sunny sundae smile

文字数 6,629文字

 淡い陽の光を受けて白い指先が動く。鼻をつく冷たい潮風。視線の先で軽やかに踊るローファー。
 できることなら抱き合って海の底に沈んでしまいたい。
 眼を瞑ってそのまま一緒に眠りたい。


 *


 「ちょっと待ってよ」
 平日の昼間授業をサボった僕の声は、何気ない瀬戸内海の潮風にかき消された。
 吐き出す息はまだ白くないけれど、コートが必要な日も(まば)らにあるくらいには肌寒くなってきた秋の終わり。ブレザーの制服姿にマフラーを巻いた広瀬真理子(ひろせまりこ)は、ヒビ割れの目立つアスファルトの雑草を避けながら、自己中心的な足取りでふらふらと歩いていく。その遥か後ろを二人分のカバンを持った僕が懸命に追いかけていく。
 美術の用意が入っている僕のカバンはとてもかさ張って、歩くたびに太腿にぶつかって痛い。広瀬のカバンはそれとは対照的に相変わらず軽くてペシャンコだ。覚束ない足取りのまま、彼女を見失わないようになんとか後をついていく。行先は防波堤のもっと先だ。そして、そこに行くとき、僕はいつも彼女を追いかけている。
 仄かに息を荒げながら上を向くと、空は綺麗な秋晴れだった。冷たい風が通り抜けるたび火照ったブレザーの中を程よく冷やしてくれる。右の方を見下ろすと防波堤の2メートル下はすぐ海。定期的に押し寄せる白い波は、消波ブロックに当たって粉々に砕けるのをいつまでも止めなかった。
 最寄りの駅からは、ひたすら南に歩けばここまで来ることができる。だけど平日の昼間からわざわざ来る人はほとんどいなかった。潮流の関係で地元の釣り人にも不人気なスポットだそうだ。そういうわけで、周りを見渡してみても犬の散歩をしている近所のおじいちゃんくらいしか人は居ない。
 そうこうしているうちに前を歩く広瀬との距離がどんどんと離れていった。まるで僕の存在など初めから知らなかったかのように、彼女は自分のペースを崩すことなく歩いていく。
 ちょっと待ってよ、なんていう声が広瀬に届くとは僕自身も思っていない。今まで返事が返ってきたことなんて一度もなかった。だからこの発声は至って個人的で生理的な発声だ。あまりにも身体がしんどいから発作的に言ってしまっただけのことだった。それで僕の気持ちが少しは晴れるのだから問題ない。幸い彼女からのクレームはまだない。
 歩いていると首の後ろがちりちりと痛む。3日前の放課後ここに急遽呼び出されたとき、広瀬が僕の首に思い切りカッターを押し付けてきたからだ。最近流行りの漫画の真似なんて言って、僕が疲れて防波堤で胡坐(あぐら)を書いているところを突然切られた。痛い、とあまりの驚きと恐怖で咄嗟に叫んだ僕の真上で、広瀬は何を悪びれる訳でもなく無邪気に笑った。


 僕は学校の中では一切の存在がなかった。
 昔からそうなのだけれど、僕の話をまともに聞いてくれるクラスメートは一人もいなかった。
 僕と会話をするといつも相手は面倒臭そうな顔をして、話を半分も聞くことなく会話は途中で中断された。なぜなのか自分にはまったく理由が分からなかった。しかし、かと言っていじめの標的になってしまうということもなかった。
 僕のクラスのいじめの標的は既に男女二人が担当していて、その二人が男子と女子それぞれの不平不満を一手に引き受けていた。色々な学区から集まり詰め込まれたクラスという集団は
 、そんな色々な役割分担があって初めて成り立っているのだと思った。
 その中で、僕が何かの役割を与えられることはなかった。
 担任の教師でさえも、たまに出席をとることを意図的に終了することがあった。脇坂祐樹(わきさかゆうき)。出席番号が最後の僕の名前だけを省略することがよくあり、そういう時はとても戸惑った。なぜかというと、僕の手前の順番までで担任は名前を読み上げるのを止め「それじゃ、みんな居るな。」と話す担任の目が、僕をいつも見ていたからだった。見ながら僕に向かって小さく頷いて、皆に授業の周知を続ける。僕が居ることを分かっているけれど、時間の都合上省略する、という意思表示だった。僕はクラスの中でそういう位置づけなのだと、何度かそういうことが続いてから分かった。
 僕としては、色々と話ができる友達がいないことは残念だったけれど、それは既に小学校のときからで、今に始まったことではない分すぐに諦めがついた。
 僕は明るく健康的な活動をする方ではないし、だからと言って趣味としてを語れるようなものも何一つ持っていなかった。だから誰とも話題を共有することが出来なかった。僕自身が世間のあらゆる物事に疎い人間だったからだ。普段家に帰ると僕はテレビをつけた。過去の歌番組の録画を何度も見返すだけの毎日を過ごしていた。


