三週間後 第1話

文字数 3,826文字

 若月さんと付き合うことになってから約三週間。
 師走はじめの週末を利用して、なぜか里帰りをすることになり、今わたしは電車に揺られている。
 隣には若月さんがいて。
 窓際の席に座っているわたしがふとそちらを見るたびに目が合う。
「あの、席代わりましょうか」
「どうしてです?」
「だって若月さん、ずっとこちらを見ていらっしゃるから、外の景色が気になるのかなと思って」
 わたしがそういうと彼は目を細めて笑った。
「気になるのは景色ではなくあなたです」
 臆面もなくいわれてわたしは耳まで赤くなる。あわてて視線を逸らして窓に額を押し付ける。
 若月さんって。
 付き合いはじめてからの若月さんはずっとこんなかんじで、ふたりきりになるととたんに甘い言葉をささやいてくる。それも、からかっているふうでもなく、至ってまじめな顔付きでそんなことをいうので、そのたびにわたしはどうしていいのかわからずに狼狽してしまう。
 今回の里帰りも若月さんの提案だった。
 彼は最初から、わたしの祖父母に挨拶に行きたいといってはいたけれど、まさかこんなに早くその日が来るとは思ってもいなかった。
 若月さんはそういうところはとくにきっちりしていて、あれよあれよというまに段取りが決まってしまったのだ。
 そうして今に至るわけで。
 新幹線で広島駅まで来たあと、在来線に乗り換えてさらに移動している。実家の最寄り駅まで智兄が迎えに来てくれることになっていた。
「遠くてすみません。お疲れじゃありませんか」
「いえ。遠征はひさしぶりなので楽しいです。それに、あなたと一緒なら何時間でもこのままでかまいません」
「……っ」
「ですが、実は少し緊張しています。手を握ってもいいですか」
 若月さんの言葉に驚いて顔をあげる。彼の表情はふだんと変わりなく見える、けれど。交際相手の家族のもとに挨拶に行くなんて、それはたしかに緊張するだろう。逆の立場だったら、わたしも今以上にドキドキしていると思う。
 うなずいたわたしの手を掴む指先はとても冷たい。心配になって顔を覗き込むと、若月さんは神妙な顔付きをしていった。
「緊張が解けるまじないがあるのですが、お願いしてもいいですか」
「え、はい、あの、わたしでお役に立てるなら」
 若月さんの口からおまじないなんて言葉が出てきたことにびっくりする。驚いたわたしに彼が顔を近付けてくる。え、と思った瞬間、唇に柔らかいものが触れた。二度三度と軽く唇を重ねて、若月さんはいたずらっぽく笑った。
「わ、若月さん?」
「ご馳走さまです」
 しれっとしたようすでつぶやく彼に、わたしはぐったりと脱力する。
 緊張なんて絶対にうそだ。真っ赤な顔で恨めしく見あげるわたしに、彼はにっこりと笑ってささやいた。
「そんな顔をされると、もっとしたくなります」
 若月さんって。
 そんなことをしているうちに最寄り駅に到着した。

 今日の智兄はふだん着で、見慣れたその姿にわたしはほっとする。スーツ姿の智兄なんて冠婚葬祭の席でしか見たことがないので、先日、職場にスーツ姿で訪ねて来たときには驚いた。一般企業に就職したと聞いていたから、東京では毎日スーツを着ていたのだろうけれど、そのころの智兄をわたしは知らない。
「ずいぶん山奥の田舎で驚かれたでしょう」
 ハンドルを握る智兄が後部席の若月さんに尋ねる。二度目の対面なので、前回よりはいくぶん気安い雰囲気だった。
 若月さんは窓から流れる景色を眺めて答える。
「いえ、一時期、ぼくが住んでいたところに似ています。懐かしい感じがします」
「そうですか。それならよかった」
 ふつうならそこで「田舎はどちらですか」という話になるだろう。でも智兄はそうしないで違う話題を振ってきた。
 あれ、と思う。
 若月さんには実家がない。子どものころから親戚の家を転々としてきたのだと聞いたことがある。けれど、わたしはそのことを祖父母はもちろん智兄にも話していない。たまたまかもしれないけれど、智兄はそれを知っていて配慮をしたように感じられた。
 車に揺られてしばらくすると、ようやく祖父母の家が見えてきた。
 このあたり一帯は山を切り開いて人が住めるように均した土地なので、高低の差が激しい。祖父母の家は山の中程にあり、たどり着くまでにひたすら坂道をのぼらなくてはいけない。子どものときは毎日この坂道を往復して学校へ通ったものだ。
 智兄も同じことを思い出していたらしく、笑いを含んだ声でいった。
「桃は子どものころ、この坂道でよう転びよったなあ」
「と、智兄っ」
「おまえはいつも足許がふらふらしよったけえの。顔からばったり転んで大泣きしよった」
「そうなんですか」
 そういう若月さんの声も心なしか笑っている。恥ずかしい。智兄のバカ。真っ赤になってうつむいていると、そっと手を握られた。びっくりして顔をあげると隣に座った若月さんがわたしを見ている。
 智兄はまえを向いているとはいえ、身内や知人がいる場でそんなふうに触れられることは今までなかったので、わたしはとっさに手を引いた。けれど、若月さんは手に力を込めて離してくれない。わたしはますます赤くなって目を伏せる。
「着きましたよ」
 そういって智兄が車を停めるまで、若月さんはわたしの手を握ったまま、素知らぬ顔をして智兄と会話をつづけていた。
 若月さんって。

