第3話

文字数 2,669文字

 わたしが生まれ育ったのは山奥の田舎で、最寄り駅まで車で30分以上かかるような辺鄙なところだった。
 だから、最初に街へ出たときはとても驚いた。圧倒的なひとの多さと、なにより、朝の通勤電車の混雑具合にはほんとうに度肝を抜かれた。
 わたしは毎朝その満員の電車に運ばれて職場へ出勤している。
 この密集ぶりは異常だと思う。見ず知らずのひとたちと触れ合うほどの至近距離で立ちつづけるなんて、いまだにとても慣れることはできない。
 それに、ときどき、さらに不快な目に遭う。
 最初は、たまたま身体が接触したのだと思った。この状況では多少の摩擦はやむを得ない。だけど、そうではなく、明らかな意図を持って身体に触れてくるひとがいる。痴漢だ。
 背後から身体を撫でられて、わたしはびくっと身を強張らせる。周囲にはこれだけたくさんのひとがいるのだから、助けを求めればきっとだれかが手を貸してくれるはず、と思う。
 だけど、声が出せない。
 自分のすぐうしろにそんな破廉恥なことをする人間がいるのだと思うと、こわくて振り向けないし抵抗すらできない。恐怖で涙がにじんでくる。目的地に着くまでの時間が異様に長く感じられる。自分に非はないはずなのに、おとなしくされるがままになっているのが情けなくて悔しい。
 ドアの隅に追い詰められていたわたしの顔の横に、ふいに手が伸びてきた。
「失礼」
 わたしと背後の人物とのあいだに割り込んできたひとがいた。身体に触れていた不快な感触がなくなる。
 だれか、助けてくれた?
 おそるおそる振り返ると、驚いたことにそこには若月さんがいた。どうして、と思うより先に、見知ったひとに出会えた安堵感でいっぱいになって言葉が出てこない。
 若月さんは壁に片手をついたまま、人波からわたしを庇うように、わずかながら身動きできる空間を作ってくれている。わたしはうつむいて彼に向き直ると、壁に背中を預けてあふれてきた涙を拭う。
 お礼をいわなくちゃと思うのに、喉が震えて声が出てこない。
 電車が揺れた拍子に若月さんと身体が触れる。「すみません」と小声で謝る彼に、目を伏せたまま首を振って答える。ぎゅうぎゅう詰めの車内では自分の身体を支えるのが精いっぱいなはずなのに、彼はわたしを庇おうとしてくれている。
 その胸に顔を埋めるようにして呼吸を整えているうちに、少しずつ感情が落ち着いてきた。
 職場のある街の駅で電車を降りると、若月さんは改札へ向かうひとの流れからわたしを連れ出し、気遣わしげに顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか」
「はい。すみません。助けてくださってありがとうございます」
「いえ、もっと早く気付いていればよかった」
 その言葉に首を振る。あの場所に彼がいて助けてくれたというだけでもうじゅうぶんだった。もし自分ひとりでずっと耐えなければならなかったとしたら。そう考えただけでぞっとする。
「不躾なことを伺いますが、もしかして、こういうこと、今までにもありましたか」
 若月さんの問いに、少しためらってからうなずく。
「桜庭さん」
「は、はい」
 あらたまって名前を呼ばれてびくっとする。彼はなんだか厳しい顔付きをしてわたしを見下ろしている。
 つづく彼の言葉は予想外のもので。
「ご迷惑でなければ、これから朝はご一緒させてください」
「え?」
「ぼくは桜庭さんよりひとつまえの駅から乗っているので、電車と車両さえ決めておけばご一緒できます。男のぼくがそばにいれば抑止力にはなると思うし、もし万が一、今日のようなことが起きても、今度は相手を逃がしません。絶対に」
 思いがけない提案に、わたしは茫然と彼を見あげる。守ってくれる、といわれているのだと理解して動揺した。
「え、いえ、そんなわざわざ」
「ご迷惑ですか」
「いえ、迷惑なんて、そんなことは」
「ああいう輩が存在するのは同じ男として非常に不愉快です。ましてやあなたがその被害に遭うなんて、考えただけでも許せません。どうか、ぼくのわがままだと思って、きいていただけませんか」
 助けてもらう立場なのはわたしのほうなのに、どうして若月さんがわたしにお願いしているのかわからない。わからないながらも、引きずられるようにしてわたしはうなずいていた。
「ありがとうございます」
 彼はほっとしたように表情を和らげた。

 その日のお昼休み。
 いつものように給湯室でお茶の用意をしていると小沢さんがやってきた。
「いつもありがとう。手伝うわ」
「ありがとうございます」
 きれいに整えられた小沢さんの爪に見惚れていると「ねえ」と声をかけられた。
「はい」
「もし触れられたくないことだったらごめんなさい。でも、気になるから単刀直入に聞くわね。今朝、泣いていたでしょう?なにかあったの」
 わたしはとっさに目を伏せる。
 あのあと、化粧室で顔を直してから出勤したのだけど、小沢さんにはばれていたらしい。うつむいたまま、わたしは正直に答えた。
「あの、電車で、その」
 勘のいい彼女はすぐに察してくれた。
「ひょっとして、痴漢?」
「はい」
「そうだったの。それは朝からいやな目に遭ったわね。思い出させてごめんなさい」
「いえ。若月さんが助けてくださったので」
「え?若月が?」
 小沢さんは意外そうな声で聞き返してきた。
 彼女は自分より後輩の男性に対しては名字を呼び捨てにする。若月さん以外に対象者がふたりいるのだけど、ふたりとも小沢さんにそう呼ばれるたびにちょっと嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「はい。まさか若月さんが同じ電車に乗っていらっしゃるとは知らなかったので驚きました。でも、おかげですごく助かりました」
 小沢さんはなにかを考えるような顔でわたしを見て、ひとりでうんうんとうなずいている。なんだろう。
「若月さんって、すごくやさしいですよね」
 今朝のことを思い出しながらわたしはつぶやく。
「ああ、やさしいというか、気配り上手よね。彼、周囲をよく観察してると思うわ。仕事もできるしね。最初はほかの会社にいたのを、うちの所長が気に入って口説き落として引っ張ってきたくらいだもの」
 小沢さんの話は初耳だった。
「そうだったんですか」
「そうなのよ。今どきの若い男にしてはなかなか骨があるわね。あたし、最近よくいるような、のらりくらりとしたお坊ちゃんタイプを見ると心底いらつくのよ。頼りないったら」
「はあ」
「そういえば、桜庭さんは彼氏いるの?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み