 広瀬は同じ学校のクラスメートだ。高校二年になって初めて同じクラスになった。
 広瀬と僕には何の接点もなかった。
 この高校に進学してからも、学校での生活ルーチンは全く違った。
 広瀬はクラスの中でも一番人気のあるグループに所属していて、楽しそうな声を上げながらクラス内を明るい雰囲気にしていた。僕の通う公立高校は県内では中の上と言われるレベルの高校だった。その中で広瀬はそれなりの成績を上げる生徒だったが、高二の夏休み前辺りから欠席する回数が増えていき、それに比例して成績も下降線を辿っていった。
 周りのクラスメイトの間では、広瀬が大学生とつるんでいるところを目撃したとか、夜の街に頻繁に表れているとか、色々な話が飛び交っていた。その噂がクラス内での評価に更に輪を掛けることとなり、9月と10月は出席自体がまばらになっていた。
 今でも担任が家庭訪問などをして生活改善を指導しているみたいだけれど、そもそも広瀬が家に帰っていなかったりと効果はさほど出ていないようだった。


 「何やってるの?」
 最初に声を掛けてきたのは広瀬だった。
 自分の席で読みかけの古典文学小説から目を上げると、そこには久しぶりに登校してきた広瀬の笑顔があった。
 「え?…えっ、… …と」
 クラスメイトに話しかけられること自体、ほぼ無い日常を送る僕にとっては、その突然の呼び掛けにすぐ対応することが出来ない。行き場を失った視線が広瀬と小説の間を何度も行き来する。それを見た広瀬が手を叩いて大きな声で笑う。
 「アハ。何、挙動(きょど)ってんの、あんた。変な奴」
 その光景を見た他のクラスメイトは、僕の挙動についてよりも、広瀬が僕に話し掛けたという事実の方に強い関心を持ったようだった。だけれど、広瀬は周りの視線なんかお構いなしで僕に話し掛けてくる。
 「ねぇ、あんたさ。今日の学校終わってから暇?時間あるんだったら、ちょっと付き合ってよ」
 広瀬が机の上に腰かけて耳打ちしてきた。僕は最初、何を言われているのか分からなかった。「海沿いの〇△駅で16時に待ってるから」
 そう言って広瀬は教室を出て行った。早退だった。そして、それが広瀬と僕の最初の出会いだった。広瀬は僕を、防波堤に連れて行った。


 10月も終わりに近づく頃にはクラス内での広瀬への接し方も変わっていた。
 最初は仲が良かったクラスメイトたちもいつの間にか広瀬と距離を置くようになっていた。彼女が何を考えているのか分からなくなったというのが理由だ。
 そして、それについては僕もずっと感じていることだった。
 広瀬は僕を防波堤に呼ぶようになってからも、それが何故なのかという問いに答えることはなかった。一度、面と向かって聞いてみたことがあった。
 「広瀬はさ、なんで僕なんかをここに誘うの?」
 広瀬はそれについて何も答えず、目も合わせず只携帯をいじっているだけだった。それにも関わらず、防波堤に行くときは決まって二人きりだった。まぁ、僕意外の人とも来ているのかもしれないけれど。