 玄関先では祖母が待っていた。いつもはもんぺに割烹着という格好の祖母は、今日は珍しくきっちりと着物を着込んでいる。
「ただいま、おばあちゃん」
「お帰り」
「えっと、こちらの方が、お話ししていた若月さんです」
 なんといって紹介すればいいのかわからず、ぎこちない態度になってしまう。
「まあ遠いところをよういらしてくださいました。桃の祖母の椿と申します」
「若月昴と申します。このたびはご無理を申しまして、わざわざお時間を割いていただきありがとうございます」
 ふたりで深々と頭を下げている。
「長旅でお疲れでしょう。さ、どうぞお上がりください」
「恐れ入ります。お邪魔致します」
 居間ではこれまた珍しく和服を着込んだ祖父が、いつものように厳めしい顔付きで座っていた。
 若月さんはそつなく挨拶を済ませて、すすめられた場所に正座する。
 三週間ほどまえに乱心のあまり寝込んだという祖父は、そんなことはおくびにも出さず淡々としたようすで若月さんと話している。
「いつも孫がお世話になっているそうで。田舎育ちでようものを知らんので、会社でもご迷惑をおかけしとるんじゃありませんか」
「いえ、桜庭さんはとてもまじめで一生懸命な方なので、こちらのほうが教えていただくことが多々あります。年下のぼくがこんなことをいうのは僭越ですが」
「え」
 若月さんの隣でわたしは思わず声をあげてしまう。祖父がじろりとこちらを見る。若月さんに視線を戻して尋ねた。
「失礼ですが若月さん、お歳は」
「今年24になりました」
「ええっ」
「桃、うるさいぞ」
「ご、ごめんなさい」
 わたしはびっくりして、まじまじと若月さんを見つめる。絶対、年上だと思ってた。
「ずいぶん落ち着いていらっしゃる。桃のほうが年下に見えるな」
「恐れ入ります」
「まだお若いのに、わざわざこうして挨拶に見えるとは感心なこと。ご用件を伺いましょう」
祖父の言葉に、若月さんは居住まいを正していった。
「桃さんとお付き合いをさせていただいております。そのお許しをいただきたいと思い、こちらに伺いました」
「許さん、といったら諦めるのかね」
「いえ。お許しをいただけるまで参ります」
 祖父は黙って若月さんを見据える。祖父はその年代のひとにしては長身で矍鑠としている。若月さんもすらりとしていて姿勢が良いので、そんなふたりが無言で向き合うようすはなんだか迫力がある。
 息を詰めて見守るわたしに祖父が尋ねた。
「桃は、若月さんが好きなのか」
「えっ」
 突然のことに動揺してわたしは祖父と若月さんの顔を交互に見る。ふたりはじっとわたしを見つめて返事を待っている。
「はい。好き、です」
 蚊の鳴くような声で答えると、祖父が長いため息をつく。
「若月さん」
「はい」
「わしはあんたのことはまだようわからん。が、孫があんたを好きじゃというのならしかたない。ただ、親バカだと思われるじゃろうが、もし、孫を泣かせたり悲しませるようなことをしたら、即刻別れてもらう。それだけは譲れん」
 若月さんは座布団から降りると、そのまま畳に額をつけんばかりの深さで頭を下げる。土下座だ。
「はい。大切にします。ありがとうございます」
 あまりのできごとに驚いて、わたしは呆然と彼を見つめる。手を伸ばせば触れる距離なのに、それができない。手が震えていた。
「顔をあげてください。もう堅苦しい話は抜きにしましょう。若月さん、酒は飲めますか」
「はい」
「それはいい。桃、婆さんにゆうて酒の支度を。智もまだその辺におるんじゃろ。一緒に連れて来い」
「は、はい」
 顔をあげた若月さんと目が合う。彼は微かに笑った。やさしい表情だった。
 わたしは彼になにかいいたいことがあるような気がしたけれど、それからすぐに智兄を交えての酒宴がはじまり、ようやく若月さんとふたりになれたのは、酒豪のはずの祖父と智兄が潰れたあとになってだった。
 この日はじめて知ったこと。
 若月さんが年下だということ。
 そして、彼がどんなに飲んでも顔色ひとつ変えないほどの強者だということ。
 若月さんっていったいなにものなの?
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