可視光線

文字数 2,897文字

「ゆっくり休んでいてください」
 そういって若月さんは部屋から出ていった。
 わたしはおとなしく布団をかぶって両手で顔を覆った。すごく熱い。昨日からずっとこんな状態で、たぶんものすごくひどい顔をしている。そんな顔を若月さんに全部見られたなんて。恥ずかしくてまた泣いてしまいそうで。

 いっしょにお風呂に入りましょう、と信じられないことをいわれて、ほんとうに若月さんとお風呂に入ることになって。身体を洗ってあげます、という若月さんの言葉にとんでもないと思ったけれど、身体に力が入らなくて自分ではどうしようもなくて。
 結局、若月さんのいうとおり、髪の毛から足の先まで洗ってもらうことになって。
 若月さんはとても優しかった。
 申し訳なくなるくらいに、すごく丁寧に身体を洗ってくれて。でも、途中からなんだか雲行きが怪しくなってきて。
 え、え、え、と動揺しているうちにそれはどんどんエスカレートしてきて、いや、といってもやめてくれなくて。
 背後から抱き込まれて、少し掠れた声で「いやですか? ほんとうに?」とささやかれると、どきどきしてわけがわからなくなって、また泣いてしまって。
「すみません。あなたがあまりにも可愛らしくて、つい」
 と謝りながらそっとキスをしてくる若月さんは、ほんとうに意地悪だと思った。

 台所をお借りします、といっていたので、若月さんは食事の支度をしているのだと思う。そういえば、昨日のお昼からなにも食べていない。お腹が空いていた。
 なにかお手伝いしないと、と思うのだけれど、身体が動かない。痛みはないけれど、全身が熱くてとてもだるい。
 若月さんと、その、そういうことをしたあとは、こんなふうになることが多いけれど、若月さんは大丈夫なのかな。疲れているんじゃないのだろうか。
 ときどきものすごく意地悪だけど、若月さんはとても優しい。
 なんとか起きあがろうとしたけれどやっぱり無理で。諦めて布団に突っ伏したとき、枕元にある眼鏡に気づいた。若月さんのものだ。
 昨日、この部屋に入ってきたときに外してからずっとそのままだった。お風呂に入っているあいだはともかくとして、いまは眼鏡がなくても平気なのだろうか。
 眼鏡をしていないときの若月さんは、少し、怖い。
 お付き合いをはじめて、こうしてふたりで過ごすようになってから気づいたのだけど、若月さんはいつもまっすぐに相手を見つめる。ちょっとたじろいでしまうくらいに強い眼差しで。
 眼鏡を外すと、それがさらに顕著になる。ふだんは穏やかな雰囲気をまとっているのに、レンズ一枚を取り払っただけで印象ががらりと変わる。鋭さが際立つ。もともと有能なひとだとは思っていたけれど、その眼差しをまえにするとあらためてそれを実感させられる。
 以前、小沢さんからちらりと聞いた、よその会社にいた若月さんを所長が引き抜いてきたという話を思い出す。

 手を伸ばして眼鏡を引き寄せる。
 勝手に触ってはいけないと思うけれど、いまは好奇心のほうが勝っていた。眼鏡を必要としないわたしはこうして眼鏡に触れる機会がない。折りたたまれていた(つる)を広げて顔に近づけ、レンズを覗き込む。 

 …………え。

 レンズ越しに天井を見あげて、わたしは思わず瞬きを繰り返す。透明なガラスの向こうに見慣れた風景がはっきりと見えた。

「お待たせしました」
 しばらくして、お盆を手にした若月さんが入ってくる。少しまえからとてもいい匂いが漂っていた。
 布団のそばにお盆を置いて、若月さんがわたしを抱き起こしてくれる。そのままわたしの背後にまわると、後ろから支えるようにして膝のあいだにわたしを座らせた。
「わ、若月さん?」
「違うでしょう?」
 訂正されて顔が熱くなる。
「……っ、す、ばる、さん」
 そういい直すと、若月さんは満足したらしく小さく息を吐くようにして笑った。
「冷蔵庫のなかのものと、食器をお借りしました」
 わたしの狼狽(ろうばい)をものともせず淡々とそういうと、腕のなかにわたしを抱き込んだまま、お盆にのせてあった大きな丸皿を手に取る。そこには、まるまると形よくくるまれたオムライスがどっしりとかまえていた。状況を忘れて思わず目が釘づけになる。オムライスはわたしの好物だけど、こんなにきれいにぽってりと卵でくるむのは至難のわざだ。わたしにはできない。
「おいしそう」
 つぶやくと、背後で若月さんが微かに笑う気配がした。つやつやとした黄色いふくらみにそっとスプーンを入れると、とろりと半熟の卵がとろけてチキンライスと絡みあう。ひと口サイズに切り分けたそれをスプーンに掬いとり、わたしの口許に運んでくる。

「はい、あーんして」
「ええっ」
 小さなこどもにするようにさりげなくうながされてさらに狼狽するわたしに、若月さんが優しくささやきかけてくる。
「熱いうちに食べてもらいたいんです。桃さん、ほら」
 唇に熱い卵が触れて、反射的に口を開いた隙間からスプーンが差し込まれる。
「ん、ん」
 舌のうえで、とろとろの卵と甘いチキンライスが混ざりあう。すごく、おいしい。
「おいしいですか?」
 尋ねられて、こくこくと何度もうなずく。
「よかった。たくさん食べてくださいね」
 あまりのおいしさに、こうして食べさせてもらうことの抵抗も薄れてわたしは鳥の雛のようにおとなしく口を開いた。そのあいまに、若月さんも同じスプーンで同じオムライスを食べて。
 すっかりお腹がいっぱいになると、なんだか眠たくなってきて。
 今度は服を着たまま、若月さんの腕に抱かれてうとうととまどろんだ。若月さんの手が、ゆっくりとわたしの髪を撫でる。半分眠りに落ちながら、わたしはふと思い出して尋ねた。

「眼鏡」
「はい?」
「どうして、眼鏡、かけているんですか?」
 若月さんの手が止まる。
「ばれてしまいましたか」
 少し困ったような声でつぶやくと、ふたたびわたしの頭を撫ではじめる。
 若月さんの眼鏡には度が入っていなかった。つまり、視力を補うためにかけているわけじゃない。それがなにを意味するのか、わたしにはわからなかった。
「ぼくは、きつい目をしているでしょう」
「え」
「自分ではそんなつもりはないのですが、ひとによっては、不要な刺激を与えてしまうようで。余計な摩擦を起こさないために、フィルター代わりに使っているんです。レンズ一枚隔てただけで、かなりの効果があるようですから」
 それに、と若月さんは続ける。
「ぼく自身、外界とのあいだに一枚、壁があったほうが落ち着くんです」
 顔をあげると、若月さんは穏やかに笑っていた。
「すみません、わたし」
「どうして謝るんです? 襲いますよ」
「…………っ」
 その台詞にびくっと身を退くと「冗談ですよ」と若月さんは笑って、そしてさらりといった。
「ぼくがひとまえで眼鏡を外すのは、あなたのまえだけです」
「え」
 すぐにはその意味がわからなかったけれど、理解するより先になぜか身体が反応して、頭に血がのぼった。そんなわたしを見つめながら、若月さんがいたずらっぽい笑みを浮かべてささやいた。
「眼鏡があると、キスをするとき邪魔になりますからね」

 …………わ、若月さんって。
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