 「はぁ、はぁ。着いた。」
 駅から防波堤までの距離はさほど遠い訳ではない。ただ、防波堤にたどり着いて、そこから広瀬のお気に入りの場所までが遠いのだ。
 僕はようやく到着した場所で、二人分のカバンを脇に置いてひび割れている地面にべたりと座り込んだ。上着を脱いでハンカチでおでこの汗を拭う。カッターシャツの下の肌着もじっとりとしていた。海に目を移すと、遠くには水平線が見えて、辺りには漁船がいくつも通っている。
 息を落ち着かせながら、視線の先に居る広瀬を見る。僕と同じように地面に座って携帯を眺めている。広瀬の顔は凛としていた。そして、俯いているので口元までマフラーに埋もれている。
 「ねぇー!」
 広瀬のカバンを右手で持ち上げながら、声を掛ける。持ち上げたついでに軽く振ってみた。中身が空っぽの音がした。広瀬は相変わらずの無視だ。
 最初に誘われて以来彼女はずっとこの調子だった。こちらが呼びかけても何の応答もしない。そして、何か自分の用事が終わって気が変わると、向こうから唐突に話しかけてくる。
 最初の二三回はこの雰囲気が分からず、手持ち無沙汰で所在なさげに過ごしたのだけれど、僕の方もだんだんと要領が分かってきた。何のことはない。無視されて一人で過ごすのは僕の日常だった。要は過ごす場所が教室かここかの違いだけだ。そう思いついてからは、僕の方からもわざわざ干渉することはしないで過ごすようになった。平たく言えば、ここは広瀬と僕の幽霊部の部室みたいなものだった。
 反応のないのを確認してから、僕は自分のカバンの中から古典文学小説を取り出して読み始めた。涼しい秋晴れの下、授業をサボった防波堤部の二人。


 「ちょっと」
 多分、日除けのつもりだろう。おでこの上に置いていた手を少しずらすと、陽の光と一緒に広瀬の顔が目に入ってきた。僕はいつの間にか仰向けになって眠っていた。
 「なに?」
 眩しさに目を細めながら、そのままの態勢で広瀬に聞く。
 「なんか、ムシャクシャしてきちゃった」
 「ムシャクシャ?… …知らないよ、そんなの」
 「あんた、今日、何か授業あったの?」
 「授業あったのって、そりゃあるよ」
 「見せてよ」
 見せてよ、と広瀬が横を向いて、肩まである黒髪に陽の光が滑るように反射した時、僕は嫌な予感がして飛び起きた。
 でも、その時にはもう遅かった。
 広瀬は僕のカバンを胸の前で見せつけるように持って、こちらに向かって満面の笑みを浮かべていた。
 「今日って何の授業?カバン、すっごい重いね。」
 「ちょっと、やめろよ!さっさと返せ」
 「まぁ、あんたに聞かなくっても、カバン開けたら分かるんだけどねーっと。」
 そう言うと、広瀬はカバンに手を突っ込みながら物色し始めた。僕は走ってカバンを取り返そうとしたけど、広瀬は同じだけ距離をとって逃げた。彼女はかなり足が速い。
 「そんなことしても無駄だよ。アハハ。えーっと、これはなんだ?」
 「やめろよ!」
 「数学のテストでした。そっか、期末だもんね。えーっとですね。アハ。脇坂祐樹、えーっと、40点。ふーん。あんたって、バカなんだね。根暗でバカとか、マジ終わってる。」
 「やめろよ!返せよ!」
 「アハハ。こんな紙屑、要るかぁ!」
 右手で僕の回答用紙を持っていた広瀬は、そのまま回答用紙をクシャクシャに握りつぶして、海に投げ捨てた。
 「あぁー…」
 回答用紙は海風に煽られながら、弱弱しい軌道を描いて海面に落ちていった。僕はそれを防波堤の端っこまで追いかけて、水面に消える最後まで見送った。母さんになんて言えば良いんだろう。また言い訳を考えなければ。
 「えーっと、それで、… …きっとカバンの重い原因は、これなんだよね…」
 その様子から見るに、広瀬はカバンの中から美術の用意を取り出そうとしていた。
 「あ、ちょっと、やめて!お願い、お願いします。それは止めて。親に頼んで買ってもらった、高い物なんだ。」
 それは選択科目のために、親に頼んで買ってもらった油絵の画材一式だった。一度母親に誘われて行った個展で、柄にも無く感動してしまった僕は、その勢いのまま高価な画材セットを買ってもらった。さすがにこれには触れてほしくなかった。
 「何これ。絵具…なのかな。油絵?あんたが絵、描くの?」
 「そうだよ!お願いだから、それには手をつけないで。他の物は別に良いから。」
 僕の声が聞こえないのか、広瀬はとても丁寧な手つきで、色とりどりの絵具が入った箱を取り出し、空中で両手を離した。地面に箱が鈍い音を立ててぶつかり、絵具がそこら中に散乱した。
 「やめてってば!」
 「アハハ。バーカ。あんたがやめてって言って、私が止めるわけないでしょ。何回おんなじことされてるのよ。」
 それから広瀬は、絵具以外の道具一式が入った小さな木箱を取り出した。その笑顔は本当に無邪気だった。僕はなんとかしようと思い、広瀬に向かって全速力で走った。
 そのとき、広瀬の右手が大きく半円を描き、木箱が海へ飛んだ。
 海の上で木箱のふたが開いて、その中から筆やペインティングオイルやパレットが、バラバラになって宙を舞って、ゆっくりと海面に落ちた。少しの間、それらは泡と共に海面をふらふらと彷徨っていたけれど、その後は飽きたように沈んでいった。
 「あぁー… …」
 僕が落胆している隣で、広瀬はとても満足気な顔をして大きく伸びをした。
 「あー、面白かった。気晴らし出来たわ。ありがと。んじゃ、私、先帰るね。」
 そういうと広瀬は自分のペシャンコのカバンを持って、またとぼとぼと携帯に目を落としながら駅の方へ歩いていった。


