るの早いんですもの。用意するタイミングが狂っちゃったわ。この手袋ね、今日スーパーの掘り出し物セールで安かったのよ。喧嘩するときにつけるやつみたい。オープンなんとかグローブ、っていう名前だったわ。格好良いでしょう。いつもは掘り出し物セールなんて興味がないから見ないのに、どういう訳か今日はふらっと立ち寄っちゃったの。それで、なぜだかガラクタの中でこの手袋だけが光って見えたの。全く不思議なこともあるものね。気が付いたら、手にとって購入しちゃってた。何か、急き立てられるような気分がして、手に取らずには居られなかったの。
 お母さん、お母さんね。なんだか、このままではいけないと思っちゃった。一体何が?って言われれば、自分でもよくは分からないんだけれど。でも、とにかく、このままじゃいけないと思ったの。ごめんね、和人。こんな訳の分からないこと言ちゃって。
 不満はないわ。私たち家族はとても円満よ。お父さんは私たちの為に、いつも遅くまでお仕事頑張っているし、あなたも勉強や部活をとても熱心に頑張ってる。だから、家庭内不和とか、そういうことじゃないの。これは、とってもとっても、母さんの個人的な問題で、だからあなたには全く関係のないことだわ。でも(だからこそ)、私は、こうでもしないと、あなたたちの顔もまともに見ることができないから。いつか、あなたとお父さんに、置いてけぼりにされちゃいそうな気がしたから。だから私は、私の為に、戦わなければならない。だから、これは本当に仕方がないことなの。ごめんね。
 和人。眉毛、濃くなったわね。なんだか指先もごつごつしてきた。いつのまにか、男の人の手になってきているのね。そんなことにも今気づいたわ。それに、あなたとこんなにお話したのも久しぶりね。黙っているのに人は、こんなにもお喋りできるものなのね。どう?お母さんともっとお話ししてみない?黙ってないで、和人ももっとお話ししてみなさいな。
 それにしても、なんだかわくわくするわね。うふふ。さあ。少しでも隙を見せたら、私のパンチをお見舞いしてあげるから、覚悟しなさいね。可愛いマイサン。



 お母さん、ただいま。
 和人、ただいま。
 という、口の形だけしてみる。聞こえるわけがないんだ。何故なら私は声を出していないから。
 お母さん。今日はね、仕事が早めに終わったのだよ。上司がね、またやたらと今日に限って飲みに誘ってくるんだ。でもちゃんと断ってきたよ。今日は帰ります、うちで家内が夕食を作って待っててくれてますので、って。ちゃんと断ってきたんだよ。そしたらね。君のところは、いつまでも皆、仲が良くて羨ましいのう、なんて言って。あのねお母さん。私はね。この上司、嫌いではないんだ。いつも君には、この人の文句ばかり言っているけどね。でも嫌いでは、ないんだよ。
 お母さん。今日のご飯はなんだい。野菜炒めかい?それともてんぷらかい?サイコロステーキでもいいな。焼肉なんて、たまにはそんな豪勢なのも良いだろう。勿論、最初にビールを一杯飲んで、急いでナイターチャンネルを付けてね。私はこうやって、暑い暑いと言いながらの晩酌がうまい夏が、一番好きなんだ。
 お母さん。
 和人。
 私はまだ他所のお宅よりは、家庭を省みているほうだと思っていた。でもそうではなかったんだな。今、分かった。そして、こんな状況なのにリビングにも入れず、廊下の戸の隙間から、お前たちの姿をそっと見守ることしかできない自分の情けなさも、今知った。私は今まで何も知らなかったんだな。
 お母さん。その手袋はどうしたんだい。格好良いじゃないか。テレビで見たことがあるよ。それは確か、拳闘の時に装着する手袋だったはずだ。それにしても、とても構えが様になっているじゃないか。全くもって驚いたよ。また惚れ直してしまいそうだ。それに、見てみろ和人を。君のあまりの美しさに、言葉も出ないようではないか。窓からの斜陽に赤く染まって、無言のまま立ち尽くすお前たちは、さながらギリシアの彫像のようだね。そんなお前達に引き換え、私は今まで何も知らなかった。何も省みなかった。私という人間は、こんなにも沢山の大切な物を、手の平から零し続けていたんだ。
 お母さん。
 君のそのポジティブさ。自分の全てを曝け出して家族と向き合おうとしている姿。本当に教えられた気がするよ。私は今までそうやって、母さんや和人と接してきただろうか。いや、もっと言えば、私はこれまで生きてきて、人に対してそのように全力でぶつかった事などあっただろうか。君のその和人を真っ直ぐ見つめる目線。太陽ように全てを穏やかに包み込むような真摯な姿勢。私は、とても大事なことを教えられた気がする。
 何もかもが許される場所。それがここであるとするならば、家族である私たちは、互いの全てを許し合わなければならない。そして、許し合うために、互いの全てを知らなければならない。和人にとってこの場所が、唯一の許される場所であるために。私も、私の全てを曝け出さなければならない。だから私の全てを、これから語ろう。
 和人。お父さんはね。ひょっとこが好きなんだ。ひょっとこだ。ひょっとこを知っているか?ひょっとこというのは、たこのような間抜けな顔をしたお面のことだ。お面屋さんでもよく売られているだろう。お父さんはね、昔、子供の時に祭りの出店であのひょっとこのお面に出会って魅せられて以来、ずっと、ひょっとこのお面を集めつづけているんだ。そして、お前はもう忘れてしまっただろうが、私の書斎の一番奥の机の引出し。一度子供の頃、お前が開けようとして、お父さん酷く怒ったよな。実はあの中には、私の秘蔵のひょっとこコレクションが入っていたんだよ。ごめんな。あんなに怒鳴って。とてもとても恥ずかしかったんだ。今思えば、何故あんなにも激高してしまったのか。我ながらあの頃の記憶を消し去ってしまいたい。あの瞬間がきっと、私の心の弱さをどこまでも反映していたんだと思う。でも私は、今でもあの日のことを後悔しているんだよ。いつかお前に面と向かって、しっかりと謝りたい。謝りたいと思っているんだ。
 実は今日帰る途中にも近くの祭りに寄って、ひょっとこのお面を買ったんだ。これが今日買ってきた、ほやほやのひょっとこだよ。活きの良さそうな尖がった口がとてもキュートだろう。今回のお面はとても上物なんだ。お前にもこのたこの顔の素晴らしさを、心行くまで教えてやりたいな。
 お母さん。
 和人。
 私ももう、逃げたりしないよ。このお面を、こうやって被って、お前たちにこれから、心の底からただいまと言うよ。
 でも、今はもう少しだけ、このまま君たちの姿を、眺めさせてくれないか。
 情けないわたしたちは、いつまでも夕暮れに赤く染まっていよう。
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