 最初に防波堤に来た頃だから、10月の終わりくらいかもしれない。
 広瀬が一度、僕に自身の身の上を掻い摘んで話したことがあった。
 広瀬の両親は仮面家族だった。
 父親はどこかの女と不倫していた。それを広瀬が知ったきっかけは、たまたま一人で留守番していた時にあった不倫相手からの電話だった。広瀬はそのことにとてもショックを受けたそうだけど、だからと言って母親に同情することもなかった。なぜなら、母親の方も自身の務め先の会社の同僚と不倫していたからだ。広瀬は一度、会社帰りの母親を尾行したことがあった。どうしても本当のことを知りたかった、と言っていた。
 「ウチの家族、嘘、ばっかでさ。なのにその嘘つきの人たちが、品行方正な顔を作って私に言うの。色んなこと、例えば正しいことや間違ったことや、優しさについて。なんか、私を教育しようとするんだよね。聞いてらんなくない?この人たちは一体何を言っているんだろう。本当のことってなんだろ、って。分かんなくなっちゃった。」
 今広瀬はセフレが3人いるらしい。一人は30代の会社員で、一人は大学生。もう一人のことは教えてくれなかった。気が向くと広瀬は、そういうことを僕の方を見ないでぽつぽつと喋ってくれた。それでそういうとき、僕は気の利いたこと何一つ言えなかった。神妙な顔つきで聞いていると、何、一丁前な顔して聞いてるのよ、バカじゃないの、と言われ傘で背中を強く叩かれた。


 僕は、家庭の中ではまだしも世間に出ると何も役割がなかった。
 人には無視されていじめの対象にもなることがなかった。街にも学校にも、周りには人がこんなに居るのにも関わらず、僕の世界に他人は居なかった。そこに突然、広瀬が現れた。
 広瀬が僕に対する気持ちは、きっと何もない。ただの利用しやすい人間だからだろう。呼べば物も言わずついていき、自分の思い通りに僕に対して気分を発散できる。でも、それで良いのかなと僕は思う。
 広瀬が僕をどんな詰まらない思いで呼んでいたとしても、彼女が求めてきてくれる限り、僕はそれに答えようかなと思った。そうすることで、何もない僕は自分の存在を確認できるから。
 彼女が僕にする数々のことで、僕はとても傷ついていくけど、でもそれでもいいかなと思う。広瀬の心が傷ついていて、僕の心も傷ついている。そのお互いの隙間が、ささやかな依存で埋まっていくのなら、僕はどんなに広瀬に蔑まれようとも関係なかった。秋晴れの中、僕たちの傷口に冷たく吹く潮風は、ちょっとだけ()みた。

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